【予告】情報史料学研究所サイトのリニューアル


本日、3月28日(火)は、湘南キャンパス最新の校舎19号館の「こけら落とし」で、私の所属する教育開発研究センターのフォーラムが開催されました。教育開発研究センターは、昨年までは教育研究所と称していたのですが、本年度より教育開発研究センターの改称されました。昨年までは年に1度、授業研究会を開いていたのですが、本年度から教育開発フォーラムに衣替えです。今回のタイトルは、「学びと評価の再考-学びルネッサンス-」でした。学力の低下が叫ばれる現在、学生の学力は実際、どのような状況なのでしょうか。学生はどこにつまずいているのでしょうか。どうしたら「学ぶ」気持ちになってくれるのでしょうか。「”学び”の学び」。これが現在の教育開発研究センターの重要テーマの一つでもあります。

会場はオープン・マルチ・アトリエ。最新の電子黒板を備えた80名定員の教室です。正直なところをいえば、最新の施設は良いのですが、できれば演習科目で使いたいので、3分の1ほどずつ区切れれば…と思っています。古文書はもとより、史料の講読にグループ学習と、電子黒板の使い道はいろいろと考えられます。ただ、演習科目は多くても13~14名ですから、もう少し小さな教室でいいから使えればと思うのです。

と、文系の科目でもいろいろと使い方が考えられるのですが、何より本日のフォーラムは、19号館で初めて開催された研究会です。しかもブレークタイムもあって、コーヒーとピザまで出ます。

さて、来たる4月1日から、このサイトをリニューアルします。そもそもは、教育研究所時代に個別プロジェクトの一環として、栃木県安蘇郡閑馬村(現・佐野市)の閑馬小学校の明治期の史料を翻刻し、電子書籍いや電子史料として活用する方法を考えるためにオープンしたサイトでした。実際、閑馬小学校関係史料の史料集と、史料整理に関する報告書は作成したのですが、サイトそのものは、個別プロジェクトとして継続していくことが困難になりました。

そこで思い切って、もっと自由に発言していける媒体としてリニューアルすることにしました。「つぶやき」でもいいので、大学の日々を毎日綴っていきたいと思っています。もちろん、まとまったものは「コラム」として発信していきます。何はともあれ、乞うご期待!!

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卒業おめでとう!


昨日は大学の卒業式でした。この時期になると、いつも思います。月日の経つのは早いものだと。今年は2回目のゼミ生たちを送り出しました。この学年は、1年生の文理共通科目「江戸学と現代社会」も受講していましたし、近世史基礎演習はもとより、地域史研究法やウィンターセッション科目の史料管理学演習にも結構、多くの学生たちが受講してくれていました。そうそう、神谷先生が企画した平塚での古文書合宿にも参加してくれましたね。だから、いつもの学年以上に見知った学生が多いのでした。

巣立っていく学生たちをみるのはとても嬉しいのですが、果たして十分なことができたのかどうか、いつでも気になります。とくに卒論を担当するようになると、もっとこんなことが書けたのに、もっとこっちの方を伸ばしてあげられれば良かった。もっといい方法があったのではないかとと後悔も大きくなりますね。まだまだ私自身の指導法が不十分なようです。

最後はいつものように(といっても先にも言いましたように、まだ今年で2回目ですが…)、担当の先生方からひと言。何はともあれ、これから歩く道に幸多かれと祈らざるを得ません。

 

 

 

 

 

今年はお花とサーモスのカップをいただきました。また、ゼミ生たちからは、色紙とシャープとボールペンの多機能ペンをいただきました。どちらも大事に使わせていただきます。

ありがとう!お元気で!そしていつでもいいからまた遊びにおいで!

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【コラム】厚木市郷土資料館


昨日、21日は、厚木市郷土資料館の運営評議会でした。主には本年度の活動報告と次年度の計画なのですが、厚木市では今ある郷土資料館を新たに建て直す計画があって、当然ながら、主な審議はそこに集中しました。現在の資料館は、本厚木駅から15分ほどの場所にあって、便利なのは便利ですが、もともと寿町図書館という厚木市の図書館の支所だった場所です。当然ながら、展示や史資料の保存・管理には適していません。しかも厚木市郷土資料館は、人文系と自然系の併合施設ですから。

