井伊大老、越後獅子、傾城、松浦の太鼓…壽 初春大歌舞伎、夜の部の演目です。7日の土曜日、かみさんと下の娘と3人で歌舞伎座に観劇に行って参りました。今年初めての歌舞伎です。



お目当ては、北條秀司作「井伊大老」。この演目は、もとは新国劇ために書かれた劇作で、本来は井伊直弼の桜田門外の変までを描いています。このうち、水戸浪士による直弼暗殺の噂から、桜田門外の変の前日までを描いたのが「井伊大老」になります。全編はかなりの大作になりますので、だいたいはここまでを上演することが多いようです。
桜田門外の変は、安政7年(1860)の3月3日、雛祭りの日にあたります。その日は大雪になるのですが、新暦に直すと3月24日になります。いずれにしても時ならぬ大雪です。その前日に、側室であるお静の方を訪ねた直弼は、彦根城外の屋敷、埋木舎(うもれぎのや)で過ごした10数年の日々を懐かしく語らい合います。井伊直中の14子であった直弼は、本来ならば藩主を襲封することはできなかったのですが、兄直亮(なおあき)が急死したことで嘉永3年(1850)に藩主となります。そして今は大老となって、開国か鎖国かという国難に対して苦悶の日々が続きます。直弼は、将軍継嗣問題で徳川慶福(後、家茂)を推し、南紀派の中心となるとともに、安政5年(1858)には勅許を得ないままに通商条約に調印したこと、いわゆる安政の大獄を引き起こしたことで、水戸浪士らに暗殺される、と幕末史の中では最大の悪役かと思います。
「井伊大老」では、まさに国難にあたって苦悩し、その苦悩を側室のお静の方の吐露する為政者として描き出しています。「後の世になんとののしられようと構わぬ。わしはわしの道を行くだけじゃ」と…(うろ覚えですが、こんな感じです)。これに対してお静の方は、しばしためらった後に、「それでよろしいんじゃございませんか」と応えます。そこで直弼は、一瞬息をのみ、そして合点します。このシーンが山場です。直弼は松本幸四郎さん、お静の方は坂東玉三郎さんが演じています。実は数年前に幸四郎さんの直弼と、中村吉右衛門さんの直弼を観ているのですが、はっきり言って、幸四郎さんの直弼はちょっと芝居がかりすぎてあまり好きではなかったのです。当初のアナウンスでは吉右衛門さんが直弼を演じるということで、楽しみにしていたのですが、いつの間にか幸四郎さんにかわっていました。「井伊大老」は、先代の松本白鸚さんも主演されていて、松本家の十八番になっているようですね。でも、実際に観てみると、以前より肩の力が抜けたようで、幸四郎さんの直弼もよかったかなと思っています。あんまり歌舞伎の心得もないのに偉そうですが…。ま、演じる方にもいい大老、悪い大老、普通の大老があるでしょうが…。と、これがわかる人は結構なお歳と見受けます(^_^;)本来ですと、よい大老になりますが…。
ただ、私的には北條流の直弼はすごく共感できます。結果論といわれてしまうかも知れませんが、時代の趨勢は開国に向かうしかなかったと思います。この時代、そう決断することはどれだけ勇気がいったことか。そうした意味では、直弼は時代がみえていた人物のひとりと言えるのではないでしょうか。世間ではよく龍馬だけが時代がみえていたとか、高杉だけがみえていたとか、幕末の志士と呼ばれる人たちだけが持ち上げられる風潮にあるかと思います。かつて確か司馬遼太郎も歴史上、許される暗殺として、井伊直弼をあげています。果たして、本当にそうなのでしょうか。安政の大獄も実態はどうだったのか、見直す時期に来ているのではないでしょうか。
こうした感想を抱いたのも、2007年のことになります、横須賀市史の調査で彦根を訪れ、実際に埋木舎を視察した時でした。






