【徒然】みたびの入院 甲状腺眼症という病気とその経緯


20日(月)からまた、甲状腺眼症状の治療のために原宿のオリンピア眼科病院に入院しています。21日(火)はまたまた手術を受けました。せっかく?!ですから、これまでの経緯を日記風にまとめてみることにしましょう。少しはこの病気にかかった方のお役に立てるかもしれません。

◎発症と自覚

それは突然のことでした。朝起きると正面の壁に掛けてあった円形の壁掛け時計が二つに見えます。どうでしょうか?少し右側にずれた状態で上下に1メートル50センチほどずれているように感じました。昨年、2011年の1月下旬のことです。寝ぼけているのかなぁ、と思っていましたが、毎日のことで、そのうちに車を運転していてセンターラインが2本に見えるようになりました。

◎たかはし眼科クリニックから東海大学医学部付属病院へ

たまたまですが、かみさんが伊勢原市のたかはし眼科クリニックという病院に通院していましたので、私も行ってみることにしました。2月1日(火)のことです。そこでの当日検査の結果は、目そのものに病気はないが、バセドウ病の疑いがあるというので、先生の後輩がいるという東海大学医学部付属病院(以下東海大学病院)を紹介されました。早速、2日後の2月3日に東海大学病院に行って、検査と診察を受けると、視野に問題はないが、右目の後ろの筋肉が炎症を起こしているとのことでした。詳しくはMRI検査でということでしたが、その日の検査結果からすれば、決して軽傷ではないとのことでした。ただ、私自身は「そうか〜」と半ば、他人事のように聞いていたのも事実でした。

それから4日後、2月7日(月)にMRI検査を受け、10日(木)に結果を聞きました。目の後ろにはそれぞれ上下に2本ずつ目を支える筋肉がついているそうですが、私の場合、確かに右目の後ろの下の筋肉が炎症を起こしていて、甲状腺眼症状の疑いがあるとのことでした。ここで始めて「甲状腺眼症状」という病名を知りました。つまりは甲状腺亢進症の影響で目の後ろの筋肉が炎症を起こして目の動きに支障を起こす病気です。私のようにものが二重に見えたりするのですが、炎症のカ所が多ければ三重、四重、五重に見えることもあるそうです。後で辞書で調べたら、これもいわゆるバセドウ病の一種ということでした。東海大学病院ではさらにセカンドオピニオンとして、「原宿にオリンピア眼科病院というのがあるのだけれど、受診してみますか」という話を伺いました。念のためです。紹介状を書いていただいて診察を受けてみることにしました。

◎オリンピア眼科病院へ

ただし、すぐに診察を受けることはできませんでした。2月には入学試験とウィンターセッション科目である史料管理学演習の授業が入っていたからでした。結局、診察を受けたのは、2月の22日(火)のことでした。やはりここでもMRI検査をする必要があるというのですが、MRI自体が詰まっている上に私の都合もあって、かなり間が開いてしまいましたが、結局、4月7日(木)に検査を受けることになりました。この間に、例の東日本大震災が発生することになります。

ちなみにこの日は、上の娘が一緒についてきてくれたので、診察が終わった後、青山のモンテアスルコンチネンタルキッチンというお店でランチバイキングをいただきました。普通は予約も取れないくらいの人気有名店なのですが、昼の営業時間ぎりぎりに入ったおかげで堪能することができました。おいしかったです。この日は、ほかにサンタ・マリア・ノヴェラという、イタリアはフィレンツェに本店がある、私には不釣り合いの(形容詞が長い)格調高いお店でバスソルトを買って、最後に明治神宮で無事をお祈りして…と大忙しの1日でした。あんまり本文とは関係ありませんが(^_^;)

◎急転直下

迎えて4月7日(木)。MIR検査の結果はその日に出ました。先生の診断では、入院してステロイドパルス療法をした方がよいとのことでした。とはいっても、11日(月)から授業も始まります。そりゃなんぼなんでも無理だわぁと思って、「入院は無理です」とお答えしました。それじゃということで、ステロイドの注射を2本、右目に注射してその日は帰りました。原宿の竹下通りを大きな眼帯をして通るのはちょっと気恥ずかしかったですね。その時はまだ、私自身、まだまだ気楽に考えていたのですね。というか、話をよく聞きていなかったというか…。

4月15日(金)オリンピア眼科病院の診断結果を持って、予約していた東海大学病院に行きました。そこで診断書を見た先生に言われました。「馬場さん、入院しなさいって言われたでしょ」「はい」「それは入院するほど悪いってことだよ」と…。ここではじめてことの重大さを知ったのでした。最初に病院にかかったのが2月1日でしたから、ある意味、ずいぶんとのんびりした話でした。

