本日は箱根町立郷土資料館の鈴木館長と学芸員の高橋さんが研究室にいらっしゃいました。今年の秋に、明治維新150年記念として展示を予定している「戊辰箱根戦争」についての相談でした。『小田原市史』の時も私自身が箱根戦争を扱ったわけではないですが、やはりずっと興味を持っていました。何せ南関東で唯一起こった戊辰戦争です。私は以前から明治天皇の東幸に興味を持っていて、考えてみたら、これが平定されてはじめて東幸が叶ったわけです。とはいえ、鈴木館長の話では、実は箱根の人たちも箱根の戊辰戦争についてはよく知らないんだとおっしゃっていました。残念ですので、ぜひぜひ扱って欲しいところです。
それにしても、小田原藩は慶応4年(1868)の2月には「勤王」の請書を提出してましたから早々に官軍に恭順していたのが、急に裏切ったので、それ自体は不測事態だったと言えるでしょう。そもそもなぜ裏切りを行なったか、正確なところはわかっていません。上野戦争の影響があったことは確かだと思われますし、その過程で徳川慶喜が真鶴に船で上陸して蜂起するという噂に惑わされたとか、いろいろと話があります。ただ、この当時は、藩主の大久保忠礼が在城していたわけですから、その意志がかかわっていたことは確かでしょう。その意味で、忠礼が左右の間で揺れ動いたというのも確かでしょう。では、なぜ揺れ動いたのか?なぜ一旦は遊撃隊を受け入れて幕府につこうとしたのか?これには忠礼が慶喜の従兄弟であったこと、二人は京都守衛から禁門の変、天狗党追討の福井出陣で行動をともにしていますから、会う機会はあったと思うのですが…。それにしても、いくら江戸藩邸から駆け付けた中垣謙斎から説得されたからとはいえ、勤王に戻るのも早い…。隔靴掻痒の感ですね。
お二人と話をしていて、この前紹介した「山崎の闘いの図」の記載が間違い、というか誤字で記載されていたことに気がつきました。改めて掲載します。
図中に「長光山」とあるのは「長興山」です。18世紀の前半、小田原藩主であった稲葉氏の菩提寺紹太寺のある山ですね。そして「石掛ケ山」は「石垣山」でした。これは迂闊でしたね。確かに位置的に言えば石垣山で、そうした記載もほかの史料でみていました。この図では山崎と三枚橋の間が近いのですが、この間には舌状台地があって、そこに遊撃隊が陣を構えるのはよくわかるとおっしゃっていました。
やっぱり地形を含めて土地のことは、その土地に住んでいる人に聞くに限りますね(^^)ちなみにかの伊庭八郎は、この三枚橋での戦闘で左腕を失うのでした。秋の展示会では、戦闘の跡を辿ることも企画されているそうです。楽しみです!
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