【徒然】秋の鎌倉は晴天なり


本日は、鎌倉の文化財専門委員会でした。昨年、11月12日付のblogで吉井勇の「鎌倉の 海のことくに ひるかへる 青草に寐て 君をおもはむ」という和歌とともに、材木座の海から鎌倉まで歩いた話を紹介しました。この鎌倉紀行は、鎌倉市教育委員会からの依頼で「籬菊螺鈿蒔絵手箱図」という鎌倉の国宝館が所蔵する絵巻を拝見するためのものでした。今回もこの件です。ちなみに「籬菊螺鈿蒔絵手箱図」は以前「まがききくらでんまきえてばこず」と読んでいましたが、市とも相談の上、正式には「まがきにきくらでんまきえてばこず」と読むことにしました。

「閑話休題」、本日の鎌倉は、穏やかな秋の陽ざしに恵まれて、爽やかにきらめいていました。それにしてもさすが晴天の秋の鎌倉!人が多かったぁ。とくに黄色い帽子や赤い帽子の小学生!そして中学生!!小町通りは今日も元気でした。

小町通りではいつものごとく「はんなりいなり」を買いました。これがまた美味しいのです。それからレンゲとカレー用の木のスプーンも…

IMG_3498

鶴岡八幡宮の本殿も若宮八幡宮も白籏神社も絶景です。舞殿の前では小学生が説明を受けていて、そんな風景があちらこちらで見られました。せっかくですから、国宝館に行って、ただいま開催中の「鎌倉ゆかりの天神さま―絵柄天神宝物と常磐山文庫コレクション―」を見てきました。見終わって外に出るとあらびっくり、鈴木館長が直々に説明をしているではありませんか!さすが…秋の鎌倉です(^_^;)

IMG_3503

 

 

 

 

 

 

◎籬菊螺鈿手箱図

さて、「籬菊螺鈿手箱図」について少しお話をしておきましょう。先のblogでは「この手箱は、北条政子の所持品の一つと伝えられていて、現在、鶴岡八幡宮が所蔵している国宝「籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)」と 対をなすものといわれています。残念ながら手箱の原品は、明治6年(1873)にオーストラリアのウィーンで開催された万国博覧会に出品した際、その帰途 に伊豆沖で運搬船が座礁沈没したために失われてしまったとのことでした。ただし、頼朝800年祭(1999年)を記念して、この模写絵をもとに復元された そうです。絵画の現物を見ますと、幕末から明治の初めのものであることは間違いないようですが、誰が何のために模写したのか、なかなか謎の多い手箱図で す。「阿波国文庫」という印が押されてあったのも不思議でした。「阿波国文庫」は阿波藩蜂須賀家が収集した典籍を中心とする収蔵品のことをいいます。なら ばこの手箱図は蜂須賀家の手元にあったものなのでしょうか。」と書いていました。

実はその後の調査で、頼朝800年祭に人間国宝の北村昭斎先生の手で復元された「籬菊螺鈿手箱」は、この「手箱図」をもとにしたものではなく、東京国立博物館所蔵の「手箱図」と、下岡蓮杖が明治の初年に撮影したという写真を参考としていることがわかりました。そこで、9月の終わりに東博の「手箱図」とこの古写真を調査に行ってみました。百聞は一見にしかず!実際に見てみると、東博の「手箱図」は、国宝館の手箱図が極彩色で描かれているのに対して、墨一色で描かれていたのでした。ただし、東博の「手箱図」は手箱のすべての面と内蔵品を原寸大で描かれています。図案自体は簡素な表現です。いっしょに調査に行っていただいた絵画史の河合先生の話では、職人が模造や意匠の確認のために描いたのではないかということでした。なるほどです。

そこで国宝館の「手箱図」ですが、ここで問題となるのが「阿波国文庫」の印章。これは明らかに阿波国徳島藩主蜂須賀家の所蔵であったことを示しています。阿波国文庫は、10代藩主重吉(1738~1801)、から11代治昭(1758~1814)、12代斉昌(1795~1859)、13代(1821~68)斉裕の時代に大成されたといわれる一大文庫で、漢籍類や国書・有職故実、記録類が特徴とされていますが、書籍以外にも武具類の模写や絵図、風景が数多く残されており、同文庫がより多彩なものであったことが確認されています。国宝館の「手箱図」はよく見てみれば、手箱自体は1方面からしか描いてありません。ただし、内蔵品については詳しく描かれています。いずれにしても、これが殿様の閲覧に供するために描かれたものとは確かに言えそうです。それも江戸時代の後期、だいたい19世紀前半から中期頃にかけての作品であったことも間違いないようです。阿波国文庫は、アジア太平洋戦争の戦火で焼失したり、散逸していますから、それだけでも貴重です。

さらに、この蜂須賀家の「手箱図」は、明治30年代に漆芸家で収集家の植松包美(1872~1933、抱美とも書く)の手に渡ったことが知られています。「手箱図」には「植松氏記」の印が押されているのですが、これが植松包美のことだったのですね。包美は明治から昭和初期にかけて、古典の妙味を活かしながら、伝統的で技巧に優れた作品を制作したと言われており、この「手箱」を復元したそうなのですが、残念ながら現品の所在はわかっていません。なお、「手箱図」には、末尾に「籬菊螺鈿硯箱」のうち、松平定信の「集古十種」に収録されていないという図案を漆を使って書かれた絵が4枚貼ってあります。これと題箋の文字も包美のものかと思われます。現物をお目にかけられないのが残念です。

と、偉そうに書きましたが、ここまでの調査結果は、「蒔絵博物館」というサイトを運営されている高尾曜先生からご教示を受けてわかったことです。知り合いから紹介されてこのサイトの存在を知りました。この場を借りまして、改めて高尾先生に御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。「蒔絵博物館」のサイトもぜひご覧いただければと思います。

馬場弘臣 のプロフィール写真
カテゴリー: 日々徒然 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*