《コラム》3.11大震災に寄せて 元禄地震と富士山噴火


金井島村と岡野村(現神奈川県開成町)の年貢米

3月11日の大震災から2ヶ月が過ぎた。神奈川に住んでいる私だが、実はこの時の揺れを体験していない。ちょうど九州は福岡の実家に帰省していた。九州の各地では、明日に開業を控えた九州新幹線の話題で沸き立っていた。

この未曾有の大災害を、それが発生した時点からずっとテレビで視ていた。ただただ視ていた。画面の向こうにリアルタイムで流れる光景は、この世のものとは思われなかった。のちに友人は、あの揺れを体験しなかったのは、同時代の人間として残念だといわれたが、そうなのかも知れない。

私自身、研究者として自然災害には人一倍思い入れがあったつもりである。それは農家の出身ということもきっと関係しているのであろう。私の専門とする江戸時代では、それこそこうした災害の史料には事欠かない。折りにつけそうした史料をみてきてはいたが、主には洪水に対する治水事業だったり、これから述べる小田原藩の災害復興過程の問題だったりして、正面から被害そのものを取り上げたことなどはなかった。

いずれにしても今回の災害は、これまでのそうした研究の私自身の視点や姿勢の甘さというか、そうしたもののすべてをもう一度真正面から見つめ直すのに十分であったと思う。

◎元禄小田原大地震と宝永の富士山噴火

私の主要研究テーマの一つは、近世中後期にかけての小田原藩政である。この問題を考えていく上で、どうしても避けては通れない問題がある。元禄16年(1703)に起こった小田原大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火である。西相模は地震の多発地帯としても知られているが、この二つは特別である。2007年は宝永4年の富士山噴火からちょうど400年目にあたったので、多少世間の耳目を集めていたが、その4年前に起きた大地震の意味も大きく、本来二つはセットで考えなければならないと考えている。それは何よりも、小田原藩自身がのちのちまでそう述べているからである。以下、二つの災害について、小田原藩に残された記録を含めてまとめてみよう。

元禄16年11月23日は、西暦でいえば1703年12月31日、今なら大晦日にあたる。午前2時頃のことである。房総半島の南端、今の千葉県野島崎あたりでマグニチュード推計8.1という大地震が発生した。大正12年(1923)の関東大震災と同タイプの海溝型地震である。

小田原藩領では、この大地震とその後の火事で小田原城の周りや家臣の家屋敷から小田原の町、領内の村々にいたるまで壊滅的な打撃を受けたという。被害のいちいちは確認しないが、この大地震によって、小田原藩は幕府から復興資金として1万5000両を拝借し、当座の手当として城周りの工事費として10万両、領内の町や村の復旧資金として6万両余がかかったと記録している。1両は時代の相場によっても変わるが、だいたい10万円から20万円の間で考える。ここは一つ高めに見積もって20万円とすると、幕府からの拝借金が30億円、城周りや家臣の家屋敷の復旧資金が200億円、領内町村の復旧資金が120億円といったところであろうか。いずれにしても、多大な出費であることには間違いない。

この前年、元禄15年(1702)の暮れ、12月15日には世に名高い赤穂浪士の討ち入り事件が起こっている。世間ではこの大地震を赤穂浪士の恨みであるといった噂も流れたという。討ち入りの日は、実は西暦に直すと1703年1月31日になる。今の暦であれば同じ年のことであった。

いずれにしても大地震という大きな吉凶を懸念した幕府は、すぐに改元を行なう。その新たな元号が「宝永」だったのである。吉凶は改元のもっとも重要な理由づけとなった。

それからわずか4年後に、今度はかの富士山が大噴火するという大災害が発生するのであるが、これには一つ複線がある。宝永4年10月4日(西暦1707年10月28日)の丑の下刻から未の上刻というから、午後1時から2時頃のことである。遠州灘沖から紀伊半島沖を震源とする推計マグニチュード8.4の大地震が発生した。東海道から紀伊半島・四国まで同時発生の東海地震、南海地震連動型大地震である。宝永4年は亥の年であったから、「亥の大変」とも呼ばれた大地震であった。それは確かに予兆だったのであろう。

