【コラム】人口停滞の時代としての江戸時代 その2


さて、前回、享保6年(1721)から弘化3年(1846)までの125年間のうち10回の全国人口調査の結果をグラフ化して、その推移について概観してみました。だいたい3000万人といわれる江戸時代の人口のうち、被支配者身分人口の推移です。これによれば、宝暦6年(1756)から天明6年(1786)にかけて人口が急減していること、逆に文化元年(1804)から文政11年(1828)にかけての人口が急増しています。全体的な動向を地方別に比べてみましょう。

地方別人口指数推移地方の分類は、北から東北地方、関東地方、北陸地方、東山地方、東海地方、近畿地方、山陰地方、山陽地方、四国地方、九州地方の10地方です。グラフは、享保6年(1721)を指数100として、その後の変遷を図示しています。緑色の太い線が全国人口の推移です。

ここで興味深いのは、停滞しているという江戸時代の人口について、こうして地方ごとにグラフ化してみると、実際はほとんどの地域で増加していることが分かります。減少しているのは、東北地方と関東地方、近畿地方の3地方ですね。他の7地方では、東海地方と北陸地方が天明3年(1783)にかけて指数100を少し下回っているだけで、その後は増加に転じています。その他の5地方はすべて増加していて、とくに四国地方・山陰地方・山陰地方・北陸地方の上昇率は大きいですね。ただし、いずれも弘化3年(1846)にかけて減少している点は気になります。明治以降の”産業革命”以降は、人口爆発が起きますので、その間の動向も気になるところです。

ただし、ここで言いたいのは、江戸時代の人口が”停滞気味”であるのは、東北地方、関東地方、近畿地方の人口減少と相殺した結果だと言えるのではないかということです。江戸時代は、地球の気候変動の中で小氷期に位置づけられていて、全体的に気温の低い時代です(江戸は寒い!参照)。その意味では、東北地方の人口減少は理解できます。飢饉や凶作は寒冷地帯が大きな影響を受けますからね。でも、その反面で、豪雪地帯の北陸地方は、四国・山陰についで人口が伸びています。

それより興味深いのはやはり、江戸を抱えた関東地方、そして大坂・京都を抱えた近畿地方で人口が減少していることです。いずれも大都市を抱えた地域です。一般的に江戸は100万人都市で当時は世界的にみても最大級の都市だったと言いますし、大坂・京都はいずれも40万人以上の人口があって、2位と3位を占めています。つまり、大都市圏ほど人口の減少がみられるということになりますね。これにはイギリスの経済学者トーマス・ロバート・マルサスが唱えた「マルサスの罠」という有名な学説があります(『人口論』)。都市部は、劣悪な生活環境や出生率の低さのために、常に周辺地域から人口を吸収することで成り立っていると、確かそんな学説だったと思います。したがって、都市の人口を維持するために、周辺地域の人口は減少するというのです。

ということで、続きます。

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【コラム】人口停滞の時代としての江戸時代 その1


来たるべき未来に関するもっとも大きな予想図は、少子高齢化・人口減少-AI・IoT・ロボット-ベーシックインカムという問題の流れに集約されているように思います。私がPCを使い始めた1980年代の後半には、コンピュータが囲碁で人間を破ることなんて”絶対”にないと言われていたのですが、現実はそれを超えてしまいました。ディープラーニングの導入によるAIの急速な発達、通信だけでなくあらゆるものがインターネットとつながっていくIoTの急速な普及、そしてロボット技術の急速な進歩は、少子高齢化や急激な人口減少、あるいは地方の衰退を救う”救世主”でもありますが、そのいっぽうで、さまざまな職業が奪われていくという不安がことのほか喧伝されてもいます。Amazon Goの試みなどは、これから先、コンビニの店員さえ必要となくなってしまうことを暗示していますし、自動運転の発達はタクシーやバスはもちろんのこと、自動耕耘機や田植え機が進めば、農業の在り方自体を変えてしまいます。一体どんな未来が来るのでしょうか。ま、そうなると働ける人と働けない人が出てくる。貧富の差も都市と地方との差も大きくなる。そこで富の再配分の方法として、一定のお金を国民全員に支給するというベーシックインカムが一つの政策として提案されてくる…と、おおざっぱに言えばそんなところでしょうか?昨年、スイスでベーシックインカムの導入について国民投票を行なう…といったことがニュースになったのは、記憶に新しいところではないでしょうか。

いずれにしても、社会が変わって旧来の仕事がなくなってしまうことはこれまでも繰り返されてきたことですし、人口も爆発と停滞を繰り返していることも歴史が証明しています。とりわけ、私が専門とする江戸時代は、前期の大開発の時代を経過すると低成長の時代であるといわれていますし、人口もだいたい3000万人ほどで停滞するといわれています。そこで、このblogでは少し江戸時代の人口の特徴について考えてみたいと思います。

