青木美智男先生を偲ぶ会 常に新たな歴史像を…


本日11月10日(日)、有楽町オリオンで青木美智男先生を偲ぶ会が開かれました。青木先生は、今年の7月11日に史料調査に出かけられていた出先の金沢で急逝されたのでした。76歳でした。このblogは帰りの小田急ロマンスカーの中で書き始めています。青木先生については以前にちょっと触れたことがあります。ここに再録しておきます。

《再録》2005年の6月16日の木曜日と記録しています。シンポジウムの打ち合わせ(2005年11月に平塚市公民で開催したシンポジウム)を兼ねて、青木先生と、シンポジウムの仕掛け人であった当時の平塚市博物館の館長、土井浩さんと3人で平塚で飲みました。土井さんは、真鶴町史、小田原市史、大磯町史でご一緒させていただいて、私にとっては恩師です。いずれにしても、これが実質的な初対面でした。

その席でのことです。『文化文政期の民衆と文化』(文化書房博文社)という1985年に出された著作には驚いたという話をしました。青木先生は農兵などを題材に、がちがちの民衆闘争史が専門だったという意識があったものですから、この著書の中で展開された小林一茶論や文字文化の普及した19世紀前半の時代と民衆との関係など、それこそ目から鱗が落ちる思いがしたものでした。ただ、話をしていて、市井に生きる人びとを元に歴史をくみ上げていきたいという根本部分は変わっていないのだなと感じたものでした。なお、余談ですが、青木先生の一茶像と北條秀司先生が「信濃の一茶」で描かれた一茶像は、すごく似通っているように思っています。

そんなことについて話をしていた時でした。「馬場君、歴史家は新しい歴史像を常に提示し続けること、それが仕事だと思うんだよ」と、ぽつんとおっしゃいました。当たり前のことなのでしょうが、私にとっては衝撃でした。《再録終》

本日の偲ぶ会は、第1部がシンポジウム「青木史学を考える」で、第2部が「青木美智男先生の人柄を偲んで」でした。第1部では北島万次氏が開会の辞を、安丸良男氏が総論をお話しになった上で、深谷克己氏が民衆運動の視点から、神谷智氏が社会経済史の視点から、若尾政希氏が文化史の視点から「青木史学」を語るという構成になっていました。青木先生の研究はこれらのほかにも史料論や災害論や政治史やら、とにかく広くて、しかもそれらが相互に連動して総合化していこうというところに特徴があったといってよいかと思います。それぞれのパネリストのお話も興味深くて、正直、とてもこのblogだけではまとめきれません。ここでは印象に残ったことを2点だけ話しておきたいと思います。

IMG_1602IMG_1603

深谷氏、神谷氏、若尾氏3人のお話しに共通していたことですが、青木先生の一番大きな功績は、明治維新に向かう一つの大きな画期として、文化文政期(化政期と略称します)から天保期(1804〜44)にいたるイメージを一新し、その転換点としての意義を明らかにしたことにあるといえるでしょう。ひと言でいえば「快楽と退廃」としてしかとらえられていなかった化政文化を、野暮といわれた民衆の視点から再評価して、その時代の意義を根本から問い直したということでしょうか。私が再録でも述べています『文化文政期の民衆と文化』に衝撃を受けたように皆さんもここに大きな衝撃を受けていたのだということです。

そこでふと思ってみました。私が小田原藩の研究で興味を持っていたのも、実はこの化政〜天保期なのだということを。アナール学派的な社会史に影響を受けて生活文化史に大きな可能性を見いだしてみても、小田原藩領では民衆から描いていくのは難しい。だから、政策史というか藩政史というか、その「改革」に焦点を当てて考えてみよう。そこから在地のことも地域のことも描き直せるのではないか。確かにこの時代はどの藩でも藩政の改革が行なわれていて、歴史の結果から見れば体制を維持するだけの、言わば悪あがきの「改革」なのかもしれません。でも、民衆の「文化」を再発見するように、政治にも「文化」があって、逆説的にいえば、名も知らぬ民衆に光を当てるように、この時代の藩を維持することに懸命であった人びとに光を当てること、そこにも一つの人間像とか社会像とかを描くことも可能ではないだろうか。そこでも新しい化政〜天保期像が描けるのではないだろうか。確かに崩壊は始まっているのかもしれないけれど、まだそうした自覚は薄く、でも繁栄の影に誰でもが何となくなにがしか不安感を抱いているような時代…。ちょっと話がそれますが、だから私は酒井抱一の絵に、そのそこはかとない刹那感のような空気に惹かれてしまうのです。それが私の小田原藩研究の、そしてこの時期の改革の主体であった藩主大久保忠真研究だったはずです。幼い頃から「英明」といわれた藩主の、その「英明」であることの意味にもとても興味がわきます。小田原藩という狭い分野ではあるけれど、正面切っての藩政史からでもきっと新しい化政〜天保期像に挑んでみることができるはずです。政治史の重要性についても青木先生は確かに力説されていました。

二つ目は、これも先にも述べたように、青木先生の研究はこの1980年代半ばを境に大きく展開していきます。その発想がどこから始まったのかという視点から若尾氏が報告されていて、それによると1970年代の、ちょうど30歳代後半くらいにあるとのことでした。何だかすごく力をもらった気がしました。私がやり残したことのすべては、そう30代に発想を得て、史料を集めて、構想していたことだからです。今からでも遅くない。そう言われているような気がします。

常に新たな歴史像を提示し続けること、それが歴史家の使命…なのですよね。

馬場弘臣 のプロフィール写真
カテゴリー: 歴史コラム パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*