江戸時代の“村”と明治の市制町村制、市町村合併

今日のつぶやき
江戸時代の“村”と明治の市制町村制、市町村合併

江戸時代のしくみについて、何度かこのサイトでも紹介してきました。とくに“村”について、現在の市町村は、それらの村々が合併をくり返して現在にいたっていると書きました(http://www.ihmlab.net/tweet/tweetblog/8430/)。それはどのような経緯をたどったのでしょうか?

元禄15年(1702)と天保5年(1834)はそれぞれ国絵図と郷帳が作成された年で、全国の村と石高の調査が実施されました。元禄15年の村数が6万3,257で、天保5年には7万1,152と1万近く増えています。これには”村”だけではなく、江戸時代の”町”も含んだ数です。これが明治21年(1888)には3,000近く減って7万1,314だったのが、翌年には市町村合わせて1万5,859と激減しています。これは明治21年の市制・町村制の施行によるものです。ここでは新しくできた市が39に対して、町村は合計の数が出ているだけです。

江戸時代の”村”は、100戸以下の小規模村町が7割をしめていて、戸籍や町税等の仕事、とくに義務教育である小学校の設置・管理に支障があるので、全国で的に”村町”合併をすることで1町村の標準的な規模を300戸から500戸にしようというものでした。このために江戸時代の”村”は”大字(おおあざ)”もしくは「部落と呼ばれるようになりました。これを「明治の大合併」と呼びます。それから昭和20年(1945)の敗戦までの減少は、”組合町村”と呼ばれるような、それぞれは単独の町村なのだけれど、行政活動については協力を敷いていたものを解消して合併させたもの、東京市や大阪市、横浜市、名古屋市、京都市などの大都市の拡大による合併、佐世保市、横須賀市、徳山市(現・周南市)、舞鶴市など、戦時体制強化のための合併によるものでした。

次は戦後の市町村合併です。

1953(昭和28)年から1961(昭和36)年における合併は、戦後の新たな自治制度のもとで実施された1953年の町村合併促進法1956年の新市町村建設促進法によるものでした。ここのところ市制60周年を迎えた市が多いのも目につきますね。実際、1947(昭和22)年9,868市町村が1961(昭和36)年には3,472までまたまた大幅に減少しています。ここではとくに「村」の減少→吸収合併が目立ちますね。そもそも町村合併促進基本計画は、町村の数を3分の1にしようというもので、だいたい達成されたことになります。これが「昭和の大合併」です。1956(昭和31)年にはついに町の数が村の数より大きくなってしまいます。昭和の合併の目的は、市町村の役割を強化し、中学校の設置・管理、消防、社会福祉などを担うことをめざしています。とくに新たに中学校を設置して、学制6・3・3・4が施行されますと、中学校は小学校と同じく市町村の管理とされ、その設置のために、人口規模にして約8,000人を基準とする市町村の合併が進められました。こうした合併を大きく進めた要因の1つとして高度経済成長があったことを確認しおきましょう。

そして、つい最近のことですね、1999(平成4)年から2010(平成22)年は「平成の大合併」で、それまで3,000強でほぼ推移していた市町村の総数が1,729まで減りました。この中でも2010(平成22)年にはついに市の数が町の数を追い越すことになります。2012(平成24)年には市が787、町が748、村が184となっています。こうしてグラフにすると、まさに激減していく過程がみてとれますよね。なお、「平成の大合併」の背景には、.地方分権の推進、少子高齢化の進展、厳しい財政状況、日常生活圏の拡大などが影響を与えているのですが、詳細はまたいずれ(^^)/

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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