それからはまさに急転直下。治療には最低でも2週間、最大で4週間ということでしたから、最大を考えてひと月は病気療養休暇を取って、授業も代わってもらわなければなりません。日本史関係の授業は、先生方のご厚意ですべて代わりの先生を立ててもらうことになりました。東海大学病院に入院したのが4月26日(火)、退院が5月18日(水)で、結局、3週間入院しました。このステロイドパルス療法は、強い薬なので4週以上はやらないのです。この時の入院のようすについては、このブログでも書いていますから、興味のある方はぜひご覧下さい。

この時、先生に聞いてみました。「ステロイドパルス療法で炎症が収まれば、それで治るのですか」と。先生の話では、たとえ炎症が治まったとしても、目の後ろの筋肉が固まってしまえば根本的に治るということは難しく、その場合、筋肉を伸ばす手術を受ける必要がある。その場合は東海大学病院ではなくて、オリンピア眼科病院で手術を受けることになるとのことでした。この段階でも私は、まさか自分がそこまで行くとは思っていませんでした。それどころか、入院も最短の2週間で帰れると信じていました。今考えても、何の根拠もないのですが…。

ちなみにオリンピア眼科病院で最初に診てもらった先生に後から聞いた話では、MRI検査を受ける前、初診で診た時にもうかなり進行していると思っていたとのことでした。これまた何とも気楽な性分でした^_^;

◎また入院、そして手術へ—右目編—

退院後の苦闘?!についても5月から6月のブログに少し書いていますので、こちらもよかったらご覧下さい。

さて、ステロイドパルス療法を終えて退院はしたのですが、まだものが二重に見える症状は変わりません。確かに薬の効果はあって炎症は小さくなっているとのことでしたが…。この後は放射線治療を行なうかなぁという段階でした。その前にオリンピア眼科病院の予約が入っていましたので、入院の報告を兼ねて診察を受けました。5月24日(火)のことです。当日はMRI検査も入っていて、結果からいえば、やはり炎症かなり治まっているとのことでした。ただし、すでに目の後ろの筋肉は硬化している状態なので、放射線治療をやるよりも手術をした方がいいと勧められました。硬化した筋肉を引っ張って、両目の視線が合うようにするのです。内容的には斜視の手術と同じようなもので、40分程度で済むということでした。

とりあえず、その方向で進めることにして、その間、2度ほど東海大学病院に通ってMRI検査や診察を受け、相談しました。結局、7月8日(金)にオリンピア眼科病院に通院した際に手術を受けることを告げました。8月2日(火)に入院して、翌日に手術をし、退院したのが12日(金)でした。実際の手術は40分もかかりませんでした。11日間の入院でした。この入院生活についてもこのブログで少し紹介しています。

◎みたびの入院、そしてまた手術へ—左目編—

おかげさまで、手術によって両目の正面の視点は合うようになりました。8月26日(金)には、抜糸もしました。糸は溶けてなくなるようになっているのでそのままでもいいのですが、順調だということで抜糸することになりました。すっきりしました。でも、下の方が見づらくて、やはり二重に見えてしまいます。本やパソコンを打つのにはちょっと難渋でした。眼鏡も遠近あるいは中近両用が使えないので、遠視用と近視用と2本作りました。オリンピア眼科病院の先生のお話では、右目の可動範囲ははだいたい70%程度だということでした。これ以上はもう動かないということです。このままでも日常生活に支障がなければそれでもよいが、もし、もう少し下の方を見やすくしたいのなら、右目はもう処置のしようがないから、今度は左目、つまりはいい方の目の後ろの筋肉を伸ばして調整するしかないとのことでした。実際、研究や教育に関わっている私とすれば、本は読みにくい、パソコンは打ちにくいでは仕事になりません。

次の通院は、9月30日(金)でした。今でも下の方が見づらいという話をすると、やはり先生からは左目の手術を勧められましたので、私もようやく決心しました。では、いつにしたらいいのか。善は急げ。でも、もう秋学期(秋セメスター)が始まっています。秋学期はおかげさまで総合教育(一般教養)が1コマ入っているだけで、後はウィンターセッション科目の史料管理学演習があるだけでしたが、さすがに春学期(春セメスター)にひと月お休みをいただきましたから、また11日も休むわけにはいきません。もちろん、学園史資料センターや教育研究所の仕事もあります。仕方がないので、2月のウィンターセッションの授業が終わった後になるかなという話をして、具体的には次回の通院で決めることにしました。その次の通院は12月2日(金)で、その時の検査ではかなり状態は改善していることが確認できました。ただ、下の方が見づらいという症状は変わりません。とりあえず、手術する方向で進めることにして、病室を確保し、次回本年の1月4日(水)の通院で最終判断を下すことにしました。結局、ここで最終的に再び手術を受けることが決まったのでした。

