稲の穂は赤く色づいたか…父の初命日


父が亡くなってから1年が経ちました。このblogでも初月命日半年の月命日と何度か父のことを取り上げました。ひと月経っても半年経っても、もう…、いや、まだ…とどっちともつかない気持ちだと書きましたが、1年が経ってみると、やはり早いものですね。一周忌は2週間前に済ませてしまいましたので、今日は自宅でひっそりと喪に服しています。

私は酒が飲めませんし、父もあまり強くはありません。そのためか父とじっくり話した記憶はほとんどないように思います。まぁ、農家の大黒柱というのはとにかく自分で何でも仕切りたがって、父も私も短気でしたから、ぶつかり合うこともありました。もちろんずっと尊敬はしていましたから、仲が悪かったわけでもありません。そこが男同士ということでしょうか。何とか打ち解けて?話すようになったのは、孫ができてから、それも最近のような気さえしています。それはきっと、もっといっぱい話をしておけばよかったという悔いの裏返しなのかも知れません。

そんな父と1度だけ、二人だけの旅をしたことがあります。東海大学への入学が決まったので、下宿を探しに一緒に夜行列車で上京したのでした。1978年のことです。本当にその1度切りでした。千葉に住む叔父が大学まで迎えに来てくれました。だから風呂敷に包まれた米の重さを何となく覚えています。叔父への手土産です。まだ宅配便などはなく、米をあげることにも規制のあった時代でした。それからこのかた、父は、私のやることについて一切文句を言ったことはありません。1年だけでしたが、大学でバレーボール部に入ったときも、大学院に進学するときも、結婚するときも、定職がないときも…。口には出さないけれど、応援してくれていたのだと、今になってしみじみ思います。そうでなければ今の私はありません。改めてこみ上げてくる感謝の気持ち、そしてそれ以上の喪失感…。私自身、ここまで喪失感を感じて、しかもいつまでもそれが消えないことに驚いています。1年が経ったというのに…。

この夏、初盆のために実家に帰った際に、改めて父の最後の日記をみてみました。最後の書き込みは9月16日でした。その日は上の娘と一緒に帰ってきた日でした。病院に駆けつけて手を握ったまま「じいちゃん大丈夫?」と泣きじゃくる娘に、「じいちゃんは結穂に会いたかったよ」と絞り出すようにやっと言った、その弱々しい声が今も耳から離れません。これがその日の書き込みです。

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私たちが帰ってくる前に書いたのか、後なのか。もう書く力もなくなって、文字がゆがんでいます。妹と一緒に解読してみました。

「9月16日曇 まもなく穂が赤く色づ(い)たかな…」

と読むのでしょうか。稲の穂の色は普通は黄金色だったり黄色などと言いますが、「穂が赤くなる」です。他の地方のことはよくわかりませんが、妹と話をしていて、確かに「稲の穂が赤くなる」って言うよね、という話になりました。

これも何度か書きましたように、実家は苺と葡萄を中心とした果樹農家でしたが、季節とはいえ、最後の最後まで稲の実りを気にしていた父は、いや意識のある最後の最後に気にしていたのが稲の実り具合であったということが、いかにも父らしく、そして一百姓らしいなと思わずにはいられませんでした。「ひと鍬の人生」にふさわしい最後の言葉です。そんな気持ちを大事にしながら、肝に銘じながら「地域」の歴史を考え、明らかにしていくことが私の使命なのだと、でも、果たしてそれができているのかと自分を正視せざるを得ません。

一つだけ大事なことを父に聞き忘れていました。私はどうして「弘臣」なのでしょう。こんなうっかりはありません。もう絶対に聞き出すことはできないのですから。

今年も赤く実った実家の稲がすっかり刈り取られたよと先週、妹から電話がありました。

馬場弘臣 のプロフィール写真
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