【徒然】初月命日 本当に大切なもの


今日は父の初月命日です。あれからひと月、早いもので…、と言うべきか、まだひと月なのか…。気持ちとしては両方です。あっという間のひと月だったようでもあり、まだひと月前のことなのかとも思います。

先のblogで、農業一筋と書きましたが、正確なことを言えば、あるいは現在の農業の経営区分で言えば、農業だけをやっていたわけではありません。私の幼い頃は、馬車で山から材木の切り出しをする仕事をしていて、だから小学校に上がる前までは馬を飼っていました。籾すりの機械を買ってその請け負いの仕事もしていました。小学生の頃までは、年末に籾すり代の集金をするのが私の仕事でした。また、母も冬場に仕事がない時には、近所の製紙工場で働いていました。こうなれば兼業農家ということになるのでしょうか?私の専門分野である江戸時代であれば「農間余業」(のうかんよぎょう)あるいは「農間稼ぎ」(のうまかせぎ)と言うことになります。そもそもが分家の小作上がりで、1町ほどの田畑の耕作ではやっと食えていくくらいの、いわゆる典型的な「小農民経営」です。このような零細な小農民経営では、農間余業で現金収入を補わないとやっていけないのです。家族労働を主体とする小農民経営は江戸時代に主体となったというのが歴史学界の常識ですが、ある意味、今でもその内容は変わっていないようです。

3月のblogでも書きましたが、そうした農家がとりあえず農業経営一本で食べていけるようになったのは、一つには1950年代半ばから始まる高度経済成長を契機に日本全体が豊かになっていったこと、とくに果樹が都会の人たちの消費生活にマッチしたことが大きな要因だったと思います。その中でもイチゴの力は大きかったですね。

下の葉書は、3年ほど前に緒形拳さんからいただいたものです。実家に帰郷した際に何かの御礼として(何の御礼だったかは忘れてしまったのですが…)あまおうのイチゴを送ったので、その返礼としていただいたものです。写真ではよくわかりませんが、和紙の葉書に描かれていて本当に味のある筆文字に、見事なイチゴの絵です。緒形さんからいただいた手紙や葉書の中でも秀逸だと思います。父もこれをたいそう気に入っていまして、いつもカバンに入れて持ち歩いていて、よく人に見せていたそうです。私も八女のイチゴの宣伝に使ったらと言ったことがありました。もっとも、宛先は、実は私宛なんですがね(^_^;)

さて、晩年父は、時間のあるときには農業のことやら地元の歴史やらについて文章を書いては町内の広報誌などに投稿していたようです。夏に帰郷した際に、父から今年の3月に亡くなった同い年の親友に寄せた文章をみせてもらいました。藤島貞雄さんという方で、藤島さんは私の故郷、八女郡の広川町では早くからイチゴ栽培を始めた一人でした。その長男が私の幼なじみでしたから、小学生の頃に遊びに行って、たらふくイチゴを食べさせてもらって感激したことを覚えています。ちなみに藤島さんの弟さんは、私の中学時代の恩師です。先生もその幼なじみも父の通夜に来てくれました。本当にありがたかったです。

父の話では、藤島さんは広川町だけではなく、福岡のイチゴが東京へと販路を広げるために尽力されたのだそうで、今の人たちはもう知らないことだろうから、友人代表として弔辞として話したかったと言っていました。それが叶わず、仕方がないので、文章にまとめて、何かに投稿するのだと言っていました。まだ草稿でしたが、読ませてもらって、父が如何にその友人を大事に思っていたかが端々に滲み出ていて、そのままiPhoneでスキャニングして取っておきました。ちなみにワープロにしたのは、私のかわいい姪っ子です。その後、これを投稿したのかどうか、何かで活字になったのかどうかわかりません。でも、それはどうでもよいことです。それは戦後における私の故郷の農業史の一コマでもありますので、そのまま修正せず、ここに載せたいと思います。父の親友に対するレクイエムは、そのまま私の父に対するレクイエムです。

◎励ましあった友との別れ

人には出会いがあり、別れがあるのは当然のこと。何度経験しても、別れは辛いもので、悲しいことだ。特に、今年の3月に突然訪れた友との別れは辛く、悲しいものとなった。昭和7年生まれの友だちの枠を越え、農業を通じて同じ作物をつくり、一緒に活動してきた。何もかもを指導してくれる友であり、イチゴ作りの先輩であった。

先だった友との思い出は、戦後食糧難の時、米十俵取りに挑戦しなければ食糧不足は改正できないと2人で農業生産販売課に行ったのが始まりだった。

昭和37年に農協青年部が出来たとき、彼はブドウと米の経験もあったため、青年部ブドウ初代部長だった。私は当時ブドウとミカンを作っていたので、ミカン青年部部長でよく農業について語り合った。

