まったくの偶然なのですが、本学望星高校の校長代理の先生から、湘南校舎の知り合いの職員を介して、古文書を見てくれないかという連絡が来ました。望星高校は、通信制の高校で、KinKi Kidsの堂本光一さんや、俳優のえなりかずきさん、榮倉奈々さんなどが卒業した学校として知られています。
で、そこの卒業生の保護者で小原さんとおっしゃる方が、実家の岩浅家に伝わる古文書がどんものか確認したいとのことでした。事前に写真を見ていましたので、だいたいのことはわかっていました。当日も写真を撮らせていただきました。一部、公表してもかまわないという許可をいただきましたので、ちょっと写し方が雑ですが、下記にその写真版を載せておきます。
「先祖書」と題されたこの小文書は、幕臣が自分の先祖から自分までの事跡をまとめてあげて幕府に提出した書類の控でした。幕府や諸藩は、よくこのような書類を提出させては、家臣の家柄や業績などを確認します。私の研究対象である小田原藩では、「先祖並親類書(せんぞならびにしんるいがき」という書類を提出させています。
で、ここには「四川」の普請方を勤めたと書いてありますから、御家人のうちの史料であることは間違いありません。「四川」といっても中華料理じゃありません(当たり前か…)。この場合の「四川」とは、江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの川のことで、享保10年(1725)に四川奉行が設置され、普請役を率いて、これらの川の治水や用水に関する土木事業に従事したわけです。総称して「四川方」などとも称しますが、享保13年には、四川だけではなく、関東の河川の土木事業に従事するようになります。
岩佐家では、3代目の岩浅郡内が、8代将軍徳川吉宗(有徳院)の代、享保14年(1729)3月に大川通り御普請役に任命されて、俸禄米45俵を下されたとあります。大川通りは、この場合、利根川を指すと考えられます。また、9代家重の代、延享3年(1746)5月6日に関東筋四川定掛御普請役に任じられています。代々普請役を勤めていたようですが、江戸時代の後半になって、しきりに異国船が日本近海に現われるようになると、見分のために出張に行ったりもしているようです。
御家人の史料というのは、なかなか残りづらいので、少しじっくり読んでみようかなと思っています。
他に史料が残っていないというのは残念ですが、史料との出会いというのは、本当に味なものです。