ただ、新しく建設される場所は「下川入」といって、本厚木駅からは車で25分くらい、路線バスだと30分くらいかかります。しかもバスは1時間に1本とのこと(^_^;)中津川と相模川に囲まれた自然的にはすごく恵まれた場所なのですが…。県立青少年自然の家の跡地ですから、面積は広いので、どうやったら資料館にも来てもらえるかというのが、最大の課題です。まぁ~即効性があるのは駐車場だと思います。そんなこんなでみんなで知恵を出し合うというのが昨日の会議の大きな目的になっていました。

今のところ、着工は今年の秋で、再来年度2019年度の2月、ですから正確には2020年の2月に完成の予定です。すでに神奈川新聞等にも完成想像図が出ていました。こんな感じだそうです。

委員のお一人が言っていらっしゃいましたが、少子高齢化と過疎化の急速な進展、そして自治体の財源の大幅な減少によって、公立の博物館、資料館であっても閉鎖される事例が急増しています。文化施設は基本的には利益を生み出しませんので、維持管理だけでもたいへんになっていきます。ずっと以前から計画されていて、長年にわたって審議されてきたことであるとは言え、こうして新たに資料館を建てる。まだ、正式名称として「厚木市郷土資料館」となるのかどうか決まっていませんが。こうした現状にあっては、私たちの立場からすればありがたいことではありますが、場所が場所だけに、やはり先行きには一抹の不安が残ります。そういった意味で他の自治体も注目しているとか…。英断か、蛮行か、少なくとも私どもは、軌道に乗るように精一杯協力したいなと思っています。開館したら、絶対ゼミ生たちを連れていくと言いましたが、できればここで卒論を書く学生が出てきてほしいものです。また、「(仮称)厚木市郷土資料館」建設については、順次、お伝えしたいと思っております。

現在、今ある資料館では「縄文時代の厚木」展が開催されています。厚木は古代から現代まで豊かな歴史と自然のある街です。そうした「地域」の歴史と自然をどのように残して、将来に伝えていくのか。重い課題ではあります。それにしても縄文の土器や土偶といった遺物は、湧き上がるようなエネルギーがあって素敵ですね。

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【コラム】朝鮮通信使と相模国


既報の通り、19日の日曜日に藤沢商工会館「ミナパーク」で湘南日韓親善協会創立40周年記念講演会が開催されました。熊本の震災現状調査から帰ると、一緒に行った皆さんの中でインフルエンザや風邪が流行っていて、私もかかっていないかと心配していましたが、さすがに鹿をみた馬場!まったく元気で当日を迎えることをできました。

ミナパークは、藤沢駅の北口を出て5分くらいのところにある新しい建物でした。

こんなに広い会場で、定員が160名。いや~50名以上は来てもらわなければ格好がつかないな~などと話をしていたのですが、始まる頃には満杯!来賓として藤沢市長や教育長、藤沢の県会議員に市会議員の皆さんは、さらには韓国総領事もいらっしゃって、いや、何とも盛大な講演会でした。その様子を、と、思ったのですが、何と写真のデータが壊れていました(^^;)写真の撮影をお願いした藤澤浮世絵館の細井さんに申し訳ない次第です。まぁ~、そんな中でお話ししたことも何ともお恥ずかしい限りですので、却って良かったかも…。

さて、当日はまず、大韓民国亜歴史研究所所長の洪鐘佖(ホン ジョンピル)先生から「韓日友好の象徴・江戸時代の朝鮮通信使について」と題するご講演をいただきました。洪先生は留学で京都には10年以上住んでいらっしゃったということで、日本語はペラペラです。でも、講演は韓国語でお話しをされて、通訳を入れる形式で行なわれました。韓国語による講演というのも初めてでしたので、なかなか新鮮でした。

洪先生のお話は、タイトルのとおりで、韓国側からみた朝鮮通信使の歴史について詳しくお話しいただきました。興味深かったのは、通信使が日本に来る際には日本の自然はもとより、風習、例えば、切腹とか試し切り、士農工商など各階層の特徴などを観察されていたということです。とくに「名」と「実」を見極めること、つまり「天皇」が「名」で、「将軍」が「実」であるとして、どちらに実権があったかということに興味を示していたということでした。

