【徒然】冬休みの装い


今日は仕事納めの日です。自宅作業用の原稿やらを取りにちょっとだけ大学に来てみました。学生も少なくて、学内を歩くと、遠くから運動部の学生たちの声が少しだけ聞こえてきます。昨日の雨が嘘のように、空は晴れ渡っていて、空の蒼さが一際目にしみます。風も冷たくて、すっかり葉っぱが落ちた中央通りの欅が、冬休みの装い準備完了と告げているようです。

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img_5510img_55151号館も欅が葉を落としている時でなければこうして真正面から全体を見ることができませんからね。

この欅が芽を吹く頃には、また新しい学期が始まりますが、その前にしばらくはこの冬の景色を楽しむことになりそうです。

とりあえず、今年も後3日。本当にあっという間ですね。昨日は、学園史資料センターの忘年会で、最後にみんなが一言ずつ、今年一番印象に残ったことを話したのですが、まったく頭に浮かばなかったですね。まぁ、それだけ充実していたということにしておきましょう。

昨夜は福岡の実家からあまおうを送ってきました。「にいちゃん、おおきかつとこまかつ(小さいのということです。あしからず)ば入れといたばい」と言っておりましたが、これがその苺です。右のやつは100グラムを超えています。大きすぎて出荷もできません。でも、食べ応えは充分です。1個で充分と言いながら、娘が食べてしまいました。これもまた、我が家の冬景色です!

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【徒然】断髪式


12月20日の火曜日は、卒業論文の提出日でした。おかげさまで5人のゼミ生たちは、前日までに無事に提出しました。ですので、宣言通り、ようやく伸びた髪を切ることができました。朝1番で、行きつけの美容院、相武台前のグリフィンヘアーで切ってもらいました。

img_5487こちらのお店は、ご主人へやさんは、厚木でお勤めの時から家族全員でお世話になっています。へやさんて、冗談みたいですが、本当です!で…

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こんな髪を…

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ここまで切っていただきました。断髪式終了!です!!さっぱりしましたぁ。白髪もいくらか隠せますしね。

昨日は、11月の末に投稿した論文「元禄大地震と宝永富士山噴火 その2」の査読が終わって戻ってきました。査読というのは、いわゆる論文の審査のことで、内容を読んでもらって、専門誌に載せることが適当かどうかを判断します。たいがいそのままでよいということはなくて、掲載可であったとしても修正意見や誤字脱字についての指摘がつきます。まぁ~慌てて書いているといっても、誤字脱字、それに誤変換の指摘にはお恥ずかしいというしかありません(^_^;)修正意見については、これもたいがいご指摘の通りということが多いので、修正していきますが、中には見解の違いということもあって、これがやっかいです。私も査読者になったり、あるいは編集担当となって査読を依頼することありましたので、内情はだいたいわかります。

日本史の論文というのは、単独で執筆するのが当然となっています。連名が当たり前の理系の論文はもとより、社会学や心理学といった社会科学の論文でも連名が多いですね。だから、そうそう本数が稼げるものではありません。また、枚数も原稿用紙で50枚以上が当たり前の文系の論文と違って、理系の論文は、課題設定と実験結果と結論を述べるだけですので、枚数も少なくなります。だけと言ったら失礼ですが、自然科学の場合は同じ手続きで同じ実験をすれば同じ結果が出るということを証明できることが重要です。日本史の論文はそういうわけにはいきません。なにせ、実験はもちろんのこと、史実を証明すること自体、歴史の事象を復元すること自体が困難ですからね。その上で、その事象の意義や位置づけを明確にしなければなりません。だから、文献史学では文字資料が基本になります。最近では図像資料や史跡なども題材として使われますが、まずは文字で書かれたものの解釈が大事ですね。ただ、私は数字が好きなので、結構、図表が多くなります。

さて、まずは私の論文を手直ししなければ…。年末年始のお仕事一丁ですね。年の瀬もおしせまって参りました。まだ、今年のblogを終わらせる気はありませんので、もう少々お付き合いください。

