【徒然・ちょっとコラム】エゴノキ・ちさの木…伊達騒動


庭のエゴノキが見事です。うちのシンボルツリーです。まさに季節は初夏。その訪れを喜ぶように咲き誇っています。鈴なりになった小さな白い花の後ろに咲いた真っ赤な大きなバラとの対比もなかなかです。しかしこれほどまで見事に咲いたことはなかったなぁ。枝を払ったり、肥料を入れたのがよかったのか、ここのところどちらかというと枯れ気味でしたからね。

それにしてもエゴノキというのは今ひとつ語感がよくない。「エゴ」が咲いたみたいに略して言われたらなおさら(-_-;)

エゴノキは別名ジシヤ、チシャノキ、ちさの木などとも呼ぶそうです。チシャノキなんかいいですよね。「智者の木」なんていって。たくさん咲いた小さな白い花は。たくさんのアイデアがたわわになっているのだなんてね。ちさの木というのもどころなくかわいらしい響きがあります。

「ちさの木」といえば、かの有名な歌舞伎の演目「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」にも場面を彩る花として密かに登場するそうです。「伽羅先代萩」は、言わずと知れた(なかなか一般の人にはなじみがないですが^^;)、東北は仙台藩伊達家の御家騒動、いわゆる「伊達騒動」を題材にとった演目です。

この一件は、藩主伊達綱宗(つねむね)の跡目相続に、所領問題が絡んだ一族との争いでした。綱宗は、遊興放蕩三昧にふけってとかく評判の悪かったようで、結局、幕府の命令で隠居させられ、跡をわずか2歳の亀千代(後の綱村)に継がせることになります。後見人として実権を握ったのが伊達兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)宗勝とその腹心原田甲斐宗輔(むねすけ)ら。これに対して老臣の伊達安芸宗重らがその非儀(ひぎ)を幕府に訴え出て裁きを受けることになります。まぁ、「一族」といっても東北の名門伊達家のことです。幕府から藩とは別に「大名分」として領地を拝領しているものもいたりして、そこんじょそこらの藩とは、藩主との距離も力関係も違います。

この事件がとくに有名なのは、当時の幕府の最高権力者で「下馬将軍」と呼ばれた大老酒井忠清の役宅で審問が行なわれるという時に、原田甲斐が反対派の伊達宗重を襲って斬殺し、さらに老中部屋に向かって突入しようとしたところで切り殺されるという刃傷(にんじょう)事件が起こったからでした。大老宅での刃傷事件など、まさに前代未聞です。

結局、この一件は藩主綱村が幼少のために御咎めなし、宗勝派ら関係者が処罰という結果になります。寛文11年(1671)に起きたことから「寛文事件」とも呼ばれています。この寛文の頃、17世紀の半ばは、戦国時代のさまざまな慣習が薄れていって、江戸時代的な社会がまさに確立してくる時代です。そもそも戦国大名の権力というのは、大名個人だけではなく一族や有力な大名たちの連合体であったのですが、江戸時代の体制、これを幕藩体制(ばくはんたいせい)というのですが、これが確立すると藩主の絶対的な地位というのが保証されてきます。そうでなければ「藩」という秩序が保てなくなります。それは実力の時代から藩主中心のピラミッド型の社会に、それに基づく秩序の時代に変わっていったことを意味します。伊達騒動は、それを象徴する事件でした。

前提が長くなりました(^_^;)

「伽羅先代萩」はさまざまな時代に仮託されますが、もっとも有名なのは応仁の乱の頃に物語を設定するものです。ここでは架空の人物なのですが、亀千代(ここでは鶴喜代君といいます。鶴と亀なのですね)の乳母として「政岡」(まさおか)という人物が登場します。敵役で鶴喜代君の命を狙うのが仁木弾正(にきだんじょう)で、弾正は八汐(やしお)という腰元を遣わして、鶴喜代君を毒殺しようとするのですが、政岡は我が子千松の命にかえて、鶴喜代君を守ります。毒入り饅頭と知りつつも我が子に食べさせ、証拠を隠滅しようと苦しむ千松を短剣で刺し殺されても平然とする政岡…。

八汐らが引き上げると一変。政岡は我が子をひしと抱き上げて、「オヽ、出かしやった出かしやった出かしやった、その方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍(へそ)を固めさす誠に国の礎ぞや」とさめざめと泣きます。褒めても褒めてもなお、やるせない親の想い。「政岡忠義の段」。我が子千松への想いが一挙に噴き出す名場面で、歌舞伎の女形名演技の一つに数えられています。

「ちさの木」が登場するのは、その前の場面「御殿の段」で、鶴喜代君のご機嫌をとるように、千松に政岡が「いつも歌ふ雀の唄、歌ふて御前の御機嫌とりや」と言われて、千松は涙でしゃくりながら「こちの裏のちさの木にちさの木に、雀が三疋(ひき)止まって止まって、一羽の雀が云ふことにや云うことにや」と歌います。

それだけなんですけどね(^_^;)初夏の訪れの明るさと、その後の悲劇を暗示するシーンです(かな?)

私は、残念ながら、「伽羅先代萩」そのものは観ていません。ただし、12年前になりますか、市川猿之助の「伊達の十番」と、昨年、市川海老蔵が再演した「伊達の十役」を観ました。これは一人で10の役をこなすというたいへんハードで難しい芝居ですが、それだけに早身代わりや宙づりが見世物の大スペクタクル長編芝居です。かなり長いのがちょっとつらいかも知れませんが、歌舞伎を知らない人にもお勧めの、本当に楽しめる演目です。私はちょうど花道の真横で、当時まだ高校生だった娘と観ましたが、とても楽しんでいましたよ。

「伊達の十役」はスペクタクルな演目だけに、この政岡の場面 は一転、清寂と悲しみに包まれます。正直なところ、猿之助さんの時にはちょっと演技がオーバーで、少し眠たくなってしまいました(ごめんなさい  ^^;)娘にもここの場面は名場面なんだけど、ちょっとねぇ…と言っておいたのですが…。

意外や意外!海老蔵の好演が光ります。「出かしやった出かしやった」と我が子を抱きしめて泣くシーンには、ちょっとウルっときてしまいました。みれば娘も…。まぁ、いろいろと問題を起こしましたが、やはり海老蔵というのはたいした役者です。

ちなみにほんまもんの伊達騒動では、事件の後、幕閣(ばっかく)のNo.2であった小田原藩主の稲葉政則(まさのり)が後見人になります。私の小田原藩研究は、稲葉が転封(てんぷう)した跡の大久保氏の時代がテーマですがね。この稲葉正則、3代将軍家光の乳母で、大奥をつくったことでも有名な春日局(かすがのつぼね)の実孫にあたる人物です。ちなみに仙台には黄檗宗(おうばくしゅう)という比較的新しい禅宗の寺院が多いのですが、これはそもそも正則が黄檗宗に傾倒していて、綱村との関係によります。

いや~、ただ庭のエゴノキの紹介をしていただけなのに、話が広がりました。でも、こうしていろいろなところがいろいろな形で関わり合っている。それが全体として実は連動して動いている。それが歴史のおもしろいところですね。

馬場弘臣 のプロフィール写真
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