日本の人口史に関する概説書ついては、鬼頭宏先生の『日本二千年の人口史』(PHP研究所、1983年)や『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)などをご覧いただければよろしいかと思います。で、江戸時代の人口については、8代将軍徳川吉宗が、享保6年(1721)に初めて全国の人口調査を行ない、その後、享保11年(1726年)以降、6年ごとに調査されるようになります。これが子の年と午の年にあたりますので、「子午改め」と呼ばれています。とりあえずは、関山直太朗著『近世日本の人口構造―徳川時代の人口調査と人口状態に関する研究』(吉川弘文館、1958年)に一覧表が載っていますし、Wikipediaでも関山著書と他の史料との差異などが検討されていますので、容易に知ることができます。ここではとりあえず、関山著書をもとに分析してみましょう。

全国人口推移これには武士や朝廷・公家などの人口が含まれていません。これらを含めてほぼ3000万人といわれているわけですね。でも、この表をみる限り、享保6年(1721)以降、宝暦6年(1756)までは、ほぼ2600万人で推移していたところ、天明6年(1786)にかけての30年間で一気に100万人近く減少していますね。天明6年といえば、言わずと知れた天明の飢饉の真っ最中です。ここまでの間が不明ですので、急激に減ったのか、それとも徐々に減ったのかは、これだけではちょっと分かりませんね。ただし、天明6年は底で、それから順次回復し、文化元年(1804)からは急激に人口が増えていることが分かります。文化元年から文政11年(1828)までの四半世紀で150万人ほどと急激な増加です。頃は文化文政文化、略称化政文化真っ只中です。でも、その後はまた減少に転じています。

とまぁ~これが限定はありますが、全体的な傾向です。でも、これを地方ごとにみていくともっとおもしろいことが分かります。さてさて…。

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Oh~keyboardPC!


初めてパソコンを買ったのは、1988年のこと。NECのPC-9801の何でしたでしょうか、当時としては珍しかった3.5インチのフロッピーディスクを搭載したものでした。もうフロッピーディスク自体をみることがほとんどありません。それからほぼ30年もたつのですね。それが最近では、スティック型のパソコンやキーボード型のパソコンすら販売されるようになってきました。ウェアラブルPCやユビキタスコンピューティングといった言葉が踊ったのはいつのことだったでしょうか。もっとも、現代社会は、あらゆるところにコンピュータが入り込んでいますから驚くには値しないのかも知れません。

ということで、ワープロソフト一太郎の最新版を購入した際に、セット販売されていたキーボード型パソコンを購入してみました。

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JustSystemsらしい赤いキーボードです。HDMIでディスプレイに繋いで、ワイヤレスのトラックボールとLANケーブルを繋ぎます。キーボードの右の四角い部分はトラックパッドになっていますし、当然、無線LANですから、本来はHDMIでディスプレイに繋ぐだけでOKです。他にもUSB2.0と3.0の端子が一つずつ、VGA端子もあります。特筆すべきは、microSDがセットできることです。本体のメモリが4MB、SSDが32MBですから、最低限のアプリを入れればすぐにいっぱいになります。microSDは64MBが限度ですが、それでもある程度拡張できます。データ類はUSB機器に保存すればいいですからね。それよりも、こうしたPCは本来、クラウドを前提にしていると考えた方がよいでしょう。

いずれにしても、これでスイッチON

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はい、無事に立ち上がりました。セッティングが終われば、あとは無線LANでいけますから、LANケーブルはお役御免です。トラックボール、ないしはマウスはお好みで、ちなみに今はBluetoothのマウスを使って、本体のトラックパッドと併用しています。で、うちにも持って帰って、ディスプレイではなく、普通の液晶テレビに繋いでみました。

IMG_5760はい、コードは電源とHDMIケーブルだけです。ちゃんとEdgeでYahoo!のトップページを表示しています。操作はCPUがATOMですから、ちょっともっさりしています。正直言って、キーボードは小さくて打ちにくいですね。とくにEnterkeyが小さいのも困りものです。ですから、結構、打ち損ないが多くなってしまいます。慣れるのもちょっと難しいかなと思っています。トラックパッドはいらないから、その分、キーボードの部分を大きくしてもらった方がよかったかもしれません。

ただ、私の場合、使い方が決まっていますから、CPUの非力さやキーボードの打ちにくさはそうそう問題にはならないかと思います。基本はディスプレイやプロジェクターに繋いで、PowerPointを表示させることです。とくに卒業論文のゼミではそれぞれにノートパソコンを使用させますから、基本的な使い方や注意点などもこれで表示させながら、操作させていきたいと思っています。

時代が進めば、学生は私なんか足下にも及ばないようになってくるかなと思っていますが、思ったほどではないですね。しかもスマートフォンが普及してからは、ますますキーボードから遠ざかっているようです。社会に出れば、ワープロに表計算ぐらいは当たり前なのに…ですね。実際にはWordにExcel、そしてPowerPointですが、はっきり言わせてもらえば、WordやExcelは決して使いやすいソフトではありません。操作性だけが変更されるだけです。機能はもう十分だからとはいいますが、それは英語の表記を基準としたもので、報告書を作成できる程度のものです。確かにそれでも十分といえば十分なのですが、こうしたこともできる、ああした使い方もできるといったわくわく感がないですからね。

