秋になってもあまりに暑いものですから、そんな話から始めましたら、台風15号が来て、急に肌寒くなったかと思えばまた暑く、今日は10月下旬から11月はじめの気候とか。ここのところ気温の変化が激しいですね。でも、明らかに秋はやってきて、前回ちょっと書いたように彼岸花が美しい季節です。
そんなこんなで前々から興味を持っていた気候の歴史について書いてみたのですが、ついだらだらと来てしまいました。ちゃんとまとめないといけませんね。ちなみに、先にアナール学派のエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリの気候に関する歴史について触れましたが、日本語の訳ではこうした研究者たちを「気候歴史学者」と読んでいるようです。ここでとりあげたかったのは、1980年代の根本順吉氏の「歴史気候学」の研究成果だったのですが(「歴史気候学の進展―江戸小氷期と飢饉―」週間朝日百科 『日本の歴史』87 近世2-10 浅間の噴火と飢饉、1987年)、気候の大きな変動については、そうそう大きな違いはないようです。もちろん、ヨーロッパと日本ではズレや違いも当然ありますが、地球全体の気候変動というレベル)でみると、データ的には同じ地平にたっているようですね。
さて、そこで江戸時代の気候についてです。江戸の時代が全般的に気温の低い時代であったことはよく知られています。気候学的には「小氷期」にあたるそうで、「江戸小氷期」と呼ばれてます。年代的には16世紀の半ばから19世紀の後半までの時期です。小氷期があるということは、温暖期―小温暖期という時期ももちろんあります。中世からの気温をみていくと、まず 950年ころから1250年ころまでで、ちょうど平安時代の中期から鎌倉時代の中期ころにあたる時期が小温暖期です。その後、13世紀の半ばから19世紀の後半までの600年間が比較的寒冷な時期で、20世紀から現在まではまた小温暖期にあたるといいます。現在の温暖化の問題が、人為的なものか、そもそもの気候変動に組み込まれたものか、ここで議論が分かれてくるようです。
この比較的寒冷な600年間は、15世紀を中心とした比較的温暖な150年、具体的には1390年ころから1540年ころの、南北朝時代末期から室町時代後期、というより戦国時代の半ばですか、この「小々温暖期」でもいうべき時期を境にさらに2つに分けることができるそうです。江戸小氷期は、この後半にあたる訳で、13世紀半ばから19世紀後半までの600年間を広義の小氷期とすると、「江戸小氷期」は「狭義の小氷期」となります。そしてこの江戸小氷期はさらに、比較的温暖な期間、これを「小間氷期」というそうですが、2つの小間氷期によって3つの小氷期に分かれるといわれています。以下の通りです。
【第1小氷期】=1610(慶長15)年~1650(慶安3)年ころ→元和・寛永小氷期=約40年
<第1小間氷期>=1650年~1690(元禄3)年ころ→《寛文・延宝小間氷期》=約40年
【第2小氷期】=1690年~1740(元文5)年ころ→元禄・宝永小氷期=約50年
<第2小間氷期>=1740年~1780(安永9)年ころ→《明和・安永小間氷期》=約40年
【第3小氷期】=1780年~1880(明治13)年→寛政・天保小氷期=約100年
根本氏の分類によれば、実は小間氷期には元号表記はついていません。私の実体験というか、史料をみたり、研究してきた実績から、このように名付けてみました。それにしても小氷期も小間氷期もだいたい40~50年の周期なのに、第3小氷期だけやたら長いですね。幕末・維新の大転換は、こうした気候不順がもたらしたともいえそうですが、短絡的な結論は避けましょう。ただ、「寛政・天保小氷期」というネーミングには、正直、ちょっと違和感があります。この時期は江戸時代3大飢饉のうち、天明の飢饉と天保の飢饉を含んだ時期ですから、「天明・天保小氷期」といった方がすっきり来るのではないでしょうか。天明の飢饉の際には、天明3年(1783)の浅間山噴火の被害が大きな影響を与えたことは、先にも述べたとおりです。
第2小氷期=元禄・宝永小氷期には、宝永4年(1707)の富士山噴火の年を含みます。また、元禄16年(1703)の小田原大地震も大きな天災であって、この2つの災害の、小田原を中心とした地域の被害についてはこのブログでもふれましたが、富士山噴火による気候への影響など、気候との関係はどうなのでしょう。確かに西日本の享保の飢饉もこの時期に含まれていますが、これは虫害が大きな原因であったことはすでに明らかにされていますし、その大量発生の要因にこそ気候の問題があるのでしょうか。
第1小氷期=元和・寛永小氷期には、寛永の飢饉を含みますが、さすがにこれは年代が古いこともあって、具体的な被害の様相についてはまだまだわからないことが多いようです。