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【徒然】どうにかこうにか…ラストスパート


ここのところ天気がよくて、とくに昨日の土曜日などは、天が高すぎるほどの蒼さで、すがすがしい気分満開でした。ただ、卒論の提出もいよいよ20日の火曜日に迫ってきましたので、今日はスクランブル出勤です。でも、せっかくの青空ですので、ちょっと5号館の周りを散歩してきました。

img_5445総合体育館前の星を仰ぐ青年像も、空の蒼さを全身に浴びているようです。ふと思いついて、7号館の屋上に上がってみました。7号館は体育学部の先生方の研究室がある棟で、ここからは富士山や丹沢の眺めが素晴らしいはず…。なにせこの天気!朝から富士山もきれいに見えていましたからね。

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いや~、予想通りでしたね。1号館や3号館から眺める風景とはひと味違っています。富士山の左側に見える団地は、秦野市の下大槻団地です。

さらにここからの眺めであっ!と思ったもの。本学の武道館と武道館の門です。武道館の門が、東京の水天宮が建て替えられる際に贈られたことは以前に述べたとおりです。本学の創設者のひとりで、福岡は久留米藩の藩主有馬家の末裔で、戦前に農林大臣を務めた有馬頼寧との関係によるものでした。水天宮の本社は久留米で、有馬家は水天宮の代々宮司でもありました。そう言えば、もうすぐ最後のG1レース、有馬記念ですね。有馬記念の有馬は、戦後に競馬の復興に尽力した有馬頼寧を記念したものです。

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春が来たら、武道館の門を彩る桜の眺めは絶景でしょう。また、その時期には桜の便りを御届けしたいと思います。

さて、肝心の卒論ですが、1枚目が金曜日、2枚目が土曜日の写真です。

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やっぱり女性陣の方が地道にやるからでしょうかね。土曜日は男子学生だけです。でも、一緒に教えあっている風景はなかなか微笑ましいですね。と、いっても実はExcelの表の作り方を聞いているところでした。今さらなんて言わないでくださいね。やっぱり、その場でないと人間ってなかなかやらないもので…。でも、そうした反省から、来年度のゼミ生にはWordやExcelの使い方から指導でしています。それにしてもWordは相変わらず使いづらいですね。縦書きの日本文でルビやインデントを多用するとなると、本当にそう感じざるを得ません。リボンなど、見た目は大きく変えながら、肝心の表現力はまったく進歩していませんからね。もっとも、一太郎も、例えばルビは文字の両方につけられるとか、フォントの大きさに差をつけるときに、ポイントなどで個別に指定するのではなく、基準のフォントに対して、相対的に○ポイント下げ、あるいは○%下げと言った形で指定できるといいのですが…。って、要求が高すぎですかね。

今日も実はスクランブル出勤を覚悟していたのですが、どうやら目途がたったようです。後は、ちゃんと提出してくれるのを待つだけです。提出しましたの連絡が来るまではまだ気を緩めるわけにはいきません。それにしても早く髪を切りたいものです(^_^;)

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京都タワービル改築論争?!


偶然ですが、HORIEMON.COMのニュースキュレーションをみていたら、News Picsのサイトに「京都タワービル、一新へ 訪日客増、駅と街の「参道」に」という記事が出ていました。堀江さん自体は「京都にタワーはいらない」というスタンスのようですが、この事業にも、京都タワーそのものにもさまざまな意見があって面白いですね。京都タワーは1964年、東京オリンピックの時にオープンしていますが、その当時、それこそすさまじい景観論争が巻き起こったことは、今ではすっかり、過去の話になってしまいました。今では肯定派の方が多いそうです。でも、やはり堀江さんのように、反対の立場を取る人もいて、そうした意見もまた、貴重だと思います。ただ中には「京都タワーには物語がないのである」とひと言で、わかったようなコメントがありましたので、ちょっと、以下のような文章を投稿してみました。

