さて、前回、享保6年(1721)から弘化3年(1846)までの125年間のうち10回の全国人口調査の結果をグラフ化して、その推移について概観してみました。だいたい3000万人といわれる江戸時代の人口のうち、被支配者身分人口の推移です。これによれば、宝暦6年(1756)から天明6年(1786)にかけて人口が急減していること、逆に文化元年(1804)から文政11年(1828)にかけての人口が急増しています。全体的な動向を地方別に比べてみましょう。
地方の分類は、北から東北地方、関東地方、北陸地方、東山地方、東海地方、近畿地方、山陰地方、山陽地方、四国地方、九州地方の10地方です。グラフは、享保6年(1721)を指数100として、その後の変遷を図示しています。緑色の太い線が全国人口の推移です。
ここで興味深いのは、停滞しているという江戸時代の人口について、こうして地方ごとにグラフ化してみると、実際はほとんどの地域で増加していることが分かります。減少しているのは、東北地方と関東地方、近畿地方の3地方ですね。他の7地方では、東海地方と北陸地方が天明3年(1783)にかけて指数100を少し下回っているだけで、その後は増加に転じています。その他の5地方はすべて増加していて、とくに四国地方・山陰地方・山陰地方・北陸地方の上昇率は大きいですね。ただし、いずれも弘化3年(1846)にかけて減少している点は気になります。明治以降の”産業革命”以降は、人口爆発が起きますので、その間の動向も気になるところです。
ただし、ここで言いたいのは、江戸時代の人口が”停滞気味”であるのは、東北地方、関東地方、近畿地方の人口減少と相殺した結果だと言えるのではないかということです。江戸時代は、地球の気候変動の中で小氷期に位置づけられていて、全体的に気温の低い時代です(江戸は寒い!参照)。その意味では、東北地方の人口減少は理解できます。飢饉や凶作は寒冷地帯が大きな影響を受けますからね。でも、その反面で、豪雪地帯の北陸地方は、四国・山陰についで人口が伸びています。
それより興味深いのはやはり、江戸を抱えた関東地方、そして大坂・京都を抱えた近畿地方で人口が減少していることです。いずれも大都市を抱えた地域です。一般的に江戸は100万人都市で当時は世界的にみても最大級の都市だったと言いますし、大坂・京都はいずれも40万人以上の人口があって、2位と3位を占めています。つまり、大都市圏ほど人口の減少がみられるということになりますね。これにはイギリスの経済学者トーマス・ロバート・マルサスが唱えた「マルサスの罠」という有名な学説があります(『人口論』)。都市部は、劣悪な生活環境や出生率の低さのために、常に周辺地域から人口を吸収することで成り立っていると、確かそんな学説だったと思います。したがって、都市の人口を維持するために、周辺地域の人口は減少するというのです。
ということで、続きます。