昨日は一昨日に引き続いて、「最高の人生の見つけ方」というDVDを観ました。縁起でもないのですが、「人生の最期」に関する映画ばかり観ているようです(^_^;) こちらは2008年公開のアメリカ映画。「みなさん、さようなら」のフランスペーソスに比べれば、よくも悪しくもアメリカ映画ですね。まぁ、いずれもお金があってのこと…という点では変わらないかも…。でも、さすがにジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二人の名優の演技が光っていて、最後は素直に泣けました。ちょっとおもしろかったのは、モーガン・フリーマン演じるカーターは、大学に入学したての2か月で妻になるバージニアに子どもができたために大学を中退します。以来45年間、実直な修理工として、よき夫、父、祖父として年輪を重ねていくのですが、そのためにあきらめた夢が「歴史学の教授」になることだったこと。人生の最期の時と歴史学はやはり縁が深いようです。
さて、『新横須賀市史』近世通史編のコラムを再開します。私が三浦半島の陸上交通の問題で興味を持ったのは、実は将軍の日光社参と朝鮮通信使の来朝にともなう交通問題でした。将軍が下野国の日光(現栃木県日光市)の東照宮に参拝する日光社参と、東海道を通過する朝鮮通信使と三浦半島の村々とは、一見大きな関わりはないように思われるかも知れませんが、実はこれが大あり。
私自身は、将軍の動座をともなう上洛に日光社参、外交にあたる朝鮮通信使と琉球使節の来朝を特別の大通行として捉えていて、その夫役(ぶやく=労役)のあり方に大きな興味を持っていました。
◎将軍となれば…将軍襲封の儀礼
将軍が京都の朝廷に謁見するために上洛するということ、日光の東照宮に参拝すること、朝鮮国から将軍の襲封を祝って使節が来朝すること(ただし、江戸時代のはじめはいわゆる秀吉による朝鮮出兵の戦後処理)、そして琉球から将軍の襲封慶賀あるいは琉球中山王の襲封謝恩のために将軍に謁見することは、それぞれに研究のある分野です。ちなみに将軍の上洛は、江戸時代の初めにはけっこう頻繁に行なわれますが、寛永11年(1634)に3代将軍家光が上洛してからは、文久3年(1863)に14代将軍家茂が上洛するまで119年あまり途絶えてしまいます。日光社参は全部で18回ありますが、これも江戸時代のはじめに集中していて、4代将軍家綱が寛文3年(1663)に参詣して以降は、わずか3回を数えるのみです。400名におよぶ人数で来朝した朝鮮通信使は、国書の交換という形で当時唯一正式の「国交」を結んでいた国からの使節でした。これも江戸時代を通じて12回来朝していてけっこうコンスタントですが、文化8年(1811)には江戸まで往かず、対馬で交聘することになっています。もっとも多いのは琉球使節で、17回訪れています。
将軍上洛、日光社参、朝鮮通信使、琉球使節はそれぞれに充実した研究もあって、どれも江戸時代というより「徳川日本」における国家的な行事ということができるでしょう。ですから、交通夫役のあり方も通常とは違うのです。でも、これをそれぞれの単位でみるのではなく、全体を将軍ごとにみてみるとどうなるでしょうか?ちょっと、下のPDFファイルを開いてみて下さい。上の4大行事を将軍ごとにまとめてみたものです。
改めてまとめますと、朝鮮通信使も琉球使節も鎖国下における当時の複雑な対外関係の中での外交行事でしたし、日光社参はいわゆる将軍の権威や幕府権力の強化を必要とするような、その時代特有の政治的意図があったとされます。上洛もまた、政治的な行事であったことはいうもまでもありません。ですから、単独でみていけば、それぞれの行事はとかく間隔の長さだけに目がいきがちですが、将軍単位でみれば、そもそも将軍を継ぐにあたっては、朝鮮と琉球から慶賀の使節を迎え、一度は家康の命日に日光を参詣することが儀礼的な務めではなかったのかといったことを推測させます。上洛も本来ならば将軍宣下に関わるはずですが、これは家光の時に勅使を迎えることで済ませることになりました。
徳川幕府15名の将軍のうち、初代の家康と最後の将軍慶喜を除く13名で10年以上将軍の職にあった人物は9名います。このうち、日光社参を行なわなかったのは、5代綱吉と9代家重、11代家斉の3名だけでした。ただし、家重には本人に身体的な問題があり、家斉は文政8年(1825)の社参実施に向けて準備がなされていたものの、水害などの災害や海防問題で中止になったという事情がありました。また、13代将軍家慶は朝鮮通信使の来聘を受けてはいませんが、弘化4年(1847)には、朝鮮との間で、以後は通信使の霊を江戸から大坂に移して受けることが申し合わされており、使節来聘の可能性が完全になくなった訳ではありませんでした。それ以外の将軍については8歳で亡くなった7代家継を除いてすべて通信使の来聘を受けているのです。琉球の慶賀使にいたっては、4代家綱から13代家慶まで間断なく来聘を受けていたのです。それだけに14代家茂については、上洛の実施だけがとくに際立っているといえるでしょう。
実はこの表以下の部分は、通史編の編集にあたって、表は載せていますが基本的に削除となり、大幅に書き直した部分です。ですます調に改めたこととあわせて多少アレンジしていますが、要は、これらの行事は、本来ならばすべて将軍の代替わりないしは襲封に関する儀礼で、その意味で国家的な意味合いを持っているということをいいたかった訳です。実際それが学界の通説かというとそういうわけではどうもないように思いますが、小田原市史で一緒だった下重清氏に聞いたところでは、4代家綱の時期には幕閣の中ではそうした認識があったとおっしゃっていました。下重氏は、この時期の小田原藩主で老中を務めていた稲葉氏の「稲葉永代日記」を使った研究では第一人者です。
もちろん、時代が下れば本来の意味が大きく変容してくることもよくあることです。ここでは、三浦半島の村々と将軍の日光社参、そして朝鮮通信使の来朝にともなう交通夫役との関係を考える前提として、もとの文章を復活させてみました。一つの前提です。