【コラム】朝鮮通信使と相模国


既報の通り、19日の日曜日に藤沢商工会館「ミナパーク」で湘南日韓親善協会創立40周年記念講演会が開催されました。熊本の震災現状調査から帰ると、一緒に行った皆さんの中でインフルエンザや風邪が流行っていて、私もかかっていないかと心配していましたが、さすがに鹿をみた馬場!まったく元気で当日を迎えることをできました。

ミナパークは、藤沢駅の北口を出て5分くらいのところにある新しい建物でした。

こんなに広い会場で、定員が160名。いや~50名以上は来てもらわなければ格好がつかないな~などと話をしていたのですが、始まる頃には満杯!来賓として藤沢市長や教育長、藤沢の県会議員に市会議員の皆さんは、さらには韓国総領事もいらっしゃって、いや、何とも盛大な講演会でした。その様子を、と、思ったのですが、何と写真のデータが壊れていました(^^;)写真の撮影をお願いした藤澤浮世絵館の細井さんに申し訳ない次第です。まぁ~、そんな中でお話ししたことも何ともお恥ずかしい限りですので、却って良かったかも…。

さて、当日はまず、大韓民国亜歴史研究所所長の洪鐘佖(ホン ジョンピル)先生から「韓日友好の象徴・江戸時代の朝鮮通信使について」と題するご講演をいただきました。洪先生は留学で京都には10年以上住んでいらっしゃったということで、日本語はペラペラです。でも、講演は韓国語でお話しをされて、通訳を入れる形式で行なわれました。韓国語による講演というのも初めてでしたので、なかなか新鮮でした。

洪先生のお話は、タイトルのとおりで、韓国側からみた朝鮮通信使の歴史について詳しくお話しいただきました。興味深かったのは、通信使が日本に来る際には日本の自然はもとより、風習、例えば、切腹とか試し切り、士農工商など各階層の特徴などを観察されていたということです。とくに「名」と「実」を見極めること、つまり「天皇」が「名」で、「将軍」が「実」であるとして、どちらに実権があったかということに興味を示していたということでした。

改めまして、朝鮮通信使とは、朝鮮国王の国書や進物を携えて日本に派遣された外交使節団のことです。通信使・朝鮮信使・朝鮮来聘使とも呼ばれています。通信使の来訪は室町時代に溯りますが、とくに豊臣秀吉の朝鮮出兵後、徳川幕府が成立すると、一転して両国は友好関係の構築に努めました。慶長12年(1607)から寛永元年(1624)は、徳川将軍への講和・修好に関する回答と、朝鮮人捕虜の刷還・国情探索を目的とする回答兼刷還使として来日します。寛永13年(1637)からは通信使に名称を戻し、明暦元年(1655)以降は、将軍の襲封を祝賀するための使節団となりました。こうして江戸時代には、合計12回来訪しているのですがが、大半は江戸時代の前半に集中しており、文化8年(1811)の対馬での易地聘礼が最後となりました。一行の人数はだいた400名から500名前後にもなりました。これに随行する対馬藩の役人や幕府の役人などを加えますと、2,000人ほどの行列になったそうです。近年では、この朝鮮通信使の行列を復興したお祭りなども各所で行なわれています。そもそも通信使の来訪は、外交だけでなく、文化交流にも多大な足跡を残しているのです

いずれにしましても、通信使を迎えるにあたっては、沿道の地域-宿場や村々では、通行と接待のためにさまざまな準備が必要でした。今回の私の講演は、寛延元年(1748)に来訪した通信を事例に、藤沢宿を中心に、相模国の村々が果たした役割-御用役を全体的に明らかにすることでした。何故、寛延使節なのでしょうか?

