「忙中閑あり」とはよく聞きますが、忙中はやっぱり”忙”です。と、一人で文句を言いつつ、3月も早、下旬となってしまいました。既報の通り、史料管理学演習の授業を使って伊豆国田方郡土手和田村文書の史料整理を始めたのですが、その報告もままならないままでした。授業は2月18日から22日まででしたから、もうひと月がたちます。遅ればせながらの報告です。
土手和田村は、現在の静岡県伊豆の国市韮山に含まれます。伊豆の国市に合併する以前は韮山町でした。平凡社の『日本歴史地名体系』によれば、土手和田村は四日町村の枝郷で、村名は土手と和田島をあわせたものであるといいます。この土手分には松並という地域も含まれるそうです。こまかなことは現地に行かないとわかりませんが、これらの地名によって、旧狩野川の中洲や自然堤防上に成立した集落であることがわかるといいます。和田島については、小田原北条氏の「所領役帳」に御家中衆の畊月斎の所領役高として「和田嶋多田ニ伏」で15貫文がみえるそうで、以下、土手和田島は戦国期の文書に現れる地名です。江戸時代、村高は元禄年間(1866〜1704)以後は一貫して24石7斗1升であるといいますから、石高的にはかなり小さな村落ということになります。初めは幕府領で、享保14年(1729)掛川藩領、延享3年(1746)陸奥棚倉藩領、明和4年(1767)幕府領となり幕末に至ります。天保15年(1844)の「村々様子大概書」(江川文庫蔵)では田方5反余・畑方2町5反余に対して、家数43軒、人数143人、馬5疋となっています。村の規模の割には家数や人口が多いようですが、これは四日町村に耕地を残して継続耕作していることと、東の隣接する幕府代官江川氏御囲地田畑を耕作していたためだそうです。ただし、『角川地名大辞典』によれば、宝暦6年(1756)の家数は22軒で、文久年間から幕末まで約40軒といいますから、近世後期になるに従って家数も増えていったようです。助郷役として東海道三島宿に出役し、用水は旧韮山城の濠と鳴滝川の水を利用していたとのことです。明治元年(1868)韮山県、同4年(1871)足柄県を経て同9年(1876)静岡県所属となります。明治11年(1878)には多田村ほか3か村と合併して韮山町となりました。
明和4年以降、幕府領になるというのは、すなわち韮山の江川代官所の支配を受けるということになります。下の写真は、韮山代官所跡の写真です。これも既報の通り、私は、2010年から12年にかけて静岡県の仕事で江川代官所の史料である「江川文庫」の内、「西蔵」の史料整理を行なっていました。写真はその時のものです。
上部左側が江川邸の門で、右側が玄関です。ちなみにこの玄関は、NHK大河ドラマ「篤姫」で篤姫の実家の玄関として使われています。下の2枚が西蔵の写真です。ついでに江川文庫西蔵の史料はこんな感じでした。
まぁ〜たいへんな量でした。江川文庫については、すでに史料整理を終えて、目録が刊行されています。史料目録はエクセルで入力しましたので、データももらったのですが、年代コードが入っていないので、編年に並び替えることができません。ということで、今、このサイトの管理者である目七君の力を借りて、先の年代コードにしたがって並び替えることができるように作業中です。というより、もうほとんどできあがっています。実はここでのエクセル入力は、年月日が一つのセルに入れてありまして、以前、合体することは簡単だが、分離することは難しいと書いたのですが、年月日を見事に分離した上で、年号コードが入るようにしてくれたのでした。
何だか江川文庫の話ばかりになってしまいました。土手和田村は、韮山駅とこの江川文庫の間にあります。江川文庫に通う際には、韮山駅から徒歩でしたので、近辺を歩いてはいます。土手和田村文書の中には当然、江川代官に関する史料もあります。次回は、史料管理学演習での具体的な作業について報告することにしましょう。