シンポジウム「日記からみた戊辰戦争と地域―明治維新150年―」報告

今日のつぶやき
シンポジウム「日記からみた戊辰戦争と地域―明治維新150年―」報告

先に報告しましたとおり、昨日21日は、東海大学において相武地域史研究会「日記からみた戊辰戦争と地域―明治維新150年―」のシンポジウムでした。今回は、試みとして、Twitterを通じた実況中継をしてみました。Twitterを撮影しましたので、時系列に並べてみましょう。

(1)開会です。歴史学科日本史専攻主任の星野尚文先生によるご挨拶です。

最終的には148名の方にご来場いただきました。これまでの最高です!関係者を含めると160名になります。天候もあまりよくなかったのにありがたいことです。昨日は伊勢原道灌祭りに、小田原では一夜城祭り等々、秋らしくいろんな行事が立て込んでいた中では凄いことです。もっとも、あんまり天気がよかったら、みんな外に出ていただろうし、大雨であったら来てもらえなかっただろうし、ある意味、ちょうどよい天気の悪さだった?!という声も聞かれました(^^;)

(2)まずは、横浜市歴史博物館の小林紀子氏に第1報告として、「江戸近郊農村の戊辰戦争―武蔵国橘樹郡長尾村「鈴木藤助日記」から―」をご報告いただきました。

「鈴木藤助日記」は嘉永6年(1853)のペリー来航を契機として書き始められ、明治22年(1889)までの36年にわたって綴られた貴重な日記です。長尾村は今の川崎市に含まれる村です。江戸にはほど近く、官軍からも旧幕府側からもいろいろと要求が来たみたいですが、あまり緊張感がなくて、鈴木家もどちらかと言えば、江戸での商売のことを気にしていたようで…。これも一つの現実なのでしょう。

(3)次に第2報告として、平塚市博物館の早田旅人氏に「相模神職の戊辰戦争―六所神社鍵取役出縄主水「勤王日記」から―をご報告いただきました。

六所神社は、大磯町国府本郷にある神社です。相模国の総社で、一の宮の寒川神社(寒川町)、二の宮の川匂神社(二宮町)、三の宮の比々多神社(伊勢原市)、四の宮の前鳥神社(平塚市)に平塚八幡宮(平塚市)が、毎年5月5日に六所神社の神揃山(かみそろいやま)に集まって、問答をします。これを国府祭(こうのまち)といいます。それだけ由緒ある神社なのです。その鍵取役を勤めていたのは、国府本郷村ではなく、出縄村(いでなわむら、平塚市)の村民であった出縄主水。神主ではありません。この主水、早田さんの研究ではこの鍵取役をめぐってさまざまな争論を起こしています。そして戊辰戦争というか、官軍の東征にあたっては、公家の白川家を本所とする神祇隊(のち、懲胡隊〈ちょうこたい〉と改名)に入って、神主となることを目指します。動乱期における身上り=身分の上昇の問題として取り上げられていました。もっとも、こうした神主の行動は、静岡の方が有名で、赤心隊、報国隊、蒼龍隊などが結成されています。これらは吉田家配下で、白川家では諸隊の編成が神祇隊くらいしかないこと、神祇隊の形成には大山御師がかかわっていることなど、興味深い話が並んでいました。懲胡隊は解散し、主水は他の諸隊に行って入隊を願いますが、結局叶いません。騒乱期のこうした行動をどう評価するか。もっと議論が必要かもしれません。

(4)10分の休憩を挟んで、第2部パネルディスカッションの始まりです。まずは横浜開港資料館副館長の西川武臣氏からコメントと課題の提示をいただきました。

西川さんの話で興味深かったのは、まず庶民が日記を残すようになった背景としての庶民の識字率です。通常、近世後期の識字率は5割程度と言われていますが、江戸近郊農村では、8割くらいに登るのではないかということ。そのおかげで、有名人ではないこのような市井に生きる人々が日記を残し、そうした地域に生きた人たちの生の息づかいを説き起こすことができると言うことでした。また、①日記にも毎日つけるようなタイプ(仮に日次記〈ひなみき〉としましょう)。「鈴木藤助日記」などですね。②メモなどを残しておき、後からまとめたもの。③同じく下資料があるのだが、ずっと後に編纂されたもの。④特定の目的によって残されたもの。主水の「勤王日記」などがそうですね、などがあるとのこと。いくつかの日記をあげてその特徴と、相模国の地域的特徴についてお話しいただきました。

なお、「記録」という観点から言えば、例えば⑤「風聞集」や⑥「由緒書」などの類も上げることができるでしょう。私も東海大学が所蔵する『幕末風聞集』を翻刻しましたし、これから小田原藩士の記録「吉岡由緒書」を翻刻しますが、これらも広い意味で、「日記」に連なる「記録」かなと思いますし、そうしたものの総体的な位置付けも必要ではないでしょうか。

(5)いよいよパネルディスカッションです。日本史専攻の非常勤講師神谷大介氏を司会として、①江戸時代の「日記」について考える。②地域から見た戊辰層の位置付けという二つのテーマを中心にディスカッションが続きます。

①日記論について言えば、小林さんが言われたように、ペリー来航を機に日記をはじめる例が多いことは興味深いですね。『幕末風聞集』も同じでした。また、横浜市歴史博物館副館長の井上攻氏が、明治維新100年の頃は「木戸孝允日記」や「大久保利通日記』など、有名人=明治維新を決行した側の日記を中心に研究が進められた、それから50年経った今、このような、言わば「草の根の日記」を使った研究が出てきたことは大きな変化と言えるだろうというご意見が心に残りました。なるほど!その意味では、「鈴木藤助日記」は、地元の皆さんが地道に翻刻を進めて、今では全巻が活字で読めるようになっています。また、「勤王日記」は早田さんが主催する古文書研究会で、これまた地道に解読を進められているものです。地域に根を下ろした博物館、資料館の活動こそ評価すべきですし、それらを持ち寄って議論することこそ、相武地域史研究会の大きな目的の一つでした。

②の地域にとっての戊辰戦争については、今回は大規模な戦争がなかった地域を取り上げましたが、そのこと自体を評価したいところです。そしてこれらの対応については、大きな藩がない非領国地帯であることの意味は大きいのではないかとの発言が印象的でした。

私の研究対象である小田原藩は、上野戦争から流れてきた旧幕府軍によって勤王から佐幕へと藩論を転換します。その後、東征軍によって再度、官軍側に戻ることになりますが、その際、旧幕府軍の掃討を命じられます。5月26日に、箱根の山崎で戦闘が行われたことから、「箱根戊辰戦争」と呼ばれています。たった1日の戦闘であったとは言え、西相模の史料をみているとやはりかなりの緊張した情勢が読み取れますので、やはり「箱根戊辰戦争」についてももっと明らかにする点が多いかと思われます。これも「吉岡由緒書」翻刻の一つの目的でもあります。

こうして、今回のシンポジウムも無事に終了しました。今回は裏方に徹しましたが、一つ悔いがあるとしたら…。レジュメのまとめは私が担当したのですが、小林さん作成の図を1点入れ忘れ(T_T)、あまつさえ表紙の目次で「長尾村」を「長尾村」、主水の「鍵取役」を「鍵取締役」と痛恨の誤字を犯してしまいました(^_^;)何とも痛恨の極みです(>_<)次のシンポジウムは、2020年を予定しているとのこと、これは取り返さなければ…。

 

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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