埋木舎。その瀟洒(しょうしゃ)な佇まいと見事な庭に感銘を受けたものでした。ちょうど紅葉の美しい季節でした。窓越しに見る庭はまさに一幅の絵画です。ここで管理をされている方にしばしお話を伺ったのですが、埋木舎は直弼の茶の湯の精神にもとづいて、つまりはもてなしの心で建てられたこと、この埋木舎の時代、直弼は国内はもちろんのこと、世界の情勢についてもかなり勉強していたと聞きました。それは蔵書が物語っています。ついでに言えば、ペリーが浦賀に現れた時、三浦半島を警固していたのは、川越藩と彦根藩でした。そしてこの時代の彦根藩の藩主が直弼でした。彼は無知でも世間知らずでも、ましてや思慮がないわけはないと思います。攘夷、攘夷と叫んでいて、突然、開国、討幕に傾くのが正義だとも思われません。というより、幕末史はそんな単純な図で描けるものでもないでしょう。
東海大学エクステンションセンターの古文書講座で知り合った茶道の先生と、井伊直弼論で大いに盛り上がったことがあります。その際にその先生からうかがった話でもっとも印象的だったのは、直弼の茶の湯の概念を「独我観念」というとのお話しでした。もてなしの作法である茶の湯に「独我」という、つまりは「ひとりだけ」という観念を持ち込む。それこそが北條流の直弼像とぴたりと一致するのではないでしょうか。井伊直弼。真剣に見直してみたい人物の一人です。
北條秀司が描く歴史的な人物像には、我が意を得たりと思うことが多いのです。「信濃の一茶」で描かれた緒形拳版の「小林一茶」もそうでした。また、これは機会があれば…。
「越後獅子」は中村鷹之資さん、そして「傾城」は坂東玉三郎さんの舞いでした。傾城はいわゆる花魁のことです。それにしても玉三郎さんの傾城は艶やかで、まさに見ほれてしまいました。
「松浦の太鼓」は忠臣蔵の外伝です。討ち入り直前の大高源吾と討ち入りの日の平戸藩松浦家を描きます。主役の松浦鎮信を市川染五郎さん、大高源吾を片岡愛之助さんが務めていらっしゃいました。ちょっと間の抜けた松浦の殿様を染五郎さんがうまく演じていらっしゃいました。来年は幸四郎さんが白鸚を、染五郎さんが幸四郎を、染五郎さんのご子息が染五郎を襲名されるということですが、時が来たと言えるのでしょうね。
それにしても最近の学生は、忠臣蔵そのものをあまり知りません。文理共通科目(いわゆる一般教養の一つになります)で3コマ、教養学部、政治経済学部、工学部、理学部の学生、合計で250名ほどの学生を前に「江戸学と現代社会」というタイトルで話をしているのですが、その中でちょっとだけですが、忠臣蔵の話もしています。その際に、忠臣蔵を知っている人!と、手を上げてもらったところ、手を挙げたのはわずか3名でした。知っていても手を挙げなかった学生もいたでしょうが、隔世の感があります。高校生の時、「大石良雄」という同級生がいました。そう、あの「大石内蔵助良雄」と同姓同名になります。高校の先生方は、例えば数学の先生や理科の先生も、「おまえは大石良雄というのか?」と感心していました。その頃は恥ずかしながら、その意味がわかりませんでしたが、皆が忠臣蔵は当たり前のこととして知っていたのですね。そう言えば、年末の風物詩として忠臣蔵が放映されるということもめっきり少なくなりました。
さて、話は変わって、歌舞伎の観劇といえば楽しみはやはり幕間(まくあい)のお弁当と、3階で売っている歌舞伎座名物の鯛焼きです。この鯛焼きには紅白のお餅も入っていて、結構、おなかいっぱいだったのですが、2個も食べてしまいました。


ついでですが、愛之助さん出演ということで、藤原紀香さんもお迎えとお見送りに出ていらっしゃいました。さすがに美しい方で、薄緑の着物が遠目にも目立っていました。また、鶴見辰吾さんも観劇していらっしゃいました。何だか新春らしい賑わいです。
で、翌日は娘のマンションの近くにある大宮八幡宮に初詣です。ここは以前によく神水をいただきに来ていました。本当に久しぶりです。神水もまだ無事に出ていました。




さて、大宮八幡宮を訪れたら、やはり永福町は大勝軒のラーメンですね。ここはいつも行列のできる人気店で、当日もすでに行列状態でした。大勝軒のラーメンは、煮干しや鰹節の出汁が効いた魚介系のラーメンで、麺も通常の2倍入っている大ぶりのものです。スープにはラードが入っていて、最後まで冷めません。これも懐かしい、本当に久しぶりの味でした。