いずれにしても第2、第3小氷期がとくに極端な寒冷期であったそうで、これは冬場の厳しい寒さと夏場の冷涼・多雨に特徴づけられるようです。ただし、天明と天保の飢饉の際は、意外と暖冬だったようで、雪が少なく、その分、春と夏が低温多雨であったといいます。つまり、この2つの大飢饉は、暖冬・小雪―冷夏・多雨を特徴としていることが明らかにされているのです。
でも、私自身がとくに興味を引かれるのは、「小間氷期」の方です。というより、小氷期と小間氷期との関係といった方がいいでしょうか。先に第1小間氷期を寛文・延宝小間氷期と命名したいと述べましたが、この時期は、江戸時代に入ってから60年ほどたった時期にあたります。江戸時代も還暦を迎えた訳です。この寛文・延宝期(1661~81)は、幕府領を中心に全国各地で検地(土地の測量)が行なわれた時期でもありました。戦国時代が終結して徳川による「平和」の体制(パックス・トクガワーナ)が確立し、寛永の飢饉を超えて、全国的な開発(新田開発)が大きな成果を上げた時期でありました。その上での検地です。また、この時期は小農民経営(小農経営)が一般化していく時期であるともいわれます。傍系家族(直系・血縁家族以外の隷属農民等の疑似家族労働力)による大経営、あるいは家父長的大家族経営に対して小農民経営は、直系の家族による労働力を自らの経営地(1町=1ha程度かそれ以下)に投下することによって単純再生産をくりかえす経営形態をいいます。いわば、現代にもある家族による農業経営のような形態が一般化すると考えていいでしょう。江戸時代前期の大開発と農業経営の変化がこの第1小間氷期に成果を上げていくということは、それなりに納得がいきますし、それが行き詰まりを見せてくるのが元禄期(1688~1704)という18世紀に入る時期、すなわち第2小氷期であるというのも象徴的だといえるのではないでしょうか。上方で花開いた元禄文化は、まさに一つの頂点としての文化だったのです。頂点から先には下降が待っていることもまた事実でした。
第2小間氷期については、明和・安永期(1764~81)と命名したいと述べましたが、この時期の史料みていくと、干害=日照りの被害に関するものが多いことに気がつきます。干害の被害は必然的に水争いを引き起こします。そうした水争いに関する史料もまた、増えてくるのです。大雨や洪水、台風による被害などは、どちらかというと対領主―政府による救済が問題となります。これが干害となると、村と村、あるいは用水組合と用水組合、あるいは用水組合と悪水(排水)組合との争いなど、治水や利水に関わる組合村むらの争いとなって現われます。それは確かに小温暖期の一つの特徴といえるでしょう。それが明和期(1764~72)を中心とした時期で、そこが第1小間氷期との違いともいえます。いずれにしても、この明和期以降に幕府は、治水政策関係の入用(経費)を大幅に削減する方向に転じていきますし、その後の天明の飢饉は、浅間山の噴火による降砂とそれによる大洪水が大きな問題となって、普請(土木工事)の増大化をもたらしますから、とくに関東における治水政策が大きく転換していく要因となります(西田真樹「川除と国役普請」『講座・日本技術の社会史』第6巻 日本評論社 1984年 、馬場「牛久沼をめぐる「地域」構造史論―水利秩序と地域社会―」『龍ケ崎市史近世報告書Ⅱ』1996年)。そこに第2小間氷期から第3小氷期への転換を指摘することも可能でしょう。
もう一つ注目しておきたいのが、天明の飢饉と天保の飢饉の間、文化・文政期(1804~44)の気候です。この時期が全般的に 第3小氷期にあたることは先に述べたとおりです。ただし、文化・文政期は、厳冬ではあるけれど、夏は酷暑であったといわれていて、こうした天候の時は凶作にはなりにくいのだそうです。第3小氷期であっても比較的温暖な時期であったといえるでしょう。江戸で花開いた化政文化は、第3小氷期の中の特例であったといえるかも知れません。あくまでも天候でみれば、ということですが…。とはいえ、小田原藩の年貢の収納状況をみてみると、収奪を強化したというのではなく、この時期は明らかに年貢の収量が増えていくことが確認できます。天明飢饉と天保の飢饉があって、しかも天保の飢饉以降はさらに天候不順は続いていって、年貢の収量が回復することありませんから、この文化・文政期にだけ大きな山を作っているようにもみえます。これについてはまた、機会があったらお話ししてみたいと思います。
以上です。とりあえず、歴史気候学の成果をもとに、江戸時代の天候と社会との関係について少し考えてみました。
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