いずれにしても学生のキーボード離れは深刻です。最近はスマホだけでレポートを済ませる学生も出てきますが、やはり長い文章を推敲しながら書いていくためには必須です。その局地が卒論ですからね。

実はドロップボックスをクラウドではなく、保存にも使いたいため、現在は外付けのSSD240GBを購入して、設定している最中です。それが時間がかかってしまって、金曜日から研究室でずーっと同期させています。月曜日にはちゃんと同期できたでしょうか?LANケーブルで繋いでいるのですが…。これは参りました。

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津々浦々 百千舟 横浜市歴史博物館


2月になりました。まだまだ期末採点地獄からは抜け出していません(^_^;)何とかここ数日で片付けたいものです。ただ、今日は、横浜市歴史博物館で相武地域史研究会の研究会です。相武地域史研究会については、2013年の10月に第2回シンポジウムの告知をした際に紹介しましたので、こちらをご覧ください。簡単に言いますと、東海大学文学部歴史学科日本史専攻が中心となり、神奈川県内の博物館や資料館などの歴史系機関を複合的にネットワークで結んでいきながら、新たな地域像、歴史像を提起していこうという研究会です。「相武」は、今の神奈川県を構成する相模国8郡と武蔵国3郡(都築郡・橘樹郡・久良岐郡)の略です。

さて、この横浜市歴史博物館では、現在、「津々浦々百千舟 江戸時代横浜の海運」という特別展をやっています。これも詳しくは同館のホームページをご覧いただければと思います。

IMG_5735横浜と言っても、この場合は「神奈川湊」が中心になります。神奈川湊は宿場町の東海道神奈川宿と湊の複合的な「町」です。知多半島の内海廻船と深い繋がりがあったことは以前から明らかにされていましたが、今回は、東北地方の湊から蝦夷地までを含む東廻り航路との商いや、赤穂の塩の移入、江戸川舟運との関係、横浜が開港した後の群馬は前橋の絹の取り扱い等々多様な側面を描き出しています。平日ですが、結構、お客さんも来ていらっしゃいました。そうした歴史よりも模型に興味のある人が多いようです。中には構造が違う!と指摘する人もあったということです。館内はもちろん撮影禁止ですが、模型はOKですので、撮影できたものをちょっと紹介しておきます。

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これは珍しい!鎌倉時代の船の模型だそうです。丸木舟から木材を組み合わせた舟に変わっていく形態を現わしているそうで、確かに下からのぞくと船底は丸木舟のようです。で、船上には檜皮を葺いた屋根を持つ施設が建っています。帆は莚ですから風を受けるには限界があり、櫓もついています。みればみるほど興味深いです。

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こちらは発掘された丸木舟と、江戸時代の弁才天船ですね。戦国時代には、中国や朝鮮から輸入した木綿が普及して帆も莚から木綿に変わっていきます。それによって風を捉えることができるようになり、舟の大型化と高速化がはかれるようになっていきます。ほとんど無知ですが、舟の歴史もおもしろいですね。

さて(その2)、相武地域史研究会ですが、今年の10月14日の土曜日に第3回目のシンポジウムを開催する予定です。もう少し開催内容がはっきりしたらまた告知します。今回は、シンポジウムに向けた研究報告会で、神谷大介氏に「戊辰戦争下の海軍と江戸周辺地域」というタイトルで報告していただきました。そう言えば、幕府海軍がどれだけの軍鑑を持っていて、それがどのような活動をしていたのか、とくに幕末維新期には、浦賀や横須賀製鉄所も船の建造や修復、蒸気船であれば石炭の補給と重要な役割を果たしています。地域史としても重要な視点ですね。あ、神谷氏の報告がそのままシンポジウムの報告になるのではないので、あしからず…。でも本年は、大政奉還150周年、そして来年は明治維新150周年になるのですね。相武地域史研究会もまた重要な勉強の場です。

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採点というの名の地獄…


授業の仕上げと、期末試験と、卒業論文の口頭試問に卒業判定と1月もなかなかハードでしたが、もう月末ですね。先週ようやく口頭試問が終わったかと思ったら、これから大量の採点です。期末試験は文理共通科目(いわゆる一般教養ですね)だけですが、他にも小レポートやら、卒業論文(1)や地域史研究法といった演習科目の期末レポートも読まなければなりません。いやはや…。

IMG_5685これはある日の期末試験の模様です。普段使用している教室は100名+αでほぼいっぱいになってしまいますので、試験するには適しません。で、教室を変えてもらったら、こんな大きな教室…(^^)100名いてもガラガラの感じですね。