改めまして、朝鮮通信使とは、朝鮮国王の国書や進物を携えて日本に派遣された外交使節団のことです。通信使・朝鮮信使・朝鮮来聘使とも呼ばれています。通信使の来訪は室町時代に溯りますが、とくに豊臣秀吉の朝鮮出兵後、徳川幕府が成立すると、一転して両国は友好関係の構築に努めました。慶長12年(1607)から寛永元年(1624)は、徳川将軍への講和・修好に関する回答と、朝鮮人捕虜の刷還・国情探索を目的とする回答兼刷還使として来日します。寛永13年(1637)からは通信使に名称を戻し、明暦元年(1655)以降は、将軍の襲封を祝賀するための使節団となりました。こうして江戸時代には、合計12回来訪しているのですがが、大半は江戸時代の前半に集中しており、文化8年(1811)の対馬での易地聘礼が最後となりました。一行の人数はだいた400名から500名前後にもなりました。これに随行する対馬藩の役人や幕府の役人などを加えますと、2,000人ほどの行列になったそうです。近年では、この朝鮮通信使の行列を復興したお祭りなども各所で行なわれています。そもそも通信使の来訪は、外交だけでなく、文化交流にも多大な足跡を残しているのです

いずれにしましても、通信使を迎えるにあたっては、沿道の地域-宿場や村々では、通行と接待のためにさまざまな準備が必要でした。今回の私の講演は、寛延元年(1748)に来訪した通信を事例に、藤沢宿を中心に、相模国の村々が果たした役割-御用役を全体的に明らかにすることでした。何故、寛延使節なのでしょうか?

先に述べたとおり、朝鮮通信使は、6回目の明暦元年(1655)以降は、将軍の代替わりを祝う慶賀使となるわけですが、実際に将軍代替わりの慶賀使を迎えたのは、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、8代吉宗、9代家重、11代の家斉6人になります。詳しくは述べませんが、6代家宣の時に儒学者の新井白石が通信使の待遇をめぐって大きな改革を行なったことは有名です。しかしながら、実は吉宗の代にも大きな改革を行なっております。これは東海道を通行するための人足と人馬を提供する人馬役をめぐるものです。東海道を通行する際には、通常は宿ごとに馬を積み替え、人足を交代します。これを宿継ぎと呼んでいるのです。ところが、通信使の場合は、宿継ぎではなく、通信使の宿泊地ごとに人足と馬が交代する泊り継ぎという方法が使われます。それだけに屈強な人足と馬を準備する必要があったのですね。基本的にはこれらは近隣の村々から徴発されましたので、必要な人足と馬を揃えるのもたいへんな仕事になります。吉宗はこれを江戸の町人に請け負わせて、通信使が通行する東海道の村々から「国役金」といって一律にお金を徴収する体制に改めたのですね。ところが、寛延元年の使節では、これをまた元に戻します。そのためにこの寛延使節については、神奈川県内に結構、たくさんの史料が残っているのですね。当日は、こんな内容でお話しをさせていただきました。

プロローグ

・なぜ?寛延使節か?

・通信使の来朝は時代を映す鏡

Ⅰ.朝鮮通信使通行のために

①泊り継ぎ人馬役御用

②馬入川(相模川)船橋架設御用

Ⅱ.宿泊所接待のために

③藤沢宿御賄い(接待)御用

④藤沢宿泊所整備御用

エピローグ

詳しくはまた、論文にしたときにでも改めてお話ししようかなと思っています。もっともそのいったんは、横須賀市史の通史編で書いておりますので、ご参照いただければ幸いです。

それにしても、何より驚いたのは、私がお話しした寛延使節に「正使」つまり通信使のトップを務めていたのが、洪先生のご先祖様だそうなのです!しかもその前の享保4年(1719)の通信使の「正使」を務めたのも洪先生のご先祖で、その他にも通詞や書記官なども務めたとか。これもお話しを窺いながら驚いたことでした。

いずれにしましても、洪先生が全体的なお話しをして、私が地域のお話しをするということで、誠にバランスのとれた講演会であったかと思います(自画自賛(^_^)v )ひと言付け加えておけば、私の朝鮮通信使研究は、交通史の一環として通信使通行のための人馬役から始まったのですが、その後、御用役そのものは「郡役」(郡ごとの役)をもとに「村役」として相模国全体の村々に何らかの御用役がかかっているとしてその解明に努めてきました。今はさらに、時代が隔たっているだけに、朝鮮通信使の来朝は、時代の変化、社会の変化を読み取ることができる重要な研究素材を提供するのではないかということです。享保使節と寛延使節はとくに享保改革にともなう社会の変化を読み取ることができるのではないかと思っています。それは元禄期以降の社会の安定化から制度・組織の整備にともなうものと考えています。乞うご期待!ですかね。