昨日、21日(火)の手術は午前11時15分ころに病室を出ると、40分過ぎには帰ってきました。あまりの短さに、病室でちょっと仕事をしていたかみさんが驚いたほどです。しかし今回の手術は、ちょっと痛かったですね。手術は眼球の下から針を入れて筋肉を引っかけ、これを伸縮させて調整するということらしいですが、針がぐいぐいと入っていく感覚がわかるのですね(T_T)別に悪くはない目だからでしょうか。といっても我慢できないというほどではありません。

あけて今日。左目の包帯をとって検査を受けると、あら不思議、下の方もよく見えるじゃないですか!!いや、びっくりです。先生の診察では30%ほどは見え方が改善しているはずとのことでした。さすがにぐぅーっと下の方を見ると二重になりますが、でも、全然問題ありません。ということで、調整のための再手術も必要ないということになりました。万々歳です\(^O^)/今は、カナダのビクトリアに2週間のプチ留学をしている下の娘とのメールのやりとりが楽しみで、早速、順調に来ていることを知らせました。それにしてもネットの出現で、世界は狭くなったことを改めて実感します。

◎つらつら振り返ってみるに…

話は昨年の9月14日(水)に戻ります。上の娘の甲状腺治療のために原宿の伊藤病院を訪れたところで、その相談センターで甲状腺亢進症と甲状腺眼症のことについて聞いてみました。私も甲状腺の病気では伊藤病院にお世話になっています。その時の話によると、甲状腺亢進症と甲状腺眼症との関係やそこにいたるメカニズムについてはよくわかっていないとのことでした。ただ、亢進症になった場合、80%はメルカゾールの投与でよくなるのですが、20%は私のようにほかの病気を誘引するのだそうです。私は運が悪かったのでしょうか。

つらつら振り返ってみますと、そもそも甲状腺亢進症であることが明らかになったのが、2009年の12月3日(木)のことでした。高脂血症の治療などで通院していたせいきょうあつぎ診療所の検査でわかりました。それから2010年は、治療を続けながらも、とにかく忙しい1年でした。とくに2月からはもう地獄のような日々でした。このサイトでも紹介しているところの、2007年度〜2009年度教育研究所個別プロジェクト研究の『史料叢書「幕末風聞集」—東海大学付属図書館所蔵史料翻刻』の刊行を急がなければなりませんでした。全編が225ページにおよぶ史料ついては、そのすべてを原典となる古文書とつきあわせる原典校正をしなければなりません。1ページは28字×20行で2段組ですから1,120字で、400字詰原稿用紙で2.8枚分。225ページ分ですと、単純計算で252,000字、400字詰原稿用紙に換算すると実に630枚分になります。2度ほど見直しています。しかもこの史料集は全編をワープロソフトの一太郎で組んでいますから、レイアウトから校正の何から何まで最後は全部一人でやらなければなりません。巻頭の言葉や史料についての解説も書かなければなりません。解説は16ページほどになりました。ですから、それこそ土曜日も日曜日も返上して研究室に籠もっていました。また、この頃は、厚木市郷土資料館で古文書講座も担当していました。さらに、当時は神奈川県立の厚木高校という学校のPTA会長を務めていましたから、3月1日の卒業式に向けて、式典の挨拶文はもとより、卒業式の後に保護者を対象とした茶話会のために流す40分程度のスライドショー(入学から卒業までの写真を先生方やPTAから集めてPowerPointで編集するのです)を作成していました。さらに卒業式が近づくと、その茶話会で先生&PTA役員混成軍が海援隊の「贈る言葉」を演奏する予定になっていて、私はタンバリンを担当することになっていましたから、その練習も入ってきました。卒業式の前日などはスライドショーの最終確認をやって、代わる代わる卒業式典の挨拶文の読み合わせとタンバリンの練習をやってと、端から見ると今考えても滑稽な姿だったろうなと思います(^_^;)それにこの頃は、PTA会長最後の仕事として、「PTAマニュアル」なる小冊子も作成していましたね。そうしたPTA会長の仕事は、会長を交代する春のPTA定例総会まで続きます。総会は5月11日(火)でした。さらに、2月〜3月には、職場でも私自身にいろいろと問題が起こっていました。それが後述する夏のリポートに繋がります。そうした中で、『関東近世史研究』に掲載予定の「神奈川県の自治体史編纂と近世史研究」と、東京学芸大学の大石学先生が主催されている時代考証学会が刊行する『時代考証学 ことはじめ』(東京堂出版)に掲載予定の「演劇アーカイブズの可能性—劇作家北條秀司資料について—」という2本の論文も書いていました。そうそう、静岡県伊豆の国市韮山の江川文庫の調査にも参加していましたね。