それからひと月半後の11月22日、その日の夜、富士山麓一帯では強い地震が数十回も続いたという。明けて23日(西暦1707年12月16日)の午の刻(午前10時頃)、富士山南東部の斜面、標高2,100メートルから3,100メートル付近より突然、白い雲らしきものがわき出した。大噴火の始まりである。この時にできた火口が今、「宝永山」と呼ばれる場所である。

いちいちの被害はここでも書かないが、この噴火では何より、火山灰を大量に吹き上げたところに大きな特徴があった。大量の降灰被害は、23日から翌12月の8日(西暦12月31日)まで16日間も続いた。それは遠く江戸までも降り注いだという。ただし、当時の史料では「火山灰」とはいわない。通常は「砂降り」「降り砂」と呼んでいる。史料に合わせてここからは「砂降り」「降り砂」と総称することとする。宝永地震の「亥の大変」に対して、この富士山噴火は、「亥の砂降り」と呼ばれている。その砂降りのもっとも大きな被害を受けたのが小田原藩領の村々であった。

藩の記録では、富士山噴火による大量の砂降りで、相模国・駿河国・伊豆国にある藩領の村々5万6000石余が亡所となったとある。小田原藩の石高は、11万3000石であったから、実にその約半分にあたる広さである。相模国小田原に居城を構える藩の立地からすれば、今の静岡県にあたる駿河国・伊豆国の領地は本来飛び地にあたるが、一括して「城付領(しろつけりょう)」の「駿豆相(すんずそう)」領分とされていた。城周辺部の基本となる領地ということである。

いずれにしろ、このわずか4年前に大地震に見舞われて大きな出費がかかったばかりである。「亥の大変」の被害も受けていた。そんな状態で大量の降り砂を片付けることなどとうてい無理であった。耕地の回復など、想像にもおよばなかった。それに輪をかけたのが、噴火後に降った大雨である。雨に流されて、大量の土砂が川に流れ込んだ。とくに、もっとも大きい酒匂川(さかわがわ)に流入した土砂は、大口土手をはじめとする治水施設をことごとく破壊し、流路が大きく変わってしまうほどの被害をもたらした。しかも流入した土砂で川床が高くなり、ただでさえ「暴れ川」と呼ばれて洪水の多かった酒匂川をさらに洪水の起きやすい川へと変えてしまったのである。だから、酒匂川流域の村々がもっとも被害が大きく、もっとも復興が困難な地域となっていったのである(上図参照のこと。金井島村も岡野村も酒匂川沿いの村で、宝永4年の噴火後、年貢米が0に落ち込んでいるのがわかる)。

この地震と噴火と洪水、言い換えれば、砂と水の被害こそが、その後の長い年月、藩を苦しめ続けてきたのだという。地震が噴火に連動して未曾有の被害へと拡大していく恐ろしさがここにあった。

◎被災地を幕府領に…

復旧のための手段にも費用にも窮した藩はどうしたのか?

結論からいえば、亡所となった5万6000石のうち、被害の大きかった村々を幕府に願い出て返上してしまったのである。形式上であれ、大名の領地は将軍から与えられるものであったから、このように領地を返上することを「上知」(上地=じょうち・あげち)と呼ぶ。上知した村の数が駿豆相あわせて118か村。駿豆相はだいたい305か村程度であったから、約39%にあたる数である。数の単位が史料によって石高であったり村数であったりするのでちょっとやっかいだが、これらを基準として、これからも史料に沿って話を進めていくことにする。

さて、上知した領地に替えて小田原藩には、三河国(愛知県)・美濃国(岐阜県)・播磨国(兵庫県)・伊豆国(静岡県)に代わりの領地=代知(だいち)229か村が与えられた。幕府の温情のようであるが、これは特別のことである。大災害があったとしても、幕府がそうやすやすと代わりの土地を与えてくれるわけではない。箱根の関所(箱根町)をはじめ、仙石原(せんごくばら、同)、矢倉沢(南足柄市)、谷ケ(やが、山北町)、川村(同)、根府川(ねぶかわ、小田原市)の6つの関所を管理する譜代小田原藩は、関東の出入り口でも、将軍―幕府の居城がある江戸の西を守る役目を義務づけられた唯一の藩である。戦国時代の流れで関東の守りは北に厚く、西側は薄い。その小田原の地を幕府も守っていかなければならないという事情があった。

