5月の10日から毎週火曜日、小田急線相模大野の駅の近くにあるユニコムプラザさがみはらで行なっていた古文書講座が昨日、無事に終わりました。東海大学エクステンションセンターが主催した生涯学習の一環です。受講者は16名でした。受講者の皆さん、本当にお疲れさまでした。初心者コースとは言え、90分の5回では、正直、あまり十分なことはできません。最後の方になると、結構詰め込んでしまいましたので、きつかったかも知れません。初めてということで、大学の授業で使っていたテキストをアレンジしたハンドブックを作成したのですが、これも半分くらいしか消化できませんでした。
それでも皆さん、すごく熱心に勉強していただきました。ありがとうございました。最後に皆さんに授業のアンケートをとらせていただきました。その中でどんな古文書を読んでみたいですかと訪ねてみましたところ、やはり戦国時代と幕末が人気があるようです。今回の講座では、新選組関係の文書を少し読んでみました。後は、災害史や検地、宗教関係など、いろいろご意見があって、やはり地域の史料が余見たいという意見も多かったですね。また、10月から秋学期版として古文書講座を開講する予定ですので、大いに参考にさせていただきたいと思います。
さて、本学文学部では「知のコスモス」プロジェクトというのをやっていまして、日本史専攻は講演者を招いて「地域の歴史を掘り起こす」という講演会を年に2回ほど開催しています。先週の土曜日、4日には、かながわ考古学財団の天野賢一先生をお招きして、「秦野地方における富士山宝永大噴火の被害と復興-宝永の砂降りと横野村-」と題する御講演をしていただきました。私自身は文献史学ですので、こうした考古学の立場からの講演はとても勉強になりました。天野先生が古文書も合わせて検討されていましたので、なおさらです。そもそも「災害考古学」というもの自体が新しい分野になるとか。やはり3.11東日本大地震以来頻発する自然災害が、大きなきっかけとなっているようです。
講演後の懇親会でのこと、天野先生から、何と、富士山噴火で降り注いだ砂、正式には火山灰ということになるのでしょうが、発掘で出土したその砂をいただきました!これがその「砂」:たちです。
噴火の記録によれば、宝永4年(1707)11月23日の朝5つ過ぎから震動や雷電(火山雷)とともに、黒石交じりの軽石が夥しく降り注ぎ、段々と石が小さくなって、最後は黒い砂が降ったといいます。一番左が「軽石」のごとき石で、真ん中が次に降ったという小粒の「砂」、そして最後に2週間以上降り注いだという黒い「砂」です。これが雪を被らない富士山の色でもあるのですね。もう少し拡大してみましょう。
確かにこんな「砂」が毎日降り注いだらたまりませんよね。「灰」ではなく、明らかに「砂」です。
なお、この砂は現在、新東名の工事のために発掘調査が行なわれている秦野市の三廻部(みくるべ)という地区から出土したものだそうです。秦野市では、今週の土曜日、11日に「横野山王遺跡」の見学会が開催されます。下記にこのチラシを掲載しておきますので、興味のある方で、都合のつく方はぜひ訪れてみてください。もちろん、砂降りの後だけではなく、土に刻まれたさまざまな歴史の後を見ることができます。もちろん、私も行くつもりです。