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父の七回忌

父の七回忌でした。命日は9月29日。でも、その頃に家族全員で帰郷することは叶いませんので、ひと月半近く前倒しです。午前10時30分にお坊さんが来て、法要が始まりました。いつも思うことですが、月日が経つのは本当に早いですね。

「七回忌には何人ぐらい呼ぶと?」妹に聞いたら、「身内だけやんけんあんまりたくさんは呼ばんよ~」んが、ふたを開けてみれば、24名…。父の母も兄弟が多いので仕方がないですね(^^;)

確かにこれでも減りました。みんな年をとりましたね。終わって、会食は、八女市の矢部川城という料亭です。矢部川は、八女地方を流れている川で、別に矢部川城というお城があるわけではありません。実はこの矢部川城は、2012年6月に八女地方を襲った大雨で店ごと流されてしまったのでした。

2枚目の写真が矢部川です。私にとっては思い出の川ですね。この川が氾濫して料亭は流されてしまったのでした。再建して本当にきれいになっていました。この矢部川城が流された年に父は亡くなったのでした。それだけにここで七回忌の会食をやること自体が感慨深いです。

6年前、父が亡くなった直後に書いたブログを再録しておきます。私自身が、こんなことを書いていたんだなと改めて思い返しました。長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。2012年10月6日付のものです。

あまりにも私事で恐縮ですが、福岡の実家の父が亡くなりました。それにしても、それはあまりにもあまりにも突然のことでした。8月28日に入院してわずかひと月、9月29日の午後5時31分に息を引き取りました。今日でちょうど1週間です。食欲がなくて10キロ痩せたと言っていたのが7月頃のこと。とにかく検査を受けるように勧めて、8月9日に肺がんの告知を受けました。入院してからも食べられないままにみるみる衰弱して…、担当医に話を聞くたびに命の時間が短くなっていきました。はじめは1年半から1年くらいだと言われていましたが、それが年内いっぱいになって、10月まで持たないと言われたのが、亡くなる前日のことでした。29日の朝、9時過ぎに妹から連絡を受け、取るものも取りあえず飛行機に飛び乗って、病院に着いたのが4時30分頃でしたでしょうか。最後の最後、父は待っていてくれました。

農業一筋、百姓一筋80年の生涯でした。実はこのblogでも、3月に帰郷した時の話と、8月に帰郷した時の話の中に挿入した写真の中に父が少し写っています。3月にはイチゴを、8月には巨峰を詰めていました。8月の帰郷の際にはすでに病気のことを知っていましたが、3月の時はまったくそんな気配すらありません。いつもの父のままです。1年ぶりの帰郷で、娘二人の手を握ったまま、それはそれはうれしそうな顔をしたのが印象的でした。それは何かの予感だったのでしょうか。予感と言えば、何より今年の巨峰は例年になく粒が大きくて、甘かった…。

父はずっとノートに農事日誌をつけていました。私が物心ついたときには書いていたように記憶をしています。前にも少しみせてもらった覚えはありますが、初めて中をじっくりとみてみました。父はノートの1ページを3つに折って、それぞれ3年分を記録できるようにしていました。例えば4月1日ならその日に何をしたか、3年分の記述をいっぺんにながめることができるようにしていたわけです。おそらく1年目の記述は前のノートを見ながら書き、2年目は前のノートと前年を比べながら、3年目は前の2カ年と見比べながら書いたのだと思います。なるほど、おもしろい工夫だなと思いました。3年連用日記のようなものですが、ノートである分、自由度が高かったということでしょうか。
今、手元には、平成元年(1989)から現在までのノートと、昭和55年(1980)のノートが残っています。試みに平成10年(1998)から12年(2000)のノートの8月5日の記述を眺めていくと、平成10年が「晴 博多ベリー80 水田ヒエ取り片落」、同11年が「曇夕方雨 水田草取りヒエ取り片落、イチゴ苗消毒 ベルクート1000+オルトラン1000」、12年は「腰のいたいため休む 久泉ボンおどり」とあります。博多ベリーはベリーAというブドウの品種で、「片落」は田んぼの字(あざ)名、「久泉」は私の故郷の大字(おおあざ)名です。もっとも、大字、字といっても若い人にはなかなかわかってもらえないと思いますが…。