いずれにしても、被災地を幕府領(幕領、天領)に移して、いわば「公用地」として収公し、砂の除去や河川の治水などの復旧工事を代わって行なったわけである。それは並大抵の工事ではない。ただし、幕府が幕府の費用で全面的に工事を行なったわけでもない。一つには筑後国久留米藩(福岡県久留米市)や備前国岡山藩(岡山県岡山市)などの諸藩に命じて復旧工事を分担させている。これを御手伝普請(おてつだいぶしん)という。

さらに幕府は「高役金」(たかやくきん)と称して、全国一律に高100石あたり金2両の拠出を命じた。先の計算で行けば現在の貨幣価値に換算して100石あたり40万円。大名の格を与えられる領地1万石では200両=4,000万円、10万石で2,000両=4億円という計算になる。こうした費用はすべて村々に課税されたから、何のことはない、土地を持っているものはその量に応じて全国一律にお金を徴収されるわけで、臨時に増税するようなものである。仮に1石の土地を持っていたら、4000円ということになる。こうして全国から40万両(800億円)の復旧資金を集めたのだが、実際に被災地に投入されたのは、16万両(320億円)だけで、残額は幕府の財源に充てられたという。ただし、こうして幕府が全国一律に臨時金を徴収できるようになったのは、この時が実ははじめてで、そうした意味でも画期となるものであった。

それにしてもである。今回の大震災と福島原発を含むその後の経緯をみるたびに、復興政策の骨格は江戸の昔も今も変わらないようにも思える。そしてクライシスの時ほど政府の力量が問われることにも違いはない。

◎復興という命題

幕府の手によって復旧工事が完了した村は、2回にわたって小田原藩領に戻されている。まず、噴火から9年後の享保元年(1716)3月には相模国・駿河国2か国の内、2万7946石余が返還された。その次はかなり間があいて、40年後、延享4年(1747)9月になった。その間に領地が移動しているので、正確なところは確認できないが、残りの2万8000石ほどの村々である。ここまで時間がかかったのは、先に述べた酒匂川の治水工事が困難を極めたことによる。これには武田信玄の信玄堤で有名な、関東郡代伊奈半左衛門による甲州流の治水技術や、8代将軍徳川吉宗が紀州藩から召し寄せた井沢惣兵衛による紀州流工法の導入、さらには講談の名奉行として有名な大岡越前守忠相が「関東地方掛(かんとうじかたかかり)」として治水事業に関わるなど、享保改革期の治水政策や農村政策が絡んでいるので、非常に興味深いが、これも指摘に留めておこう。

肝心なことは、小田原藩にとってみれば、むしろ、返還された後の方が問題であったということである。ようやく復旧がなった耕地は、降り砂の影響で著しく生産力が落ちていた。酒匂川の流れも完全に安定したとは言い難い。足柄平野の根幹をなす地域である。領主の政策としては、よく年貢収奪の強化とか、年貢増徴策などと呼ばれたりするが、この場合は年貢の回復が大命題である。でなければ家臣の俸禄米(給料)すら思うように支払えない。事実、小田原藩自体が、すべての村が戻された後は、噴火の前に比べて1万120石ほど年貢米が減少してしまったと述べている。小田原藩の年貢米の量はだいたい総量で4万5000石ほどであった。

土地の生産力が回復するまでは無理なことはいえず、勢い年貢の率も低く設定せざるを得ない。これでは代知を預かっていた方がよかったということにもなる。耕地の回復を待つだけでは難しいので、新しく用水路を開いたり、土地を開墾したりといったことも必要になってくる。現実問題として、村も耕地もまだまだ復興過程にあったのである。

そうした過程を克服して、曲がりなりにも年貢米が回復したと思える時期がいつかといえば、データ的にみれば文政年間のはじめ(1820年前後)頃のことだと思われる。富士山噴火から実に120年近くたっての話である。それほどに大災害からの復興というのは極めて難しい課題なのである。

その時期に藩主を務めていたのが、19世紀前半の文化文政期から天保期にかけての藩政改革を推し進めた大久保加賀守忠真(ただざね)であった。忠真といえば、二宮尊徳を取り立てたことで知られ、この時の改革も一般的には尊徳による報徳仕法の導入と運用の問題としてのみ語られることが多い。だが、きちんと分析すれば、尊徳仕法も実際には改革全体の大きな構造のなかの一過程に過ぎないことを知るのであるが、これもいずれ明らかにすることにしよう。