講演会の後で行なわれた、湘南日韓親善協会創立40周年記念懇親会でさまざまなご挨拶を聞いていると、藤沢はもとより、横浜や秦野など、民間レベル、地域レベルでは、さまざまな交流が続けられてきたということです。今、両国は竹島問題や従軍慰安婦をめぐって国同士の対立ばかりが強調されています。地道であってもこうした交流を続けていくこと、今、私たちができることはまさにそれなのだと改めて痛感しました。洪先生は優しくて、本当に素敵な先生でした。

で、講演が終わった後には、以前講演をした「藤沢地名の会」から次の講演を依頼されました。今日のお話も実は、9年前に「藤沢地名の会」でお話ししたことをベースにしたものでした。また、詳細が決まったらお知らせします。もうすぐ新しい年度も始まります…。

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【徒然】帰郷_2017年春…


阿蘇キャンパス、熊本キャンパス、そして熊本城の震災現状調査と聞き取りが終わると、11日(土)には、福岡は八女の実家まで里帰りでした。昨年の9月以来ですから、半年ぶりですか…。今回の帰郷は、母の顔を見ることと、昨年の12月に生まれた甥っ子のお食い初めのお祝いをするためです。こうして帰ればいつも食卓に並ぶもの…。

 

 

 

 

 

八女市にある「鳥藤」という鶏肉専門店の唐揚げにローストチキン、そして馬刺しですね。馬刺しにもいろんな部位がありますが、やはり美味しいのは赤身です。霜降りやたてがみなど、高いですけれど、そんなに美味しいとは思いません。やっぱり柔らかくて食べ応えのある赤身が一番ですね(^_^)v

でもでも…、なんといっても母が漬けた高菜の油炒め!これが一番です。あ、一番が二つになりましたので、唯一無二です。高菜といっても家ごとに味が違います。塩と辛子がほどよく効いた母の高菜がなんといってもやっぱり唯一無二です。最後の晩餐は、この高菜とあったかい炊きたてのご飯と八女茶があれば何もいらないですね。

さて、これは我が家のイチゴ畑です。母は年をとりましたので、今は妹一家が作っています。品種はもちろん「あまおう」です。

天気がいいと、あまおうも輝いています。ハウスで食べるあまおうは、ちょっと柔らかくなっていて美味しいんですよね~。イチゴを採ることをうちの田舎では「ちぎる」というのですが、実際にちぎってはダメですよ。イチゴ狩りに行って、なかなかとれないからといって引きちぎってはせっかくのイチゴが傷みます。潰れたりしてね。コツは、イチゴのへたの下の枝(ランナーと言います)を中指と人差し指で挟み、少し引っ張りながら、ランナーが曲がっている方向の逆に「クキッ」という感じでひねると簡単に採れますよ。

こーんな感じです。で、アホ面して食べるあまおうが最高なのですねぇ、はい!

イチゴ畑のそばの小川には菜の花も咲いていて、なかなかきれいでしたよ。まさしく、春の訪れを告げています。

菜の花ばかりではありません。お茶畑の葉っぱも大きくなってきたようです。あとひと月半もすれば茶摘みの季節です。八女はお茶の産地ですからね。さまざまに春を感じつつ、新学期に向けて気持ちも新たにした帰郷でした。

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熊本!東北!Again!!


今年も3月11日が来ました。東日本大震災から6年目。この日にお亡くなりになった方々は7回忌の法要を迎えることになります。今、震災の現況調査で熊本キャンパスと阿蘇キャンパスを訪れていることは、先のblogで報告したとおりです。今日は、熊本から実家に帰っています。まったく偶然なことに、6年前も熊本にいて、11日に実家に帰ったのでした。違うことと言えば、6年前は翌日に九州新幹線の開業を控えていました。その新幹線に乗って、久留米に出てバスで帰ってきました。熊本から久留米まではたった20分です。驚くべき速さです。