で、昨日から小レポートの点検と期末試験の採点を始めました。

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小レポートと期末試験で250枚以上ありますから、それらを採点するのだけでもたいへんです。ただ、正直なところ、試験へのノートやテキストの持ち込みを許可しても、論述式で書いてもらう問題については、なかなか難しいのか近年の傾向です。学力の低下とはもう10数年前から言われていますが、その傾向は試験をするだけでも明らかなのです。だから、数年前から、設問の半分は穴埋めの解答選択式にして、半分を論述式にしております。文学部であっても例外ではありません。

だから大学入試も改革するのでしょうが、それ自体は小手先の問題に過ぎない気がします。さらにはスマートフォンの普及。LINEやメモでは、知識や認識が細切れになってしまいますから、全体を体系的に組み立て、流れを考えてまとめるということがとくに苦手になっているようです。小学校の時から、毎日漢字の書き取りをする、毎日音読をする、夏休みには絵日記を書く…といった、私らの時代では当たり前だったことを当たり前にやるところも必要なんじゃないかと思ってしまいます。文科省はここのところ、小学校からやたらアクティブラーニングを推奨しますが、何も新しい方法がすべてよいわけではない。むしろ、小学校などは普通にアクティブラーニング的なことをやっていたわけで、中学校、高校に進むにつれて話を聞くだけになってしまう。それなのに大学には行って急に双方って言われても…。と、何だが愚痴のオンパレードになってしまいました。そこら辺はまた、少し考えてまとめてみたいですね。

結局、昨日は、小レポートを採点を終えて、台帳につけて、穴埋め式の丸つけを3分の2やったところでおしまいでした。来週が勝負ですが、いろいろと他に仕事もありますので、う~む、再来週まではかかりそうですね。半分とは言え、論述を読むのにはやはり時間がかかりますからね。写真を見てもらえばご理解いただける…かな?もっとたくさんの採点をされている先生方もいらっしゃいますから、それはそれでお察し申し上げます。

ところで、昼食にちょっとこんなものを試してみました。あ、これは昨日のことではないのですが、電子レンジでサツマイモやトウモロコシが蒸かせるというのです。せっかくですから…。

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サツマイモで5分、トウモロコシで6分と書いてありました。水洗いして、容器にセットして、既定通り600ワットで6分。そしたら、あ~ら、不思議!こんな風に結構、ほっこりと蒸し上がりました。味もなかなかでしたよ。で、昨日の昼ご飯がこれです。身体が悪いんですか?いやいや、ただのダイエットです(^^)

採点が終われば入試が始まって、入試が終わればウィンターセッション!2月もなかなか忙しいです。でも、それぞれの間の日は比較的空いていますから、そこは好きなことができるよう、計画的にやっていきたいものです。

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歌舞伎座にて…井伊大老


井伊大老、越後獅子、傾城、松浦の太鼓…壽 初春大歌舞伎、夜の部の演目です。7日の土曜日、かみさんと下の娘と3人で歌舞伎座に観劇に行って参りました。今年初めての歌舞伎です。

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img_5591img_5597お目当ては、北條秀司作「井伊大老」。この演目は、もとは新国劇ために書かれた劇作で、本来は井伊直弼の桜田門外の変までを描いています。このうち、水戸浪士による直弼暗殺の噂から、桜田門外の変の前日までを描いたのが「井伊大老」になります。全編はかなりの大作になりますので、だいたいはここまでを上演することが多いようです。

桜田門外の変は、安政7年(1860)の3月3日、雛祭りの日にあたります。その日は大雪になるのですが、新暦に直すと3月24日になります。いずれにしても時ならぬ大雪です。その前日に、側室であるお静の方を訪ねた直弼は、彦根城外の屋敷、埋木舎(うもれぎのや)で過ごした10数年の日々を懐かしく語らい合います。井伊直中の14子であった直弼は、本来ならば藩主を襲封することはできなかったのですが、兄直亮(なおあき)が急死したことで嘉永3年(1850)に藩主となります。そして今は大老となって、開国か鎖国かという国難に対して苦悶の日々が続きます。直弼は、将軍継嗣問題で徳川慶福(後、家茂)を推し、南紀派の中心となるとともに、安政5年(1858)には勅許を得ないままに通商条約に調印したこと、いわゆる安政の大獄を引き起こしたことで、水戸浪士らに暗殺される、と幕末史の中では最大の悪役かと思います。