天候はもちろんのこと、その日の作業内容や消毒であれば薬の量などが簡潔に書かれていて、3年分が縦覧できるようになっているのでした。「腰が痛い」や「ボンおどり」のように生活の臭いもそこかしこにみえます。もちろん、1年の締めにはその年のまとめが綴られています。平成11年には「不景気の年で天候も雨と晴れがつづく年であった。米—夏の長雨で収量少なかった。ブドーはなりすぎた。イチゴ—定植のジコンビが長い雨で出来なかった。ベタベタの所に植えたが年内の価格が良かった。9月29日の稲刈りの時、足を切って姫野病院に入院。腰も悪くなって入院が長引いた。22日間」とあります。父の苦労の後がノートの間からしみ出てくるようです。
仕事柄、江戸時代の農事日誌をたまに見ることがありますが、やはり基本的なところはかわらないのだなと思いました。でも、これがずっと残っていたならば、小作から戦後に自立して果樹農家として一本立ちをするそのすべてがわかる一級の資料になったのに…と思います。戦後の混乱期から高度成長、バブル経済、そしてその崩壊の足跡を一農家がどのように生き抜いたのか?一農家の戦後史として、それはそれは興味深い歴史の生き証人であったのにと思わずにはいられません。

土地を貸すわけでも、アパートなどを建てるわけでもなく、ただただ本当に農業一筋に生きた父でした。確かに農協の理事や久泉区の区長や農業委員などを歴任しましたが、農業委員だけが現役で、後はかなり前のこと。どれだけ人が集まるのかなと思っていましたが、通夜も告別式にも本当にたくさんの人に参列していただきました。小さな田舎の葬祭場ではありましたが、担当の方に、こんなに参列者が多いのは初めてだと言われて、改めて父の偉大さを再認識させられました。もっとも、母は「半分はあたしがおかげたい」と言っておりましたが…(^_^;)いずれにしても、参列者の皆さま、本当にありがとうございました。

そんな父の農業にかけるそのすべてがこのノートに詰まっています。ただ経験や勘に頼るのではなく、毎日の記録をノートにつけることで正確なデータを蓄積していき、これを経験や勘と照らし合わせて正確な判断を下していく。そうすることによって失敗の確率を極力減らして、おいしいイチゴやブドウや米を作っていく。それが父の農業の本質であり、信念であったように思います。父はそうした意味では失敗の少ない人だったと思いますが、それでもうまくいかないこともあります。事ほどさように農業というのは難しく、まさしく博打のようなものなのですね。土地があっていいねとは言われますが、消費者だけの視点ではなかなかわかりづらいことなのではないでしょうか。

こんな記述をみつけました。平成10年の農事ノート、12月29日「晴后曇 しぐれぱらつく イチゴの手入れ 2番果玉出し葉かき セタガラ取り」の後に「弘臣達帰ってくる」。翌11年の大晦日、「イチゴ230 弘臣達帰ってこなかった」。いつでも父は待っていたんだなと思うと涙がにじんできました。
法名は「釋直道(しゃくじきどう)」。浄土真宗大谷派では、居士号や院号ではなく、頭にお釈迦様の「釋」をつけて法名をつけるのだそうです。ちなみに戒名とは言わないそうです。素直でまっすぐな生き方をした人。父にふさわしい法名だと思います。口幅ったい言い方ですが、“百姓生涯鍬一本”最後の最後まで土に生きた父の、その“ひと鍬の人生”に心からの敬意と感謝の念を捧げたいと思います。

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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