京都タワーの構造設計をしたのが、京都大工学部の棚橋諒教授という話は【関西の議論】に出ていますが、設計したのは、元逓信省の設計士で、東海大学の創立メンバーのひとりでもあった山田守教授です。ここが郵便局の跡地というのもそうした関係があります。建築する際の景観論争のすさまじさはまさに歴史的です。ちなみに山田は近代建築の一派、分離派建築会のメンバーでもあります。近代建築が専門で、東海大学の設計も彼がやっていて、やはり近代的?!な建造物に溢れています。東海大学湘南キャンパスの3号館は、10階建ての建物で、日本で初めての円形エレベータと螺旋状の通路があって、その頂上には京都タワーと同じ塔を建てる予定でした。残念ながら実現しておりませんが、そのかわり東海大学熊本キャンパスで実現されています。このタワーへの思い入れは、山田にとって相当なものだったようです。現在、東海大学では5号館で、京都タワーを載せる予定だった3号館の石膏模型が展示されています。なお、山田は日本武道館の設計も手がけています。近代建築のパイオニアであった山田が、こうした伝統的な建造物を手がけること自体興味深いです。また、京都タワーは円形部分だけで支えている構造で、棚橋教授の構造設計もすごいなと思います。
周辺情報ですが、物語がないのではなくて、知らないだけ、伝えられていないだけなのですね。歴史の貧困を感じます。

「物語」はその建造物と、それぞれの個人の中にあるのではないかと思います。そこに「面白い話がない」ということで「物語がない」というのなら、それこそ歴史の貧困だと思います。どれだけ探ってみたのですか?と。それを観光業界の方がいうとなると、ますます日本の観光業って、やはり欧米の「観光学」を核にした「sight-seeing.」とは違うのかなぁと思ってしまいます。まぁ~本学にかかわる事でもあるので、ちょっと投稿させてもらった次第ですね。ついでですから、ここに出てくる京都タワーが乗った、湘南キャンパス3号館の設計模型を載せておきますね。以前にも少し紹介しましたが、学園史資料センターの展示会「先駆けであること」で展示しています。

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いかがでしょう?立派に京都タワーでしょう。ついでにこの展示の解説も載せておきましょう。気持ちが伝わってきます。

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別に自慢しているわけではありません。だって、そんなにかっこいいとは私自身も思っているわけではないですから(^_^;)それにしても、当時は、屋上を駐車場に使用としたとか、斬新すぎます。螺旋を上り下りするわけですからね。現在では、この螺旋部分はすべて柵で覆われています。高いビルですからね。

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【徒然】馬場が鹿を見た…(゚ロ゚)


今日は土曜日、とくに授業はないのですが、卒業論文の締切りが10日後ですので、スクランブル出勤です。教育開発研究センターの共同研究室に缶詰にしています。今日も帰りが遅くなりそうです。

ということで、いつもの通り、東名高速道路の側道を通って、大学に向かっていたところ、伊勢原市の辻内ですか。ちょうど東名の側道から国道246号線に合流する場所の手前、あの角を左に曲がれば246と、思ったところ、何か大きな生きものが疾走しているではないですか!実はこの前に、前を走っている車を横切ったのです。慌てて車を停めて見てみると…

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うぉおぉおぉぁ~なんと!鹿さんではないですか!!なぜこんなところに?どこから来たの?その先は行き止まりの筈だけれど(自信はないですが)、どこに行くの?

このところ、熊やら猿やらが人里の民家におりてきて、というニュースをよく見かけましたが、まさかこんなところで見かけるとは…。本当にびっくりでした!!!しかも…

馬場が鹿を見たわけですから、略すと…、もうこれ以上は言いますまい(^_^;)

それよりも学生共よ、励めよ!

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【徒然】クリスマスイルミネーション


12月の声を聴くと、校内の木々もよりいっそう彩りを増してきました。青空の下では,本当にまぶしいほどです。

img_5380img_5388右側は”恋人通り”と呼ばれる道で、この先には金目門があって、校外に出ることができます。”かなめもん”ですよ。”きんめもん”じゃないですからね(^_^)でも、普通は”きんめ”と呼びたくなりますね。金目、正確には北金目(きたかなめ)ですが、これは大学のある地名です。まぁ~普通は”金目鯛”の”きんめ”ですよね。などとくだらないことを言ってしまいました。もっとも、”恋人通り”と言っても、そうそう連れ添って歩いているようには見えませんがね。

