昨日、6月11日(土)には、秦野市の横野山王原遺跡で発掘調査の見学会がありました。前回のblogで紹介したとおり、本校日本史専攻の「地域の歴史を探る」で講演をいただいた天野賢一先生に誘われまして、1も2もなく駆け付けました。何せ富士山噴火による砂降り被害の跡を実際に見ることができるのです。その規模は想像以上のものでした。当日は天気もよく、たくさんの人が集まっていらっしゃいました。
ご挨拶の後は、天野先生によるミニ講座です。ここで遺跡発掘の様子と意義についてレクチャーを受けます。そしていよいよ見学会。当日は、宝永4年(1707)の富士山噴火の跡だけではなく、弥生や縄文の後についても説明を受けました。
ガイドが終わった後は、天野先生に直接レクチャーをしていただきました。同時に、北原糸子先生もご紹介いただいて、これがもう一つの当日の大きな収穫でした。北原先生は、安政の江戸大地震をはじめとして、災害史の第一人者です。著書や論文はもとより、『日本歴史災害事典』(吉川弘文館)はそれこそ、災害を調べようとすればまず第一にめくるべき事典です。宝永富士山噴火はもちろんのこと、元禄16年(1703)の小田原地震や富士山噴火直前の東南海地震についての話でも大いに盛り上がりました。
今回の遺構で重要なことは、これが砂降りからの復興事業の様子を明確に示すものだと言うことです。上の写真にあるように、ここの地層は、江戸時代の後にすぐに弥生時代の地層が来ています。これは砂降り後に古代から中世の土地を掘り返していたからです。このあたりはだいたい40cmから45cmほどの砂がふったといわれています。古文書の史料で確認できます。40cm以上の砂が積もったのですから、これを除去するだけでもたいへんです。そこで復興のために使われた手段の一つが「天地返し」という方法です。これにはまず、砂を40cmほどの幅で溝を掘ります。溝の深さは、降った砂の倍くらい。80cmほどになります。こうやって溝を掘り進めたら、そこに砂を埋め、さらにその砂の下の土を入れていきます。すると40cmくらいの土になります。ここで気をつけなければならないのは、砂が溝の中に落ちないように気をつけることと、溝と溝の間を狭くしすぎないことです。
そうすると上の写真のように砂が四角く囲まれたような形になります。それが次の写真のように連続するわけです。写真では見ていましたが、実物を見ると、さすがにある種の感動を覚えます。
中に入って遺跡を間近に見たり、触ってみると、さらに実感がわかります。この溝の低くなっている部分が黒くなっているのがわかりますでしょうか。これが溝の中に砂を埋めた跡です。溝が掘ってあるのは砂を除去した部分です。溝と溝の間は畝みたいに見えます。それにしても、これだけを見ても広大な面積におよぶのがおわかりいただけると思います。これはほんの一部なのです。ここは段々畑になっていたところですが、この横野山王原一帯がこうして「天地返し」によって「再開発された」ものです。
それにしてもそのためにどれだけの労働力が必要だったのでしょう。北原先生、天野先生との話でも大きな話題になりました。でも、18世紀の初め頃には、すでにこうした労働力を集められるだけの体制ができていたと思われます。復興にはお金がかかりますが、それだけ日用稼ぎもできるわけです。そうした面からも検討が必要でしょう。実際、開発に必要な人足を見積もった古文書も残っていますので、それらも集めて検討してみようと思います。
いずれにしても、文献史学と考古学が手を取り合ってできることはたくさんあるんだということを実感した見学会でした。災害の研究には、さらに関連する諸科学が全般的に協同・連携しながら進めていくことが必要なことはもちろんです。言うは易しですが、まずはできるところからやっていきたいと思っています。
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