「井伊大老」では、まさに国難にあたって苦悩し、その苦悩を側室のお静の方の吐露する為政者として描き出しています。「後の世になんとののしられようと構わぬ。わしはわしの道を行くだけじゃ」と…(うろ覚えですが、こんな感じです)。これに対してお静の方は、しばしためらった後に、「それでよろしいんじゃございませんか」と応えます。そこで直弼は、一瞬息をのみ、そして合点します。このシーンが山場です。直弼は松本幸四郎さん、お静の方は坂東玉三郎さんが演じています。実は数年前に幸四郎さんの直弼と、中村吉右衛門さんの直弼を観ているのですが、はっきり言って、幸四郎さんの直弼はちょっと芝居がかりすぎてあまり好きではなかったのです。当初のアナウンスでは吉右衛門さんが直弼を演じるということで、楽しみにしていたのですが、いつの間にか幸四郎さんにかわっていました。「井伊大老」は、先代の松本白鸚さんも主演されていて、松本家の十八番になっているようですね。でも、実際に観てみると、以前より肩の力が抜けたようで、幸四郎さんの直弼もよかったかなと思っています。あんまり歌舞伎の心得もないのに偉そうですが…。ま、演じる方にもいい大老、悪い大老、普通の大老があるでしょうが…。と、これがわかる人は結構なお歳と見受けます(^_^;)本来ですと、よい大老になりますが…。

ただ、私的には北條流の直弼はすごく共感できます。結果論といわれてしまうかも知れませんが、時代の趨勢は開国に向かうしかなかったと思います。この時代、そう決断することはどれだけ勇気がいったことか。そうした意味では、直弼は時代がみえていた人物のひとりと言えるのではないでしょうか。世間ではよく龍馬だけが時代がみえていたとか、高杉だけがみえていたとか、幕末の志士と呼ばれる人たちだけが持ち上げられる風潮にあるかと思います。かつて確か司馬遼太郎も歴史上、許される暗殺として、井伊直弼をあげています。果たして、本当にそうなのでしょうか。安政の大獄も実態はどうだったのか、見直す時期に来ているのではないでしょうか。

こうした感想を抱いたのも、2007年のことになります、横須賀市史の調査で彦根を訪れ、実際に埋木舎を視察した時でした。

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埋木舎。その瀟洒(しょうしゃ)な佇まいと見事な庭に感銘を受けたものでした。ちょうど紅葉の美しい季節でした。窓越しに見る庭はまさに一幅の絵画です。ここで管理をされている方にしばしお話を伺ったのですが、埋木舎は直弼の茶の湯の精神にもとづいて、つまりはもてなしの心で建てられたこと、この埋木舎の時代、直弼は国内はもちろんのこと、世界の情勢についてもかなり勉強していたと聞きました。それは蔵書が物語っています。ついでに言えば、ペリーが浦賀に現れた時、三浦半島を警固していたのは、川越藩と彦根藩でした。そしてこの時代の彦根藩の藩主が直弼でした。彼は無知でも世間知らずでも、ましてや思慮がないわけはないと思います。攘夷、攘夷と叫んでいて、突然、開国、討幕に傾くのが正義だとも思われません。というより、幕末史はそんな単純な図で描けるものでもないでしょう。

東海大学エクステンションセンターの古文書講座で知り合った茶道の先生と、井伊直弼論で大いに盛り上がったことがあります。その際にその先生からうかがった話でもっとも印象的だったのは、直弼の茶の湯の概念を「独我観念」というとのお話しでした。もてなしの作法である茶の湯に「独我」という、つまりは「ひとりだけ」という観念を持ち込む。それこそが北條流の直弼像とぴたりと一致するのではないでしょうか。井伊直弼。真剣に見直してみたい人物の一人です。

北條秀司が描く歴史的な人物像には、我が意を得たりと思うことが多いのです。「信濃の一茶」で描かれた緒形拳版の「小林一茶」もそうでした。また、これは機会があれば…。

「越後獅子」は中村鷹之資さん、そして「傾城」は坂東玉三郎さんの舞いでした。傾城はいわゆる花魁のことです。それにしても玉三郎さんの傾城は艶やかで、まさに見ほれてしまいました。

「松浦の太鼓」は忠臣蔵の外伝です。討ち入り直前の大高源吾と討ち入りの日の平戸藩松浦家を描きます。主役の松浦鎮信を市川染五郎さん、大高源吾を片岡愛之助さんが務めていらっしゃいました。ちょっと間の抜けた松浦の殿様を染五郎さんがうまく演じていらっしゃいました。来年は幸四郎さんが白鸚を、染五郎さんが幸四郎を、染五郎さんのご子息が染五郎を襲名されるということですが、時が来たと言えるのでしょうね。

それにしても最近の学生は、忠臣蔵そのものをあまり知りません。文理共通科目(いわゆる一般教養の一つになります)で3コマ、教養学部、政治経済学部、工学部、理学部の学生、合計で250名ほどの学生を前に「江戸学と現代社会」というタイトルで話をしているのですが、その中でちょっとだけですが、忠臣蔵の話もしています。その際に、忠臣蔵を知っている人!と、手を上げてもらったところ、手を挙げたのはわずか3名でした。知っていても手を挙げなかった学生もいたでしょうが、隔世の感があります。高校生の時、「大石良雄」という同級生がいました。そう、あの「大石内蔵助良雄」と同姓同名になります。高校の先生方は、例えば数学の先生や理科の先生も、「おまえは大石良雄というのか?」と感心していました。その頃は恥ずかしながら、その意味がわかりませんでしたが、皆が忠臣蔵は当たり前のこととして知っていたのですね。そう言えば、年末の風物詩として忠臣蔵が放映されるということもめっきり少なくなりました。

