小田原藩のしくみと役職
前回のつぶやきで、小田原藩の役職をもとにした順席(格席)図を掲載しました。くり返しになりますが、順席は藩士の家の格を示す基準なのですが、役職とある程度相関関係があります。例えば、番頭の順席であれば、番頭の役職に就くのが当たり前であると言ったことです。ただし、順席は固定的であるのに対し、役職は時代によって変わっていきます。そこで、今回は、実際の役職がどうなっているのか、全体的な状況がわかる天保4年(1833)を例に取ってみていきましょう。といっても、実は小田原藩は藩政に関する史料がそれほど残っていませんので、天保4年の事例は貴重なのです。これは『二宮尊徳全集』第16巻19頁に収録された「小田原領明細調 壱」をもとに作成したものです。詳しくは、「馬場研究室へようこそ」のコーナーに「小田原藩における俸禄米問題と行財政の改革」という論文のPDFファイルを載せていますので、興味のある方はぜひご一読ください(http://www.ihmlab.net/tweet/babalab/)。なお、「小田原領明細調 壱」には年代が書かれていませんが、家臣の役職や構成から天保4年と判断しました。これには自信があります(^_^)v
せっかくだから比較のために順席(格席)図も載せておきましょう。
もちろん、どちらもすべてを図示できたわけではありませんが、ずいぶんと違っていることがわかるかと思います。番方は何より「番頭」がなくなっていますが、逆に「箱根伴頭」や「根府川伴頭」といった役職が増えていることがわかるかと思います。とはいえ、一般的な傾向で言えば、「番方」の構成はずいぶんと縮小されていると言えるかと思います。とくに「御番帳外」で明確に番方と言えるのは「伊賀役」くらいですね。
これに対して「役方」は逆に肥大化していると言ってもいいかも知れません。例えば順席には「寺社奉行」しかありませんが、天保4年の役職では「郡奉行」や「町奉行」があって三奉行制になっています。「代官」も明記されています。また、「摂河郡奉行」に「摂河代官」は、大坂を中心とした関西地方の民政と財政を担当する重要な役職です。さらに「奥」の役職にも多様化の傾向が指摘できます。
もっとも、順席がいつ成立したか、順席そのものにも変更があったか詳細は不明ですので、その点は考慮が必要かと思います。藩主の大久保家は、2代藩主の忠隣が改易になった後、武蔵国騎西(埼玉県加須市)を拝領していた忠常が再興を許されて以降、美濃国加納(岐阜県岐阜市)、播磨国明石(兵庫県明石市)、肥前国唐津(佐賀県唐津市)、下総国(千葉県佐倉市)と転封をくり返した後、貞享3年(1686)に小田原を再拝領しました。恐らくですが、小田原再拝領以前には成立してと考えてよいかと思います。
いずれにしても、役職が番方中心から役方中心に変わっていったことはこの図でも証明できるでしょう。これまたついでながら「藩のしくみと役職」の概念図も載せておきましょう。
個別藩における具体的な展開を確認することができるでしょう。これらはもちろん、藩によって様々なパターンがありますし、時代によっても変わります。雄山閣の『藩史大事典』のシリーズには藩の組織が収録されていますから、それぞれを図式化してみたら面白でしょうね。あ、こんな細かいことやるのは私くらいでしょうか(^^;)
次回(といってもまだ未定ですが…)は、もっと別の面から小田原藩政の組織についてみていきましょう!
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