歴史気候学への興味


昨日は暑い暑いと書いたのに、昨夜からの雨は一転して涼を運んできました。今は雨もやんでいて、さながら嵐の前の静けさといったところです。現在のところ、台風15号の進路予想では、その想定範囲内に四国から先の日本列島がすっぽりと包み込まれています。ニュースではさかんに大雨に対する警戒を呼びかけていて、ここのところ懸念されている和歌山県や奈良県の土砂ダム(せき止め湖)も危険な状態のようです。どうやら今年はやっぱり「水」の年であるのは間違いないようです。

私が歴史と気候の問題に興味を持ったのも、そうした「水」に対する研究からでした。寒川町史(神奈川県高座郡寒川町)のころは、相模川の治水と支流における用水の問題を研究していました(「花川用水の堰普請と用水組合」『寒川町史研究』第7号、1994)。小田原市史(神奈川県小田原市)や南足柄市史(同南足柄市)のころは、直接研究していたという訳ではありませんが、酒匂川(さかわがわ)の治水問題にはとりわけ大きな興味を抱いていました。酒匂川は、山稜部から海浜にいたる距離が短く、そもそもが洪水の多い”暴れ川”でした。それがさらに宝永4年(1707)の富士山噴火の際には、噴火後に降った大雨によって大量の火山灰が酒匂川に流れ込んだために流路が変わってしまうほどの大きな被害を受けたのでした。また火山灰の流入による川床の上昇は、洪水頻発の危険性を大きくします。ただでさえ”暴れ川”として名高かった酒匂川が、さらに洪水の頻発する河川へと変貌してしまったのでした。

でも、「水」に対する興味として、何といっても大きかったのは、龍ケ崎市史(茨城県龍ケ崎市)で利根川小貝川・新利根川そして牛久沼といった大河川・湖沼(こしょう)に関する史料にあたったことでした。この地域は代官頭(だいかんのかみ)で後の関東郡代、伊奈氏の本貫地(主任務地)であり、とくに伊奈忠次・忠治・忠克の三代にわたる利根川東遷事業(江戸湾に注いでいた利根川を現在の銚子沖へと付け替える流路変更の大工事)は有名です。伊奈氏は、戦国大名甲斐国武田氏の家臣で、「伊奈流」という治水技術を持つ地方巧者(じかたこうしゃ)としても知られていました。ここでの私の主題は、牛久沼における用水と悪水(排水)の問題でしたが、いずれにしてもこのような日本でも有数の大河川や湖沼の治水や利水についてのさまざま問題は、とにかくダイナミックで興味の尽きないものでした(「牛久沼の「進退」について―沼の管理と用水組合―」『龍ケ崎市史研究』第8号、1995。同「牛久沼をめぐる「地域」構造史論―水利秩序と地域社会―」『龍ケ崎市史近世調査報告書Ⅱ』1996)

さらにいえば、ちょっと話は戻りますが、小田原藩領における研究で、富士山噴火後の復興策、とくに年貢の回復政策といったらいいのでしょうか、要は藩がどのように年貢収量を回復させていったかといった問題をデータとしてみていって、その政策について具体的に考えていたときに、長期的な気候の動きとその時々の天候の変動を重ね合わせてみることもたいへん興味深いものでした。

こうした経験に照らし合わせてみたとき、歴史気候学が提起した江戸時代の気候の特徴というのは、至極納得のできることが多かったのです。それは具体的にどんなことでしょうか?

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