さて、話は変わって、歌舞伎の観劇といえば楽しみはやはり幕間(まくあい)のお弁当と、3階で売っている歌舞伎座名物の鯛焼きです。この鯛焼きには紅白のお餅も入っていて、結構、おなかいっぱいだったのですが、2個も食べてしまいました。

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ついでですが、愛之助さん出演ということで、藤原紀香さんもお迎えとお見送りに出ていらっしゃいました。さすがに美しい方で、薄緑の着物が遠目にも目立っていました。また、鶴見辰吾さんも観劇していらっしゃいました。何だか新春らしい賑わいです。

で、翌日は娘のマンションの近くにある大宮八幡宮に初詣です。ここは以前によく神水をいただきに来ていました。本当に久しぶりです。神水もまだ無事に出ていました。

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さて、大宮八幡宮を訪れたら、やはり永福町は大勝軒のラーメンですね。ここはいつも行列のできる人気店で、当日もすでに行列状態でした。大勝軒のラーメンは、煮干しや鰹節の出汁が効いた魚介系のラーメンで、麺も通常の2倍入っている大ぶりのものです。スープにはラードが入っていて、最後まで冷めません。これも懐かしい、本当に久しぶりの味でした。

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2017年の仕事始め


3が日が過ぎて、昨日から仕事を再開しています。といっても、先に書いたように、今の急ぎの仕事は、論文「元禄大地震と宝永富士山噴火 その2」の修正です。その1は、小田原藩領全体の年貢データの分析から、この2つの大災害からの復旧過程を概観してみました。今回は、小田原藩領の村々、といっても足柄上郡と下郡に限ってのことです。これを米作地帯(3か村)、畑作地帯(2か村)、中間地帯(2か村)の3つに分けて、各村の年貢割付状を分析して、先の分析結果と比較検討しています。年貢データは、そのものが復興の過程を物語るわけではありませんが、通時的なデータであるだけに、年貢の回復状況をみていくことで、復旧の状況について概観できると思っています。また、年貢回復策と言ったらいいのでしょうか、年貢に関する政策の特徴を検討することができます。査読の結果を受けて、データと基本となる7か村の折れ線グラフも作成しなおしました。こうした論文では、グラフをどう読み込むかが勝負です。さらにこの変遷の意味を明確にするために表を作成したりするのですが、どのような表を作成するかも大きな問題になります。私はとにかくデータを加工するのが好きですから、どうしても図表が多くなってしまいます。そうすると、なかなか印刷物として載せることが難しくなってきてしまいます。

そんなこんなをやっていましたら、小田原城の最中をいただきました。小田原藩の論文を書いていたら、小田原城の最中をいただくとは、これも何かの縁ですね。

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何はともあれ、明日が修正の〆切ですから、手直しは無事に終わりました。ただ、ここで問題は、英文の表題と英文のアブストラクト(概要)をつけなければならないことです。アブストラクトの日本文は書いたのですが、英訳などまったくできません。正月休みですから、誰かに頼むのも難しく、とりあえず、このまま入稿して、英文は別に入れたいと思っています。早くGoogle翻訳などで翻訳できるようになればいいのですが…。ただ、専門用語が多出するものだと翻訳そのものがまだまだ難しいかなと思っています。それにしても困ったものです。

ところで、この3日に眼鏡市場に行って眼鏡を買い換えました。遠近両用は日にちがかかるので、受取は来週になります。で、眼鏡市場では初売りのくじをやっていて、1等は現金で1万円が当たるとのこと。引いてみたら何と!1等が当たってしまいました。ただ、かみさんも眼鏡を買って、2枚くじを引いたので、どっちが当たったのかわかりません。しょうがないので、山分けしました。まぁ~山分けと言うほどの額ではないですけれどね。

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とはいえ、年明け早々くじに当たるなんて縁起がいいです。これもきっと、元日に江戸家まねき猫お姉さまにいただいた招き猫の置物がよかったのだと話しています。歌丸師匠も軽い肺炎を患われたとかで、2日からは休演となってしまいましたから、これも元日に動いてよかったなと思っています。ただ、ここで今年の運を使い果たさなければよいのですが…(^_^;)

いずれにしても縁起物ですから、このblogでも紹介しておきますね。さて、明日から授業が始まります。今年はこの運に乗って、さらにActiveに行きたいものです。

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やってみよう_2017


auのお正月コマーシャルのパクリですね。でも、さぁ~今年は何をやるか、ということを宣言しておくのもいいかなと思って、ここに宣言しておくことにしましょう。

◎3本

これは、投稿しようと思う論文の数です。一つは、宝永4年(1707)の富士山噴火と小田原藩の年貢米の回復に関するものです。ここ数年は、この富士山噴火と年貢の問題に注力してきましたが、ここで一つ区切りをつけたいですね。二つ目は、江戸時代前期の産物献上に関するものです。もう、20年以上もやっているテーマで、ほとんど文章にしたことがありません。1件だけ、幕末の問題として取り上げてはいますが、今年から少し集中してまとめたいと思っています。今回は、稲葉氏が藩主あった時代に、将軍に「鮎」を献上した事実とその意味について具体的に検討してみたいと思います。三つ目は、ただいま検討中ですが、昨年できなかった本学の大学史に関するものになるかなと考えています。いずれにしても、最低3本ということです!!