さて、調査の2日目は熊本城を視察したことも先のblogで触れましたが、報告はまだでした。今回の視察は、熊本キャンパスの新田時也先生にお願いして、毛利秀士先生を紹介していただき、そして同級生で加藤清正の菩提寺である本妙寺の住職、池上正示君にたいへんお世話になりました。毛利先生には熊本城を案内していただき、また管理施設課の職員の方にもいろいろと説明をしていただきました。今回の現況視察は、『東海大学七十五年史』に関係した調査でもありました。熊本のシンボルである熊本城に関する市民の皆さんの偽らざる思いを知りたいと思ったのでした。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

すでに昨年の9月4日は震災後の熊本城を訪れたのですが、その時とそんなに大きくは変わっていないように感じてしまいます。管理事務所の方に訪ねてみました。石垣には大きく崩れたところと、宇土櫓のようにぜんぜん崩れていないところがあるようだが、何が違うのかと。今回崩れたところは明治33年(1900)の震災で崩落したところが再度、崩れているようだとのことでしたが、それが当時の組み方がよくなかったのか、そもそもそこの地盤の問題なのかはまだ調査中とのことで、そうした調査の結果が出ないうちは石を組むこともできないそうなのです。その調査にはまだ1年以上かかるそうで、そうであれば復旧まで22年かかるということもうなずけます。

昨年の9月に訪れた際は台風が接近していましたから天気が悪かったのですが、この日は抜けるような青空になって、それだけに痛んだ天守に一層の悲哀を感じます。それでも重要文化財の宇土櫓はしっかりと建っていて勇気をもらいます。

ただし、この宇土櫓も内部はかなり傷んでいるそうで、結局、解体修理を加えるとのことでした。さらに、ずっと気になったおもてなし武将隊のことも聞いてみました。もちろん、城内では活動はできないが、その分城外の各所で”おもてなし”をしてもり立ててくれてくれているそうです。なんだかホッとしました。の

3日目は熊本キャンパスでまた、聞取り調査でした。詳しい内容については、『東海大学七十五年史』で書いていただけると思います。ひとつ興味深かったのは、阿蘇キャンパス農学部長の荒木先生のお話しで、震災が起きた直後には赤十字からエージェントと呼ばれる方が派遣され、その方の指示でレスキューや食料など避難所でのさまざまな活動を行なうそうなのです。そして阿蘇キャンパスの学生たちは、積極的に班をつくって活動したとのこと。さもありなん。ここの学生たちは、きちんと明るく挨拶ができて、どこのキャンパスよりも気持ちのよい学生たちです。私も実家が農家なのでわかるのですが、農家の仕事は指示されるだけではなく、自分の仕事は積極的に考えていかなければなりません。とりわけ出荷場の仕事を手伝うときなどはそうでした。人間はやはり、身体を動かして、もっと言えば、身体の動かし方を知ってこその脳みそだと私は思っていますので、そうした農作業のたいへんさを知っていること自体がぜんぜん違うのだと思います。

阿蘇キャンパスは1号館をはじめとして校舎は活断層の上にあって再建は難しいそうです。それはマスコミでも報告されたとおりですが、ただ、農場も牧場も加工場も無事でした。今、阿蘇キャンパスの学生たちは熊本キャンパスで講義を受けながら、必要に応じて阿蘇に通っています。次年度以降の授業もたいへんでしょう。ただただ、がんばって欲しいと願うしかありません。とはいえ、熊本キャンパスにはこんな掲示もありました。まさに希望への一歩ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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熊本大震災 阿蘇は…


一昨年度は、仙台から名取市の閖上地区、陸前高田市、そして昨年度は宮古から久慈へと、東日本大震災の現在を視察する旅を続けてきました。それは、東海大学文明研究所のプロジェクト研究「災害復興と文明」の一環ではありましたが、それ以前からずっと興味を持っていた私自身の災害史研究を本格化するための旅でもありました。今年は、4月に起こった熊本大震災の現状を視察する旅です。ただし、今回は、東海大学建学75年を記念する記念誌のための取材でもあります。本学阿蘇キャンパスは、農学部が置かれたキャンパスで、講義と実習が密接に繋がっている上に、学生たちもキャンパスの側に住んでいて、常に作物や動物たちの世話ができるという、パプリックアチーブメント教育を地で行くようなところです。

8日の午後、阿蘇について視察を始めると、突然、吹雪くような猛烈な雪が降ってきました。こちらは、テレビなどでもよくみた阿蘇大橋が土砂崩れによって崩落した後です。

山頂から真っ直ぐに阿蘇大橋に向かって土砂が流れ、国道とともに一気に橋を押し流したことがわかります。この道の向こうに確かに高くて大きな橋が架かっていました。周辺の景色はというと