4月からはその年だけでしたが、授業のコマ数が増えた上に、1年間だけでしたが青山学院大学の相模原キャンパスでも教えることになっていました。急死した友人の代わりです。入試関係の業務もありました。また、2010年度内には、厚木市や伊勢原市、大磯町、神奈川県立公文書館での歴史の講演も5本ほど入っていました。6月19日(土)には、関東近世史研究会の月例会で「関東における文久期の危機管理と武力・暴力—打ち殺しても切り殺しても…—」というタイトルで研究報告を行なったのですが、この準備と報告概要の執筆もけっこう大変でした。それからこれは毎年のことですが、7月のはじめにかけては、さる歴史系の著書の表彰作品に関する仕事もあります。評価をリポートにするわけです。そして、7月の中頃から8月のはじめにかけては、大学当局に提出するための学園史資料センターに関する業務の現状報告と、将来のビジョンについての2本のレポート書きに追われました。これはさらに大変で、提出は8月4日(木)のことでした。それらが終わると、『新横須賀市史』の近世通史編の執筆が本格的となりました。いや、もう5月、6月頃から、とにかく予定通り年度末に発刊するようにとのことでしたので、すでにプレッシャーはかかっていましたが、この頃からそれこそもう必死でした。結局、刊行は、翌年の6月になってしまいましたが…。『新横須賀市史』の近世通史編については、7月から8月にかけてのブログでも触れていますが、私は第六章 三浦半島の交通第一二章 海防の最前線の2つの章を担当しました。第六章が231ページから276ページで46ページ。第一二章が517ページから597ページで81ページ分を書いています。1ページは52字×18行ですから、総ページ数127ページは、文字数にして118,872字で、図表を入れたとしても400字詰め原稿用紙に換算すれば、297枚あまりになります。気がつけば私が一番執筆の量が多かったということでした。もう笑うしかありません。原稿を書き上げたのは11月30日(火)のことでした。気がつけば、2月のはじめから11月の末までずーっと原稿を書き続けつつ、授業や研究発表や講演を行なっていたことになります。もちろん、本務である学園史資料センターの仕事をおろそかにするわけにはいきません。実際には、かなりスタッフに負担をかけることになってしまって申し訳なかったのですが…。また、とくに10月からは所属部署である教育研究所の編集担当として、『研究所紀要』と『研究資料集』の2つの論文集の募集から、論文の入稿管理、査読者の選定、査読結果の通知と処理、編集、出版社・印刷会社との打ち合わせといった仕事もこなさなければなりませんでした。また、私自身もこの『研究資料集』に「村落小学校栃木県安蘇郡閑馬学校関係史料目録について」という論文を書いています。2010年度から始まった教育研究所の新しい個別プロジェクト研究の研究成果です。

それにしても、この年は、いったいどれだけの文字を書いたのでしょうか。はじめてでした。文字を書いていて(打ち込んでいて)、そのことに吐き気を覚えたのは…。こうしてまとめてみますと、我ながらよく乗り切れたものだと改めて感心しましたf(^ー^;  正直言って、どれか一つでもいいから少し休ませてもらいたかった。でも、それは叶いませんでしたし、年齢的にいっても、いやしくも大学の教員を名乗るならば、これくらいの仕事は当たり前かなとも思っていました。他大学でもリスペクトできる先生方はやっぱりすごいですもの。しかしながら、でも、やっぱり、本当に無理はいけませんよね。

ここで今ひとつ、心当たりがあります。花王の「めぐりズム」という製品で、「蒸気でホットアイマスク」というキャッチコピーにあるように、眠る時にアイマスクのように装着すると蒸気で暖かくなって、目の疲れを癒やせるというものです。私もさすがに目が疲れますからよく使っていました。いや、この製品を非難するつもりはさらさらありません。ただ、その箱書きには、目に異常があれば直ちに使用を中止して下さいと書いてあります。もう少し早く目の異常に気がついて、その時点で中止すべきだったと思うだけです。