これまではインプットがほとんどで、そればかりが肥大化していますから、これからはひたすらアウトプットです。

◎史料集

これはずっと以前から考えていたのですが、小田原藩の家臣に関する古文書で「吉岡由緒書」というのがあります。全4冊からなるこの古文書は寛永期(1624~44)に大久保家に仕官した吉岡家が、明治4年(1871)の廃藩置県にいたるまで、代々の当主の業績について書き上げた記録です。吉岡家は340石の地方取りの中級家臣で、御勝手方や番方などの重要な役職を歴任していきます。藩政史料が失われた小田原藩では、藩政の展開とその背景を通時的に検討することができる貴重な史料です。

ただ、史料自体は小田原市立図書館に寄託されているものですから、寄託元の許可をいただかなければなりません。何より量が多いですから、たいへんです。すでにワープロ化は済んでいるのですが、何せ粗い入力ですので、原文書校正はもちろんのこと、家系図や図の挿入など、課題は山積みです。もちろん、今年は許可と原稿を仕上げていくことが先決ですから、刊行は来年度以降になります。何より刊行費用をどうするか。クラウドファンディングも含めて考えていきたいと思っています。でも、本当に、何をするにもお金が問題ですよね…。組み版を含めて印刷用のPDFファイルまで作成しますので、後は印刷費だけ出ればよいのですが…。

これ以外にもある著名な方の史料整理等々考えているのですが、まだ公表できませんので、公表できるようになったらお知らせします。それからこのサイトのリニューアルですね。

◎朝鮮通信使

当面の案内ですが、3月19日の日曜日に藤沢市で朝鮮通信使来朝に関する講演をします。湘南日韓交流協会の40周年を記念する行事の記念講演です。ここでは寛延元年(1748)に来朝した通信使に対する「馳走」について、藤沢宿を中心としながら、相模国全体に広げて考えていきたいと思っています。

さて、これらがどれくらい達成できたか?中間報告はもとより、今年の大晦日を楽しみにすることにしましょう。いや、楽しみにしてくださいと言うべきですね。でも、私自身が楽しみです。何よりもう歳ですから、肩の力を抜いて、やれるところまでやってみようと思います。笑顔を忘れずに!

ということで、今年の干支、酉のお飾りです。見ているだけで、頬がゆるみます。それでいいのだと思いますよー。

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2017年は笑い初(ぞ)めから!


2017年、平成29年が明けました。改めまして、明けましておめでとうございます!

午前0時をまわったところで、例年の通り、近所の子之神神社に初詣です。江戸時代からの「戸室村」の守り神です。こうした「村」の神様は、鎮守様と産土神(うぶすながみ)と氏神様を兼ねているのが江戸時代以来の伝統ですね。子之神様は、水の神様でもあって、近くに湧水があります。戸室は丘陵部と平野部に別れているのですが、丘陵部ではとくに水不足に悩まされたとのことですので、そうした関係があるのでしょう。前書が長くなってしまいました。

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今年は娘たち二人ともカウントダウンに行ってしまいましたので、かみさんと二人だけの初詣でした。それにしても、今年は、拝殿に向かって左側にスクリーンが設けてあって、プロジェクターでこんな感じで投影されていました。う~む、微妙…(^^;)

◎新宿末廣亭

夜が明けて、少し正月祝いをしたら、新宿の末廣亭に落語&演芸を観に行きました。江戸家まねき猫のお姉さまに伺ったところ、正月は2~4日は大入りで、意外にも元日が狙い目なのだとか。でも、今年は歌丸師匠が出演なさるからどうでしょうか…。と、おっしゃっていましたが、あたって砕けろで、12時過ぎに第1部から入りました。案の定ですが、立ち見です。第1部の主任は今をときめく春風亭昇太師匠ですからね。昨日は紅白歌合戦の審査員でもありました。実は昇太師匠は、私の大学時代の同級生です!私にとっては懐かしい田ノ下君です。

大学時代の逸話です。中国語の時間でした。すでに大学日本一に輝いていた田ノ下君、みんなに囃されて、また先生からも促されて、教壇に座って一席「野ざらし」という落語を語ってくれました。終わってから「いや~、老人ホームでやるより緊張した」と、照れながら席に戻ったのを今でもはっきりと覚えています。落語に詳しいわけではなかったですが、素人目にも上手かったですよ。大学も今よりずっとずっとのんびりした時代でした…。