先に述べたとおり、朝鮮通信使は、6回目の明暦元年(1655)以降は、将軍の代替わりを祝う慶賀使となるわけですが、実際に将軍代替わりの慶賀使を迎えたのは、4代家綱、5代綱吉、6代家宣、8代吉宗、9代家重、11代の家斉6人になります。詳しくは述べませんが、6代家宣の時に儒学者の新井白石が通信使の待遇をめぐって大きな改革を行なったことは有名です。しかしながら、実は吉宗の代にも大きな改革を行なっております。これは東海道を通行するための人足と人馬を提供する人馬役をめぐるものです。東海道を通行する際には、通常は宿ごとに馬を積み替え、人足を交代します。これを宿継ぎと呼んでいるのです。ところが、通信使の場合は、宿継ぎではなく、通信使の宿泊地ごとに人足と馬が交代する泊り継ぎという方法が使われます。それだけに屈強な人足と馬を準備する必要があったのですね。基本的にはこれらは近隣の村々から徴発されましたので、必要な人足と馬を揃えるのもたいへんな仕事になります。吉宗はこれを江戸の町人に請け負わせて、通信使が通行する東海道の村々から「国役金」といって一律にお金を徴収する体制に改めたのですね。ところが、寛延元年の使節では、これをまた元に戻します。そのためにこの寛延使節については、神奈川県内に結構、たくさんの史料が残っているのですね。当日は、こんな内容でお話しをさせていただきました。

プロローグ

・なぜ?寛延使節か?

・通信使の来朝は時代を映す鏡

Ⅰ.朝鮮通信使通行のために

①泊り継ぎ人馬役御用

②馬入川(相模川)船橋架設御用

Ⅱ.宿泊所接待のために

③藤沢宿御賄い(接待)御用

④藤沢宿泊所整備御用

エピローグ

詳しくはまた、論文にしたときにでも改めてお話ししようかなと思っています。もっともそのいったんは、横須賀市史の通史編で書いておりますので、ご参照いただければ幸いです。

それにしても、何より驚いたのは、私がお話しした寛延使節に「正使」つまり通信使のトップを務めていたのが、洪先生のご先祖様だそうなのです!しかもその前の享保4年(1719)の通信使の「正使」を務めたのも洪先生のご先祖で、その他にも通詞や書記官なども務めたとか。これもお話しを窺いながら驚いたことでした。

いずれにしましても、洪先生が全体的なお話しをして、私が地域のお話しをするということで、誠にバランスのとれた講演会であったかと思います(自画自賛(^_^)v )ひと言付け加えておけば、私の朝鮮通信使研究は、交通史の一環として通信使通行のための人馬役から始まったのですが、その後、御用役そのものは「郡役」(郡ごとの役)をもとに「村役」として相模国全体の村々に何らかの御用役がかかっているとしてその解明に努めてきました。今はさらに、時代が隔たっているだけに、朝鮮通信使の来朝は、時代の変化、社会の変化を読み取ることができる重要な研究素材を提供するのではないかということです。享保使節と寛延使節はとくに享保改革にともなう社会の変化を読み取ることができるのではないかと思っています。それは元禄期以降の社会の安定化から制度・組織の整備にともなうものと考えています。乞うご期待!ですかね。

講演会の後で行なわれた、湘南日韓親善協会創立40周年記念懇親会でさまざまなご挨拶を聞いていると、藤沢はもとより、横浜や秦野など、民間レベル、地域レベルでは、さまざまな交流が続けられてきたということです。今、両国は竹島問題や従軍慰安婦をめぐって国同士の対立ばかりが強調されています。地道であってもこうした交流を続けていくこと、今、私たちができることはまさにそれなのだと改めて痛感しました。洪先生は優しくて、本当に素敵な先生でした。

で、講演が終わった後には、以前講演をした「藤沢地名の会」から次の講演を依頼されました。今日のお話も実は、9年前に「藤沢地名の会」でお話ししたことをベースにしたものでした。また、詳細が決まったらお知らせします。もうすぐ新しい年度も始まります…。

馬場弘臣 のプロフィール写真
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