1枚目が左の方に見えるコンビニの後です。もちろん、営業はしていません。崖が削れて、今にも落ちそうです。2枚目は右方面の数鹿流ケ滝(すかるがのたき)の周辺で、ここからは滝は見えませんが、滝の周辺が大きく削られていて、すっかりとようすが変わっています。流麗な滝だったのに、驚くばかりです。正面に見える滝は崩落によってあらたにできたものです。数鹿流ケ滝は右の奥の方にあります。

阿蘇を襲った地震は、震源地が比較的浅い、直下型地震だと言うことです。これは震源地が浅いだけに大きな震動を引き起こすのだけれど、活断層以外の部分は比較的被害が小さいそうです。

1枚目の写真を見れば、活断層が真っ直ぐに延びていっているようすがおわかりいただけるかと思います。2枚目の写真では、阿蘇キャンパスの1号館に向かって、やはり活断層が真っ直ぐに延びていて、校舎もまた、その延長線上が崩れているようすが見てとれます。これほどはっきりした活断層の後をみることができるのも珍しいそうです。もちろん、この活断層は今まで知られていなかったものです。やはり活断層の上に原子力発電所があったとすれば、それは非常識を通り越しています。疑いであってもやはり避けるべきだなと痛感せざるを得ません。

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史料管理学演習_2016 土手和田村文書


今年もまた、ウィンターセッション=冬期集中授業→史料管理学演習の季節がやって参りました。と、言いながら、20日の月曜日から始まって、実は今日24日が最終日です。このBlogでも毎年、取り上げておりますが、史料管理学演習は、いわゆるアーカイブズ(Archives)の一環として、史資料の収集・取り扱い・整理から公開までを具体的に勉強する授業です。通常の座学と違って、この授業では実際の近世古文書から明治・大正・昭和の近代文書を使って、整理の仕方を学びます。とくに中心となるのは、史資料目録(リスト)の作成方法です。

ということで、今年も伊豆国田方郡土手和田村の史料を整理します。現在の伊豆の国市韮山町にあたります。と、意気込んでもても、今年の受講生はなんと男子学生一人(^^;)今までの最低は確か4人だったかな?多いときは10名を超える受講者があるのですが、今年は極度の不人気です。でも、当たり前ですが、全力は尽くします。

土手和田村文書の整理はもう何年もやっていて、今年はその中の新たな箱を開けて整理します。箱の番号は5番目ですからEとなります。ここは原秩序維持の原則に従って、上から順に取り上げていき、袋に入れ、資料番号を振っていきます。

この作業には、学園史資料センターのスタッフにもお手伝いをお願いしました。資料番号は、E-1からE-48まで。ただし、枝番になったものもありますから、実際はもっと多いです。また、こよりでまとめられたものなどはまとめて袋に入れていますから、実際はさらに多くなります。袋詰めが終了したら、いよいよ目録の作成です。

どうです?一人でもなかなか真剣にやっているでしょ~。いや~、この地味で辛抱のいる仕事を、一人でも本当に真面目に一所懸命やってくれました。1日目は、古文書学、史資料整理論、アーカイブズ学の講義でしたので、2日目からいよいよ史料整理&目録作成です。で、4日間で、E-1からE-20まで63点の史料の目録を作成してくれました。はじめの資料番号からずいぶんと膨らんでいることがおわかりいただけるかと思います。

最終日の午後からは、作成した目録カードをパソコンのデータベースに入力する作業を行ないました。使用しているデータベースソフトは、「桐Ver.9」です。よく「へぇ~桐ってまだあるの~?」って聞かれますが、入力のしやすさや、試行錯誤を受け入れてくるところなど、ツールとしてはこれなしではいられません。Excelはあくまでも表計算ソフトですし、ACCESSはデータベース然としていて、設計からきちんとしなければなりませんし、試行錯誤は受け入れてくれないし、印刷機能は弱いし…ですね。昔はカード型データーベースソフトなど、いろいろと選べたのですが、寡占状態が進んだ今では却ってやりにくいことも多いのです。