それにしても昇太師匠、凄い人気です。客席はもちろん、立ち見も満員。昨日の紅白歌合戦をつかみに、笑点の司会就任の話をネタにして、さて「時そば」を一席!爆笑の連続でした。う~む、さすが!!大学時代から違っていたと言うことですね。

でも、今日のお目当ては第2部のまねき猫お姉さまです。江戸家は初代から昨年亡くなった四代目の猫八師匠まで、動物の声帯模写を中心とした物真似師の一家です。まねき猫お姉さまももちろん、物真似師で、今日はとくに鶏の物真似を中心として演じていらっしゃいました。今年は酉年ですからね、超縁起物です。高座が終わったら、わざわざ表に出てきてくださいました。

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まねき猫お姉さま、素敵な笑顔です。途中から下の娘も合流しました。

さて、第2部の主任は桂歌丸師匠です。演目は、歌丸師匠十八番、江戸落語の「つる」です。歌丸師匠なら「つる」、「つる」なら歌丸師匠というほど、有名な演目だそうです。詳しくはこちらのサイトをみていただくとして、これを聞けただけでも幸せでした。笑いはもちろんのこと、何といってもその「間」の見事なこと。う~む、やっぱり凄い。

2017年度のゼミ生は、江戸時代の文化をやりたいという学生が多くて、できれば、こうした演芸にも触れてほしいものです。肌で感じることも大切ですからね。ちなみに7日には、歌舞伎座に新春大歌舞伎を観に行く予定です。

それにしても末廣亭は、東京に残る唯一の木造演芸場ということで、それだけでも価値がありますよね。実は私が初めて末廣亭を訪れたのは、高校生の時、修学旅行で東京に出てきた際に、友人の親戚の人が案内してくれたのでした。

img_5567第2部が終わると、外はすっかり陽が落ちていました。夜の末廣亭もまた風情があります。笑い初めの元日。こいつぁ春から、あ、縁起がいいやぁ~。ありきたりですが、笑う門には福来たる。皆さまにとって、今年も幸多いことを祈念申し上げます。

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【徒然】今年も大晦日


突然ですが、日本で太陽暦が採用されたのは、明治5年(1872)の12月からのことでした。それまでは太陰太陽暦(陰暦)が使われていました。これについては、すでにこのblogでも書いていますので、二度目になりますが、改めて説明しますと、次の通りになります。

太陰太陽暦では、月のみちかけにしたがって1か月の長さを定め、1年の長さは太陽のめぐりにあわせていました。太陽と月の運動形態を折衷していたわけで、そうすると太陽暦では一定である月の大小の配列が、太陰太陽暦ではかなり異なってきます。新月を朔(さく)、また朔日は「さくじつ」また「ついたち」と読みます。早い話、1日のことですね、満月を望(ぼう=望月ですね)といいますが、朔から望、あるいは望から朔を一朔望月(いちさくぼうづき)と呼びます。一朔望月は一定ではないのですが、平均すると29・530589日、ほば29日半となります。そこで陰暦では一か月を大(30日)、小(29日)に分けて調整することになります。つまり1ヶ月は大の月にあたる30日か、小の月にあたる29日しかなかった訳です。通常、近世以前の史料では、月の最後の日は一般に「晦日」としか書いてなくて、それが30日目か29日目かは確認しないとわかりません。いずれにしろ、その1年の終わりの晦日が「大晦日」となるわけですね。

しかし単純に大・小…と並べたのでは実際の月のみちかけにあわなくなってしまうので、毎年のように大小の配列がかわりました。たとえば天保2年(1831)などのように「小大小小小大小大小大大大」と、小の月が3回、大の月が3回続いたりすることもあった。仮に大小月各6回を組み合わせて1年としてみると354日となり、地球が太陽を一周するのに要する365・2422日(一太陽年)に11日ほど足りない計算となる。そこでこの不足分の11日がある程度たまったところで、ひと月分を増やし、1年を13か月とすることで調整しました。こうして増やした月を閏月といいました。平均すると32、3か月に1度の閏月がおかれる計算となりますが、この追加の1か月が1年のどこに入るかは季節とのズレを調整して決めました。

ということで、本日は2016年、平成28年の大晦日です。大掃除も終わって、かみさんと娘が朝から正月の用意をしていて、後は年明けを待つばかりとなりました。もっとも、娘は二人ともカウントダウンに行くようです。

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img_5519img_5520これまた突然ですが、ここはいつもお花を購入する「花美」というお店です。昨日は、いつものようにこちらでお花を買ってきて、お墓に供えてきました。ここにはまぁ~ハンサムでりっぱな猫がおりまして、了解を得て掲載させていただきました。この猫君のように、来年は泰然自若といきたいものですので…(^_^;)

さて、今年もこの拙いblogを読んでくださった皆さま、ありがとうございましたm(_ _)m年が明けて、このサイトが6周年を迎える頃には、このサイトもblogもリニューアルをしたいと思っております。また、来年の目標は年が明けたところで!

どうぞ皆さま、よいお年をお迎えください。

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