昭和42年に各集落にあったブドウの集荷を農協一本にまとめ、農協集荷となり、最初のブドウの検査員を彼と2人で行なった。そのときから私が腰を痛めていた為「君は見ているだけでいい。自分が荷物を運ぶから。」と気を使ってくれた。そんな心の優しさを持っている彼だった。

次にイチゴ作りについての思い出を書いてみたいと思う。昭和44年からイチゴ作りが多くなり、当時は個人出荷で久留米市場では場所取りが大変だということで”なんとかしなきゃ”と共同出荷を思い立ち”送り先の市場を開拓しなきゃ”といってなんでもよく話し、自分の思いを語ってくれた。下関青果から広島の広印青果を送り先として開拓したが、昭和45年頃から水田転作が始まり生産が多くなり「東京の市場を開拓して東京の胃袋を狙って東京へ行ってくる」と言って彼は東京に「自分で作って自分でパック詰めをしてそれを持っていく」と話してくれた。東京では昭和40年代後半にはミカンが暴落している頃だった為、どこの山からミカンを売りに来たのかという態度だったが「イチゴを持ってきました」と伝えると市場の人の態度がごろっと変わって「どうぞ、どうぞ」と話を聞いてくれたと東京市場から帰ってきて話してくれた。そこでイチゴの東京市場を開拓して、広川地区・八女地区・福岡のイチゴの東京進出や発展は彼の力が大きいと私は思う。いずれ、誰かが東京市場を開拓するにしても最初の思いつきは彼の力だと私は思っている。

ただひとつ彼に対して謝りたいことは、彼がイチゴの東京市場を開拓し、イチゴ部会長をして頑張っていた頃、小学校のPTA会長に彼が推薦された。イチゴ部会を成功させるのに力を入れてくれと私がPTA会長を反対してしまった。あとで感じると彼なら両立出来たと思ったが、最後まで詫びることができなかった。

最近では昭和7年生まれで、正月7日の日に7日会を友達と一緒に語りあっていたが、彼と私、2人が40年近く1回も欠席していなかった。しかし、彼はもういない。今年で私たちは80歳になる為、友達男女元気な印として八十路会で同窓会旅行しようと言うことになり、平成24年3月25日に友達の家にて親睦旅行について8人だったが話し合った。彼は旅行会社にも自ら電話して元気だったが、翌々日の朝友人からの訃報に信じられなく、別の友達に確認したほどだった。でも彼とはもう2度と会えない。八十路を共にもう少し励ましあって生きて行きたかった。こんな急に人生の終わり、別れがくるとは思いもしなかった。今、私は一番の相談相手を失った。人生何があるが分からない。しかし、私はこれからも、彼と一緒に行なってきた農業を精一杯続けていきたいと思う。

スキャニングの日付を見ますと、8月15日となっていました。お盆のことです。父とはお盆にこんな話をしたのだなと改めて思いました。よもや親友が亡くなってから半年後に自分も亡くなるなんて思ってもみなかったでしょう。文の最後を父は「私はこれからも、彼と一緒に行なってきた農業を精一杯続けていきたいと思う。」と結んでいます。すでに肺がんの告知を受けていたこのお盆の時期でさえ、文字通り命の限りに農業を続けていこうと思っていたのだと思います。そしてその言葉通り、命の限りに父は農業を続けて逝ってしまいました。きっと今頃は、そんな話をしているのだろうと思います。

馬場弘臣 のプロフィール写真
カテゴリー: 日々徒然 パーマリンク

【徒然】初月命日 本当に大切なもの への3件のフィードバック

  1. TRCCの安田です のコメント:

    本当に大切なもの、というタイトルに引き込まれて読みました。お父さんと藤島さん、いいですね。お正月に私の父に銀行時代の同期の仲間から最近もらった手紙を見せてもらい思い出話を聞いたんですが、父の青春時代の話をもっと聞きたいなと思ってます。クソ真面目でこどもに甘いサラリーマンの父しか知らない。
    馬場先生はちゃぁんとお父さんのこと小さい頃から見てきたんあなぁと思ってうらやましくなりました。緒方拳さんのいちごのハガキもステキですね。保存は大丈夫ですか?つい気になる。

    • 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

      安田様

      こんにちは〜、その後お変わりありませんか?

      父と藤島さんのことは前からよく知っていたつもりでしたが、夏に話をして、父の文章を読んで、どんなに大切な人だったかということを改めて強く再認識した次第です。尊敬できる親友というのはやはりかけがえのないものですよね。父の文章を読んでいたら、それが自分の歴史でもあるんだな気づかされました。
      緒形さんの葉書や手紙は一応、専用のポリプロピレン製葉書&書簡整理用バインダーにいれております。大丈夫だと思うんですが…(^_^;)また、今度アドバイスを下さい。そしたらまた皆さんに紹介できますしね。よろしくお願いします!

  2. ピンバック: 【史料学_号外】再起動にあたって | Professor's Tweet.NET

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*