さて、校内のほぼ中央にある噴水池で、今年もクリスマスのイルミネーションが始まりました。11月28日の月曜日が点灯式でした。それにしても、ハロウィンの喧噪が終わったら、すぐにクリスマスです。時間の流れが速いと言うよりも商魂たくましいと言った方がいいですかね。ハロウィンの喧噪も近年のことですよね。ちょうど2000年頃、代々木キャンパスの資料室に通っていた頃です。帰り道、代々木上原の駅に向かう道すがら、ここは外国の方も多く住んでいらっしゃるのですが、夕暮れの中を魔女の衣装を着たお母さんに連れられた小さな子どもたちが、それぞれ仮装してお菓子をもらって歩く姿はそれはそれはかわいいものでした。日本でも盆踊で大騒ぎすることはありませんよね。

ということで、今年のクリスマスイルミネーションです。まずは昼の風景と夜の情景。

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学生が写真を撮っているのは当たり前ですが、結構、近所の方でしょうか?家族でいらっしゃる方も多いようです。仲むつまじいご高齢の方もよく見かけます。ハートの間から顔をのぞかせて記念撮影です。

その他の角度から見た風景も紹介しましょうか。

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ツリーにハートはいいとしても、フラミンゴにイルカにクラゲに熱帯魚ですか…。まったく、センスがないんだか、悪いんだか…(^_^;)

何にしても、一足早く、メリークリスマスです!

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切羽詰まる


「切羽」とは、刀の鍔(つば)の表と裏、柄(つか-刀を握る部分ですね)と鞘(さや)にあたる部分に差し込む板金のことです。だいたい楕円形で、中ほどに刀身を貫くための孔をあけています。この「切羽」に詰まってしまえば、刀を抜くことができない。だから「切羽詰まる」なのですね。

ということで、本学の卒業論文も切羽詰まってきました。12月は師走、師が走る季節なのですが、どちらかというと学生たちの方が追い込みのラストランですね。今年のゼミ生は5人。内容は…

近世後期の浪人についての研究。浪人といえば、辞書を引いても基本的には近世前期に敗戦や改易で仕官先を失ったことしかでてきません。近世後期にはねだりがましき存在として迷惑な存在である反面、農村では剣術を教えてくれる先生として雇ったりします。さて、この時期の浪人とは…。

鹿児島藩(薩摩藩)島津家の分家「都城」の研究。「都城」が管理する「領地」は3万石あって、実質上は支藩なのですが、幕府から正式に藩とは認められていません。萩藩(長州藩)の岩国や秋田藩の角館(これは5000石程度なのですが)など、そうした事例は多いのですが、ではさて、それは何なのか?その実態は?ということで、藩社会論や藩世界論といった近年の研究に一石を投じる…ことができるかも…です。

在郷町佐原(千葉県)の研究。在郷町とは、在方町ともいって、行政上は幕府から「村」として把握されているのだけれど、商業などがさかんで実質的には「町」と同じようになったところです。佐原はそういった意味では大在郷町で、常店と六斎市をめぐる内部の争論などおもしろいですね。

鎌倉の近世「都市」としての成立と名所化に関する研究。中世では鎌倉は明らかに「都市」として考えられているのですが、江戸時代になると、それぞれ「村」として把握されます。中世の都市としての鎌倉はそのまま近世都市としての鎌倉ではないのです。ある時点から鎌倉は近世的な「都市」として歩み始めるのではないか。佐原とはまた別の意味で興味深いです。

日野宿役人の佐藤彦五郎についての研究。彦五郎は、天然理心流の達人であって、近藤や土方などとも親しく、新撰組を支えた人物の一人です。地域社会における彦五郎の中間層として役割と、新撰組との関係についてまとめています。

私の担当は江戸時代後期のはずだったのですが、近世のはじめの方の卒論が3名です。ま、だから私も頑張らなければなりません。これは12月に入ってからのある日のゼミの風景です。

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ここは教育開発研究センターの共同研究室です。ただいま本当に追い込みの真っ最中です。で、先のblogでも書きましたように、願掛けで、全員が提出するまで髪を切らないと決めたのですが、それにしてもずいぶんと伸びてきました。まだ2週間以上ありますね。

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こうしてみると、白髪も増えました。ただ、さすがに髪が長くて、パソコン仕事や校正作業などでは邪魔になってきましたので、自分の仕事の際には髪の毛を結んでいます。額もずいぶんと広くなったものです(^_^;)先日、このままで事務室に行ってしまって、「先生、頭、どうしたんですか?」と事務の方に言われてしまいました。外していくのをすっかり忘れていました…。