学生にとっては、初めて体験するアプリでしたが、スムーズに入力していました。さすが!です。

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【コラム】人口停滞の時代としての江戸時代 その3


前回のコラムでは、江戸時代中期以降の人口が停滞しているといっても、統計として取り上げている10地方のうち、7地方は人口が増えていて、東北地方、関東地方、近畿地方の3地方が減少していることを指摘しました。東北地方はさておいて、江戸という大都市を抱える関東地方に、同じく大坂、京という大都市を抱える近畿地方の人口が減少するというのは一見奇異な感じに見えます。ただ、大都市を抱えた地域で人口が減少することは実は珍しいことではないということで、イギリスの経済学者トーマス・ロバート・マルサスの「マルサスの罠」という学説を初回しました。今回はさらに、関東地方の8つの国(関八州ですね)ごとに人口の推移を見てみることにしましょう。

関東地方でもやはり天明6年(1786)に85%まで人口が落ち込み、その後はほぼ停滞して天保5年(1834)に81%と最低を記録し、弘化3年(1846)にようやく上昇に転じています。そうしてみますと、全国の趨勢と比べてみると、天明6年に急減することは一緒ですが、その後の経過が違うようですね。それに宝暦6年(1756)までは、安房国・上総国・下総国・上野国の4か国は増加傾向にあります。とくに安房国は天明6年にかけての落ち込みはあるものの、全体的にみれば増加しています。安房国は小さな国で村の数も少ないですが、湊が多いですね。それが関係しているのかも知れません。

こうした中、もっとも減少率が大きいのが、下野国と常陸国です。下野国は天保5年(1834)段階で61%、常陸国は同年に64%まで落ち込みます。また、宝暦6年までは増加していた上野国は弘化3年(1846)に75%まで減少しています。この3か国が関東地方の人口変遷曲線より下方にあります。そしてこの中でも、下野国と常陸国の減少率が突出していて、関東地方における人口の減少は、この2か国の影響が大きいと言っても過言はないでしょう。そしてこの2か国は、近世後期に人口減少によって働き手がいなくなり、耕地が荒れ放題になるという荒廃現象に見舞われいたとされています。北関東農村荒廃とよばれる現象です。この北関東農村荒廃が私の研究の出発点でもありました。栃木県は益子町史を担当していた頃のことです。それから南足柄市史を皮切りに、茨城県の龍ケ崎市史を挟んで、寒川町史、真鶴町史、小田原市史、大磯町史、横須賀市史と神奈川県の自治体史を担当しました。そうした経験からしても北関東と南関東ではずいぶん違います。

そこで相模国はと見る知、減少率という面でみていくと一番小さいことがわかります。最低でも文政5年(1822)の86%です。江戸を抱える武蔵国は、というと相模国に次ぐもので最低は天明6年の85%となっています。同じ関東であっても、北関東の下野国や常陸国と相模国・武蔵国ではずいぶん違うようです。実際に史料をみていても、北関東では人口減少に荒地の増大につれて、村の仕来りや慣行や家格といったものもかなり乱れてきますが、南関東ではそうとはいえず、かなり豊かなイメージすらあります。北関東農村荒廃がなぜ起きるのか、まだ明確な答を出した方はいませんが、都市化の影響をもっとも受けたのが、比較的寒冷地に位置する北関東であったということも十分考えられるのかなと思っています。

そう考えてみますと、現在の状況というのは、この江戸時代に起きた関東や畿内の状況が全国的規模で起きているとも考えられます。東京を中心として、名古屋、大阪、京都、そして福岡といった大都市に人口が集中するいっぽうで、地方の人口が減り続ける…、という意味においてです。江戸時代が終わると産業革命や近代化を経て大きく経済発展を遂げ、人口も停滞から爆発の時代に入ります。さて、これからの日本は…。先の命題に戻れば、AIの進歩にIoTの浸透といった科学技術の発展やインタネットへの生活の統合がどんな未来をもたらすのか。そこで社会のしくみや組織はどう変わっていくのか。ベーシックインカムもそうした未来予想の一つに過ぎません。江戸時代の人口動態からしてみれば、それはとても恐ろしくもあり、でも期待もしてみたいというのが今の本音でしょうか。

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小田原~藤沢、そして大山


人口停滞時代としての江戸時代のその3を書く前にひと休みです。ま、勝手なひと休みですか…。昨日18日と本日19日は、いろいろとお出かけの日でしたから、報告です。

◎小田原城で古文書を撮る

まずは18日の午前中、小田原へ。目的は、小田原市立図書館で小田原藩関係の古文書を撮影することです。

 