◎記録を残すということ

最後は発病に至る一昨年の仕事の回顧になってしまいましたね。何事もやり過ぎてはいけないということです。でも、「記録」を残しておけば、こうした記述もきちんと書くことができます。テレビやネットでは、東日本大地震やその後の福島原発事故の対策について政府が議事録すら残していなかったというニュースをさかんに流しています。今日は、これに対してアメリカが迅速に情報収集に努めていたことを伝えています。つまり、この災害や事故のことをきちんと検証したければ、アメリカの資料に頼るのが一番ということになるのです。この国の情報能力どころか、書類作成能力、そして資料整理能力、管理能力の低さを嘆かずにはいられません。それは先の史料管理学演習でも懸念として話しをするのですが、それをいっそう補強する事例となってしまいました。この分ではアーカイブズへの意識など言わずもがなです。そもそもこの国の政治では、重要なことは隠すべし、寄らしめるべからず、知らしめるべからずという観念が昔から蔓延していて、行政はもとより、企業や教育機関などでもそれは同じなのかもしれません。最後は、「記録を残すこと」とオープンにすることの重要性を指摘して終わりにしたいと思います。

あ、最後にもう一言、院長先生をはじめとする先生方に、そしていつも優しい優しい看護師さんたちのすべてに心から感謝申し上げます。

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【徒然】みたびの入院 甲状腺眼症という病気とその経緯 への8件のフィードバック

  1. すみちゃん のコメント:

    深夜におじゃましました

    しかし、こんなに文字を打ち込んじゃって大丈夫なんですね。

    きょうびの手術のリカバリー力に驚きました。

    余り調子にのらないように…<こんなところにコメントするのおかしいけれど>あまりの長文

    に一種の感動?とちょっと警告をする奴がいたほうがいいかな~と。

    御身大切にねっ

    • 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

      おはようございます。ご心配どうもありがとうございます。
      実は、入院にあたって少しずつ書いていたので、実際に書いたのは入院後の部分になるのですが…、やっぱりちょっと無理したようで、本日、目が覚めた時にはちょっと調子が悪かったです(^_^;)
      ご忠告ありがたく頂戴して、ボチボチやっていこうと思います。でも、まだ資料集の解説やら研究報告の準備やらがあって、なかなかゆっくりもできないのですが、せっかくの缶詰状態?!ですから、できる限りは頑張っていきたいと思っています。でも、やっぱりボチボチですね。

  2. さっつん のコメント:

    こんばんは。わたしも甲状腺眼症を患う 勤労子育て主婦です。
    そして同じくオリンピア眼科にかかっています。
    (伊藤病院より紹介され2院に通っています)
    ステロイド注射をして、その効果のピークがそろそろ来るので
    そのチェックが明後日になります。
    それによって、手術になるかな・・・と。
    できれば、鍼灸で眼筋をどうにかできないかと
    近所の鍼灸院で
    週に1.2回眼の周囲はじめ全身への鍼を処置してもらっています。

    手術を終えられ半年ほどが経っておられるかと思いますが
    経過はいかがですか?

    良好な推移をお祈りしております!

    • 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

      さっつん様

      こんにちは、馬場です。ご連絡ありがとうございました。
      さっつんさんも甲状腺眼症なのですね。子育てしながらですと本当にたいへんだと思います。これはかかったものしかわかりませんからね。
      いずれにしましてもお心遣いありがとうございます。blogでも書いておりますが、私も伊藤病院とオリンピア眼科病院に通院していますから、言わば先輩ですね(^_^;)
      おかげさまで、2月の手術から8ヶ月近くがたって、どうにか経過も良好なようです。ただ、私の場合は、病状が結構進んでいて、ステロイド・パルス療法を終えて、手術になる段階で、手術しても眼球の動きは70〜80%しか回復しないと言われておりましたので、今でも上の方と下の方は二重に見えてしまいます。上の方はまだいいのですが、下の方は本を読んだりするのにやはり不便ですね。その分、頭を動かせばいいのですから、それはそれでいいのですが、ただ、遠近両用眼鏡だと下の方はやはり見づらいですね。でも、手術して2ヶ月ほどはもっと二重に見える度合いが大きくて、ちょっと苦労したのですが、2ヶ月を過ぎた頃から今の状態に落ち着きました。一時は再手術かとちょっと怯えて?!いましたが、今のところはそんな心配もないようです。
      でも、昨年の夏、一番はじめに入院した時、となりのベッドになった方は、8回目の手術でようやく真ん中の焦点が合うようになったんだというお話しをされていましたから、これでもまだいい方だったのかなと思っています。
      さっつんさんも、とにかく、このまま治まってくれればいいですね、本当に。このさきどういう治療になるのか、不安かもしれませんが、眼球そのものが悪いわけではないのですから、前向きに考えていきましょう!!
      私の方こそ、良好であることを心よりお祈りしております。

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