去る21日の土曜日、クラウドファンディング第2回特別講演を開催しました。場所は、高輪キャンパス1号館の1-201教室です今回の講演には8名の皆さまにご参加いただきました。第1回目の半分でしたね。当日はあいにくの雨でしたので、本当にご参加いただいただけでも嬉しい限りです。ご支援いただいたのですから、少しでもお礼がしたいですからね。今回の講演の内容は以下の通りでした。
Prologue
Ⅰ.「吉岡由緒書」とは?
①吉岡信之と「吉岡由緒書」
②大久保家と小田原藩…大名家と藩
Ⅱ.禁門の変(蛤御門の変)と吉岡信徳
①禁門の変とは?
②禁門の変に関する小田原藩の史料
Ⅲ.御所と禁門の守衛図を読む
①従来の見解
②「九門之図」の分析
Ⅳ.吉岡信之の「記録」を読む
①信徳出陣
②御所をめぐる攻防
③戦い終わって
Epilog
・2つの課題
今回は、少し研究会的に取り組んでいます。前の会ではできなかった「吉岡由緒書」とは何か?という、基本的な問題から、研究の方法から話を始めました。そこで、「吉岡由緒書」の特徴として幕末の記事が詳しいことが上げられます。これは8代目の信徳が京都守衛から天狗党を追って越後まで派遣されたこと、箱根における戊辰戦争に関連したことがあげられます。10万石を超える譜代藩は、それだけにいろんな軍役がかけられます。京都御所を守衛している関係で、元治元年(1864)の禁門の変に遭遇するわけです。小田原藩は、御所の日之御門の警備を命じられます。日之御門は、現在健春門と呼ばれています。御所の西側にある門です。これはちょうど現在の健春門について説明しているところです。
今回の講演会でとくに強調したのは2つの点です。1つは、御所の外門と内門、計9門を守衛した藩を従来の研究と比べてみることです。以前、このサイトでも書きましたように信徳は、京都御所の図を書いて、各門を守衛した藩を書き上げています。従来の見解については、三宅紹宣(つぐのぶ)先生の『幕長戦争』(吉川弘文館 2013年)に所収されている図1 禁門の変図①②(16・17頁)と比較検討してみました。三宅先生の図は、芝原拓自先生の『日本の歴史23 開国』(小学館 1975年)の図に加筆修正されたものです。これと比べてみると、御所9門を守衛した藩に結構、違いが見られるのです。例えば、いわゆる蛤御門を守衛していたのは、会津藩、薩摩藩、桑名藩のほかに彦根藩の名前が書き込まれています。
この彦根藩が問題で、「吉岡由緒書」によれば、長州藩が敵対していたのは、会津藩と彦根藩とはっきり書かれています。実際、彦根藩はあちらこちらで奮戦したように書かれています。禁門の変について彦根藩の活動はあまり知られていませんでした。
二つの課題。それは9門の守衛をほかの史料で確認すること、彦根藩がどのような立場でどのような活動をしたかを確認することなのです。
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