大五郎…みたいですねとよく言われますが、子連れ狼の大五郎がわかる方もある年齢以上になってしまいました。中村吉右衛門さんの鬼平犯科帳も昨日が最終回でした。だから、わかってしまったあなたも…ですね(^_^)v

ところで、私も今、論文「元禄大地震と宝永富士山噴火」の続編、その2を書いています。小田原藩領全域の年貢米永収納量から復興の状況をみた前稿に続いて、今回は、平野部の米作地帯(3か村)、台地や山間部の畑作地帯(2か村)、田畑半々の中間地帯(2か村)に分けて、年貢割付状の分析から各村の回復状況とその特徴をみていきます。本当に細かい作業です。ま、私の方が書き上げるのは早いようですが、何はともあれ、あとひと頑張り、ふた頑張りですよ!諸君!!

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【徒然】小室山から宝永山


またまた富士山の情報です。2014年度から本学文明研究所のプロジェクト研究「震災復興と文明」の研究員となったことから、元禄16年(1703)の小田原大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火について、本格的に研究を始めました。史料調査はもちろんのこと、文明研究所の研究会で報告したり、古文書講読の講座で題材として取り上げたり、あるいは講演活動など、いろいろとやっていると不思議とそうした関係のものに出会ったりします。今日は、本当にたまたまですが、伊豆高原に泊りに来ているのですが、途中、ふと思いついて、小室山公園に立ち寄りました。ここは山頂まで一人乗りのリフトで登ります。で、山頂に登ってみると…。何と富士山の、それも宝永噴火の跡、宝永山がくっきり見えるではないですか。

img_0025昨日、本学から見た眺めに比べるとさすがに雪が少ないようです。それだけに噴火の跡の大きな穴がくっきりと見えます。ある意味、得をしました(^_^)vこれほどくっきりした宝永山が撮影できたのは初めてでしたから。

さらに、山頂にある「小室神社」の由来がまた驚きでした。

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この立て看によると、この神社は、元禄大地震で壊滅的な被害を受けた西相模から伊豆にかけての小田原領の鎮守として、当時の藩主であった大久保忠増によって勧請されたというのです。元禄大地震では、天守はもとより、本丸、二の丸から侍屋敷や足軽長屋などほとんどが倒潰し、城下も大火に見舞われます。この時、小田原藩が作成した覚書によれば侍中(御番帳入とも呼ばれる正式の士分格の武士です)の死者が34人、御番帳外の死者が27人、又者の死者が75人、城下の死者が651人、西相模の藩領村々の死者が634人、伊豆藩領の死者が772人となっています(小田原市立図書館所蔵文書)。城下の死者の多さは火事によるものですが、伊豆の死者は大きな津波に襲われたことによるものでした。

忠増は、復興が一段落した宝永2年(1705)、小室山に災害鎮護の神として愛宕大権現を勧請し、さらに海難守護神の金毘羅神、火の神である火産霊神もあわせて奉祭したとあります。宝永2年は、天守が再建された年で、忠増は幕府老中に就任します。それからわずか2年後に、富士山が噴火するのです。ただし、大量に吹き上げられた火山灰は、折からの強い偏西風に乗って東の方面に流れます。だから、伊豆方面には被害がなかったのですが、建立されたばかりの小室神社からは、火を噴く富士の姿を真っ直ぐに眺められたはずです。それもまた歴史の一面です。

このような遺跡には、その時代の、あるいは後年の人のさまざまな思いが詰まっています。文字に刻まれた歴史だけではなく、そうした歴史も拾い集めて描いていく必要がある。学界で史蹟論が論じられたのは、確か1990年代のことからだと思いますが、また、一つ新たな視点を得ることができた1日でした。

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【徒然】富士の高嶺に冠雪せり。大山も箱根もなほ…。


昨日の雪が上そのように晴れ渡っています。こんな日は、遠くまで澄み切っていて、実際、通学の車中からも富士山の眺めが一際でした。1時限目は空き時間なので、せっかくですから、いつものように1号館の屋上と3号館の9階、10階あたりから写真を撮ることにしました。定点観測の意味もあります。初冠雪の時とは当然異なっていて、富士山はもうほぼ全面的に雪に覆われています。

