【徒然】小室山から宝永山


またまた富士山の情報です。2014年度から本学文明研究所のプロジェクト研究「震災復興と文明」の研究員となったことから、元禄16年(1703)の小田原大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火について、本格的に研究を始めました。史料調査はもちろんのこと、文明研究所の研究会で報告したり、古文書講読の講座で題材として取り上げたり、あるいは講演活動など、いろいろとやっていると不思議とそうした関係のものに出会ったりします。今日は、本当にたまたまですが、伊豆高原に泊りに来ているのですが、途中、ふと思いついて、小室山公園に立ち寄りました。ここは山頂まで一人乗りのリフトで登ります。で、山頂に登ってみると…。何と富士山の、それも宝永噴火の跡、宝永山がくっきり見えるではないですか。

img_0025昨日、本学から見た眺めに比べるとさすがに雪が少ないようです。それだけに噴火の跡の大きな穴がくっきりと見えます。ある意味、得をしました(^_^)vこれほどくっきりした宝永山が撮影できたのは初めてでしたから。

さらに、山頂にある「小室神社」の由来がまた驚きでした。

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この立て看によると、この神社は、元禄大地震で壊滅的な被害を受けた西相模から伊豆にかけての小田原領の鎮守として、当時の藩主であった大久保忠増によって勧請されたというのです。元禄大地震では、天守はもとより、本丸、二の丸から侍屋敷や足軽長屋などほとんどが倒潰し、城下も大火に見舞われます。この時、小田原藩が作成した覚書によれば侍中(御番帳入とも呼ばれる正式の士分格の武士です)の死者が34人、御番帳外の死者が27人、又者の死者が75人、城下の死者が651人、西相模の藩領村々の死者が634人、伊豆藩領の死者が772人となっています(小田原市立図書館所蔵文書)。城下の死者の多さは火事によるものですが、伊豆の死者は大きな津波に襲われたことによるものでした。

忠増は、復興が一段落した宝永2年(1705)、小室山に災害鎮護の神として愛宕大権現を勧請し、さらに海難守護神の金毘羅神、火の神である火産霊神もあわせて奉祭したとあります。宝永2年は、天守が再建された年で、忠増は幕府老中に就任します。それからわずか2年後に、富士山が噴火するのです。ただし、大量に吹き上げられた火山灰は、折からの強い偏西風に乗って東の方面に流れます。だから、伊豆方面には被害がなかったのですが、建立されたばかりの小室神社からは、火を噴く富士の姿を真っ直ぐに眺められたはずです。それもまた歴史の一面です。

このような遺跡には、その時代の、あるいは後年の人のさまざまな思いが詰まっています。文字に刻まれた歴史だけではなく、そうした歴史も拾い集めて描いていく必要がある。学界で史蹟論が論じられたのは、確か1990年代のことからだと思いますが、また、一つ新たな視点を得ることができた1日でした。

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