ともあれ、この大久保忠真による藩政改革が『小田原市史』や『南足柄市史』などの編纂によってたつ、私の小田原藩研究のメインテーマであった。1990年代といえば、藩政改革というテーマそのものがマイナーな存在になっていたのだが…。

いずれにしても、忠真の改革政治はどの時代よりも積極的で先進的なものであった。それに比べれば、前代までの藩政は自らがいうように元禄の大地震と宝永の砂降りの被害に規定されて、なかなか有効な手立てが打ち出せず、勢い消極的にならざるを得ない。それはその通りであろうし、私自身もそう評価していた。

だがしかし、2011年3月11日の大震災とその後の経過を体験したわれわれは、もう一度大災害というものの持つ意味、その社会的意味、歴史的意味というものを考えざるを得なくなってしまったのではないだろうか。歴史の過程の一因としてではなく、そのものを研究のど真ん中に置いてもう一度考え直してみる。時代が違うとはいえ、100年以上にわたって規定し続けるなんてざらなのだ。簡単に復興などとはいえないものなのだ。一代や一人の「英雄」で乗り切れるものではないのだ。小田原藩の例でいえば、忠真の父忠顕(ただあき)の代、寛政6年(1794)2月に、砂降り以降に行なわれていた年貢の減免措置を止めて、年貢率を引き上げ、10か年の間定免(じょうめん)とすることを命じたことの持つ意味は大きい。この場合の定免とは、1反(約1アール)あたりの年貢米の量を「何斗何升」などと決めてしまうことをいう。この基準が基本的に後々まで引き継がれていくことになる。年貢米の問題に大きな区切りをつけ、そのことを果たして忠顕は、忠真に後を託したのである。だからこそ、忠真は新しい政治にチャレンジできるようになったともいえよう。

より大きな目でみれば、私の小田原藩研究は、この二つの未曾有の大災害から幕藩体制という条件の中でどのように復興を果たしていくかという命題から出発していたのだ。それは確かに小田原藩の「個性」である。それを副次的なものとしてではなく、まずは正面に据えるべきなのだ。そのことを肝に銘じたいと思う。幸いにして、2000年代以降には、藩世界や藩社会、藩領社会などのキータームで藩の研究も新たな息吹が吹き込まれている。

今回の大震災は、おそらく政治や経済はもちろんのこと、生活のスタイルや平常の意識すらも大きく変えてしまう力を持ったものであろう。何がどう変わっていくのか、われわれはその過程に注視して、記録にとどめていく必要があるのではないか。後に歴史的評価を下すときに、確かに大きな大きな転機であったことには間違いがなく、問題はそれを検討する材料がどれだけ残っているかであろう。歴史家、いやアーカイブズを名乗るのならば、それも重要な責務であることを自覚しなければならないであろう。ましてや今はインターネットの時代。あふれる情報を収集して整理することは、今のスキルではかなり困難な作業ではあるが…。

そして、当たり前のことだが、歴史研究は、そうした「現実」「現在」によって鍛えられていくものであり、鍛えられていかなければならないものないとつくづく思う。はじめてのコラムは、研究を中途半端な思考では終わらせてはいけないという私自身の決意表明でもある。

最後に無力な一人のただの人間として、この災害が元禄の大地震と宝永の噴火の時のように複合的に連動していかないことを祈るばかりである。

*********************〈馬場 弘臣〉

《参考文献》

永原啓二『富士山宝永大噴火』(集英社新書 2002年)

『小田原市史』通史編 近世(1999年)

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《コラム》3.11大震災に寄せて 元禄地震と富士山噴火 への2件のフィードバック

  1. 吉田秀樹 のコメント:

    新井白石の「折りたく柴の記」には元禄の地震と宝永噴火による江戸の降灰に関する記述があります。

    • 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

      吉田 秀樹様

      こんにちは、馬場です。貴重なアドバイスありがとうございました。退院後、休息のために少しサイト運営から遠ざかっていまして、返信が遅くなってしまいました。申し訳ございませんでした。
      『折りたく柴の記』の件は承知しておりますが、考えてみれば、しっかり読んだことはありませんでした。今後、まとめていく上で参照したいと思います。
      取り急ぎ御礼まで。

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