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富士山だけではありません。今日は大山をはじめとする丹沢山系も、箱根の山々も見事に雪を被っています。欅に銀杏にと、秋の色を濃く深くしたキャンパスには、その白さとのコントラストが見事です。まずは1号館からの風景です。

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1号館の裏の大銀杏もほぼ色づきました。

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3号館からの風景です。高いところから眺めてみると、富士山をバックに、色づくキャンパスが一望できます。

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中央通りの欅の木もずいぶんとさみしくなってきました。その分、12月が近づいて、噴水池前では、クリスマスイルミネーションの準備が着々と進んでいました。来週の月曜日、28日には点灯式が行なわれるそうです。

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今は本当にしんどい季節で、来月になれば、先生はまたさらに走り出さなければなりません。一服の清涼剤ですね。

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【徒然】集団登校に雪の降りしきる…。


2016年11月25日の木曜日。この日はある意味、歴史的な日になりました。64年ぶりに11月に雪が降り、観測史上、初めて11月に積雪があったとのことです。ここで観測史上とは、気象観測が始まった年ということで、1876(明治9)年以降初めてということです。もっとも、気象観測が始まるのは、地方によって違いますから、1876年というのは、その中で最も早い所、すなわち東京の…ということになります。それにしても、だから、寒かったですねぇ。朝、ゴミを出しに行くと、集団登校の小学生たちにかなり早めの雪が降りしきっていました。

img_5115差したる傘も雨とは異なりぬ…という感じでしょうか。それはそれで、何だかほほえましい風景ですね。厚木では、とくに我が家の周りは高台ですから、結構、積もりましたね。

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これはまだ、積もる前の写真です。この後、車の屋根には、3~4cmほど積もったようです。

そして今日は、ユニコムプラザさがみはらで開催していた古文書講座「古文書で辿る江戸時代の歴史2」の最終日でした。またまたおなじみの、元禄16年(1703)の小田原大地震と、宝永4年(1707)の富士山噴火に関する古文書を読んで、被害の大きさを実感します。そこにある史実をひもときながら、歴史の森に分け入っていく。古文書を読む面白さ、そして歴史のダイナミズムです。

で、これはよく話すのですが、雪は例え3m積もったっていつかは溶ける。だけど、砂は例え10cmでも溶けることはないんだと…。もっとも、これは南足柄市郷土資料館に勤めている、南足柄市編纂事業の頃からの友人である飯岡さんからの受け売りですが…(^_^;)でも、こうやって実際に雪が降って積もると、実感させられます。

積もった砂(火山灰)が多ければ多いほど、処理に困ります。これには天地返しという方法が使われたといわれています。要は、溝を深く掘って砂を埋めるのですが、埋めた上には土を盛ります。その土は、隣にやはり溝を掘ってかけていきます。その繰り返しです。そうすると、その後はこんな感じになります。

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これは6月に訪ねた秦野市横野の山王原遺跡の発掘跡です。先にも紹介しましたが、黒い砂の跡がしっかりと刻まれていますね。2枚目の写真は、地層を表したものです。弥生時代の上には直接、江戸時代の地層が来て、奈良時代、平安時代、鎌倉、南北朝、室町、戦国と、古代から中世の地層がすっかり抜けております。だから、ここが天地返しをした跡なのですね。史跡は雄弁です。

時ならぬ11月の雪は、地球温暖化の影響だとか…。自然は不思議です。でも、何だかわかるような気がします。江戸時代の第3間氷期にあたる1780(安永9)年~1880(明治13)の中でも、文化・文政期は(1804~1830)は、夏は酷暑だけれど、冬は厳冬だったといわれています。もちろん、この時代とは地球環境は大きく変わっています。だからこそ、歴史気候学的なことももっと調べてみたいと思っています。

これは、22日に撮影した東京学芸大学の銀杏です。東京の銀杏はすっかり色付いていて、銀杏のじゅうたんがまぶしいほどです。こんな季節の移ろいをずっと守っていきたいものです。

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