 

 

 

 

 

 

小田原城の天守閣に、常磐木門、最後は銅門(あかがねもん)ですね。梅がちょうど満開でした。昨年、天守閣がお色直しをして公開されたことは先のblogでも書きました。

さて、一昨年以来の古文書撮影です。前回は、元禄16年(1703)年の大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火の被害に関する古文書の調査でした。今回は、幕末維新期の小田原藩に関する古文書で、仮題ですが「幕末小田原藩重役覚書」を撮影するためでした。さすがに私もそろそろ小田原藩の研究をまとめなければと思ったものですから、必要な史料を再度集めているところです。この史料は、慶応3年(1867)の大政奉還後から、明治4年(1871)の廃藩置県直前までの幕府の動き(といっても大政は奉還しているのですが…)と、明治政府による藩制の改革、そして小田原藩の対応について詳細に記録された史料です。つまりは藩の解体過程が詳細に分かる史料なのです。

いつも通り、三脚の雲台を下につけ、眼レフカメラを固定して写真を撮ります。最近は、スマートフォンやタブレットでもきれいに写真が撮れますから、わざわざ一眼レフを使わなくてもいいのかも知れません。ただ、私らの世代は、写真を撮るならば、図録に載せられるように撮れと言われていましたからね。保存のためにもきちんと撮っておきたいと思っています。ただ、この古文書は、小横帳で文字が小さいものですから、片方のページずつ撮っていきます。できればもう一人いてくれると楽だったのですが。結構しっかり撮りましたので、腰が疲れました。

あともう一つ、以前の古文書撮影の際にも書きましたが、市立図書館の前の石垣は、関東大震災の際に崩れて、今もそのままになっています。3月には熊本の震災調査に行きますので、そちらの方も確認したかったのでした。

こちらには、iPhoneのパノラマ撮影機能を使って撮った写真を載せておきました。画面中央の右、一番下の石には石切のための「矢」跡のついた石が見えます。左上には天守閣が見えています。つまりここは本丸の石垣なのですね。

それにしても驚いたのは、というより懐かしかったのは、子ども広場の豆電車とコーヒーカップがそのままだったことです。小田原市史をやっていた頃は、娘たちを連れてずいぶん遊びに来たものでした。その頃は観覧車も飛行船もあって、それが一つ一つなくなって、でもまだ豆電車とコーヒーカップは残っていました。子ども広場は80円ですべての乗り物を乗ることができましたので、安く遊べたものでした。

◎藤澤浮世絵館にて

午後はそのまま東海道線で辻堂駅まで行き、再び藤澤浮世絵館へ。もちろん、これも以前、blogでお知らせしましたように、湘南日韓交流協会400周年記念特別講演会の打ち合わせのためです。

藤澤浮世絵館は、規模は大きくありませんが、なかなか充実した展示館です。3月5日(日)までは、「浮世絵でめぐる旅と物語」という展示会をやっていますので、近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。ついでに、講演会のチラシができあがりましたので、宣伝を兼ねて紹介しておきます!時間と興味のある方はぜひお越しください!!

◎大山詣で

本日、19日は大山詣ででした。実は今年の初詣です。このblogでも何度も紹介していますが、年明けには必ず大山に詣でて豆腐料理に舌鼓を打つのが我が家の仕来り?!なのですが、日程が合わず、今日になってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

今日は天気もよくて、見晴らしは最高でした。江ノ島はもちろん、遠く房総半島まで見渡せます。それにしても階段手前のお茶屋さんは相変わらず「ルーメソ」の幟ですね。下には「もこみちOKです」と手書きの看板が…。よくみると「も」と「ち」の間に小さな「ち」の文字が見えます。確信犯。遊んでますねぇ(^^;)

それにしてもご祈祷所の中は寒かったです。お祈りしたのはたった2組でしたしね。で、帰りはいつも通り豆腐料理。今年も東學坊でいただきました。もちろん、良弁さんの大山まんじゅうも買って帰りました。今年は白いまんじゅうが混じっています。何でもお宮参りで作った特注品の残りだとか。せっかくですから、残りを全部いただいてきました。

店内をみると、3月18日(土)と19日(日)は「大山とうふまつり」の文字。せっかくだから、と、思ったら、講演会でした。あらら…(>_<)

明日、20日からウィンターセッションの授業、史料管理学演習も始まります。

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