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小田原藩の御勝手方(御賄方)組織図

日曜日のNHK大河ドラマ「西郷どん」を観ていたのですが、何だかずーっと相撲を取っていたような…。ま、ドラマはドラマなのですが、これでいいのかなぁと思いながら…。肩をけがして剣を振るえなくなっても相撲なら大丈夫なのでしょうか…。何より、こうしたことの一つ一つがその人物の人格や思想形成になっていくのでしょうか。いずれにせよ、私自身は、人物を中心として描く歴史は最終的に考えたいですね。当たり前のことですが、人は視点によってずいぶんと変わるものです。私などはへそ曲がりですから、江戸時代で言えば田沼意次や井伊直弼などの方に肩入れしてしまいます。ましてや、ただ、その人だけが時代がみえていたとか、時代を動かしたとか思えないたちです。どの時代にも同じような能力を持った人は存在していて、結局、人物は歴史が創るもので、その能力が開花するにも時代が必要ですし、人物はただ、さまざまな可能性に方向を与えていくのだと思っています。

前置きが長くなりました。要は、人物云々以前に私は、その時代時代の組織とか、しくみとか、時代を動かす原動力とかそういったものにこそ興味があって、それをつきつめた上で人物が描ければと思っています。

さて、このサイトでは、藩のしくみと役職の概念図(http://www.ihmlab.net/tweet/tweetblog/8198/)をもとに、小田原藩の順席(格席)の図(http://www.ihmlab.net/tweet/tweetblog/8353/)と天保4年(1833)における具体的な小田原藩のしくみと役職図(http://www.ihmlab.net/tweet/tweetblog/8357/)を比較してみました。でも、この役職が実際に機能するためには、また別立てのしくみが必要になります。私がもっとも興味を持っているのは、藩財政の問題問題です。藩財政の窮乏は、兵農分離による武士の城下町への集住、参勤交代による江戸での生活など、幕藩体制のしくみそのものに組み込まれた問題です。でも、それが譜代藩なのか外様藩か、また譜代藩でも10万石以上か以下か、幕閣を勤める藩か等々いろんな条件が重なります。さらに小田原藩は、元禄16年(1703)の大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火によって甚大な被害を受けています。江戸時代の後期には、海防への負担や京都警衛など幕府の勤めも大きくなっていきます。それらを乗り切るにはやはり藩財政を取り仕切る御勝手方役人の役割が大きくなっていきます。「勝手」は台所を表わす文言で、御勝手方は別に御賄方とも言います。幕府では、勘定奉行が勘定所を率いて財政を仕切りますが、その全体は勝手掛(かってがかり)の老中が管轄します。老中首座と勝手掛を兼任することが実質上、幕閣のトップに位置することになります。

これが小田原藩の御勝手方の組織です。

御勝手方のトップである「頭取」は、家老の中から1名が兼任で任命されます。その下に江戸と国許の小田原にこれも兼任で「御勝手方年寄」が1名ずつ付属し、さらにその下に御用人の中から3~4名が「御勝手方御用人」が付属して、「御勝手方」を構成し、大勘定奉行大金奉行以下の「勘定所」役人を率いて藩財政全般の業務にあたります。

ここで郡奉行をあげてるのは、藩財政の基本は年貢ですから、郡奉行の役割とは深いつながりがあると言うことです。郡奉行と代官を中心に民政を担当するのが「地方役所(じかたやくしょ)」です。小田原藩の場合は、別に摂河郡奉行摂河代官が設置されています。上方の飛び地領の年貢はもちろん、大坂の鴻池京都の田中などの豪商たちに対して借財や返済の相談を担当します。なお、郡奉行から勝手方御用人に破線の矢印が出ているのは、郡奉行から御勝手方御用人に出世するパターンが少なからずみられるからです。

いずれにしても、藩財政は領内だけで完結しませんから、それこそ藩社会や藩世界の問題を極めてはっきりと象徴するものだと言えるでしょう!

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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