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忘れられた歴史家 #勝田孫弥 - #明治維新史 研究に寄せて-

 2018年は、明治維新から150年目にあたる節目の年であった。日本の各地では、政府の主導で「明治150年」を記念する催しや展示会等が開催された。この日本史の大きな転換期である明治維新に関連して、ぜひ紹介したい本学園の関係者がいる。現在の付属市原望洋高校の前身である精華女子高等学校の初代校長勝田孫弥(かつたまごや)である。
 付属市原望洋高校は、1889(明治22)年11月7日、東京市麹町区上二番町(現・東京都千代田区二番町)に開校した女子独立学校を嚆矢とする。初代校長は加藤俊子で、翌1890年に東京府南豊島郡角筈村(現・東京都新宿区西新宿)に新校舎を開校した。1889(明治32)年には俊子の長男勝弥と親交があり、無教会主義を唱えたキリスト教思想家の内村鑑三が校長となった。しかしながら、3代目として勝弥が校長を継いだあと、経営不振に陥る。これを引き継いで1902(明治35)年に校名を精華高等女学校に改称し、学校法人精華学園初代理事長・校長として経営を立て直したのが勝田孫弥であった。

精華高等女学校は、戦後の学制改革で精華女子高等学校となった。西新宿という格好の場所にあったためであろう。吉永小百合、美空ひばり、和泉雅子などの著名な女性芸能人が在籍する学校となった。

勝田孫弥の来歴

 勝田孫弥は、1867(慶応3)年8月25日、薩摩藩士勝田新左衛門の長男として薩摩国給黎(きいれ)郡(後の揖宿〔いぶすき〕郡)喜入(きいれ)(現・鹿児島市)に生まれた。世はまさに幕末維新の激動期で、その主役であった薩摩に生を受けたものの、その時代を直に体験したわけではない。しかしながら、孫弥の運命を大きく左右したことは間違いないであろう。
 孫弥は、1885(明治18)年に鹿児島県師範学校中等師範学科を卒業すると、同年に喜入小学校(現・鹿児島市立喜入小学校)に四等訓導(くんどう)として就職、1987年3月には喜入高等小学校訓導に任命されるが、4月に依願退職して上京したと言われている。ただし、この間の経緯については、まだはっきりと確認はできていない。確かなことは、上京した孫弥が私立明治法律学校(現・明治大学)で法律を学んだということである。1890(明治23)年には『帝国議会要論』を著し、女性の参政権を唱えている。ここには後年、女子教育に注力する萌芽がみえよう。

勝田孫弥(1867~1941)

孫弥の明治維新史研究

 孫弥が、明治維新史研究に進むのはこの頃のことと思われる。その成果として、1894(明治27)8月年から95年3月にかけて『西郷隆盛伝』全5冊を刊行した。この題辞を枢密院議長で陸軍大将の山県有朋と陸軍大臣・陸軍大将の大山巌が、題詩を枢密顧問官であった勝安房(海舟)が寄稿している。また、東京帝国大学助教授で歴史学者の三上参次が校閲にあたった。このうち西郷の従兄弟でもあった大山の題辞3枚と勝海舟の題詩が本学に現存している。さらに研究の過程で収集したと思われる大久保一蔵(利通)宛て西郷吉之助(隆盛)書簡(3点)や、幕末の政局を主導した島津久光のもとで、1861(文久元)年に主席家老となり、大久保らの誠忠組(せいちゅうぐみ)を登用したことで知られる喜入摂津(久高)の長文の書簡なども残されている。内容については他の機会にゆずるが、いずれもこの時期の貴重な史料であることに変わりはない。孫弥はまた、1894年1月から7月まで、つまり『西郷隆盛伝』が刊行される直前の日記「天終日程 第三」を残しており、刊行にいたる経緯を垣間みることもできる。
 『西郷隆盛伝』を著した後、孫弥は次に大久保利通の研究に取りかかり、1911(明治44)年に同文館から『大久保利通伝』全3冊を刊行した。この過程で孫弥は、大久保利通の次男で文部大臣、農商務大臣、外務大臣、内大臣などの要職を務めた牧野伸顕(のぶあき)に対し、「大久保利通日記」をはじめとする史料の閲覧や貸出しを依頼したことなどに関する書簡が多数現存している。牧野だけではなく、大久保とともに幕末から維新にかけて活躍し、政府の要職を歴任した吉井友実とその長男幸蔵、海軍中将、貴族院議員などを務めた肝付兼行などの書簡も残されており、薩摩藩の出身者や大久保の関係者と積極的にコンタクトを取っていたことが確認できる。余談ではあるが、吉井友実の孫で幸蔵の息子が、「命短し恋せよ乙女」で始まる「ゴンドラの唄」などで有名な歌人の吉井勇である。勇は、若い頃、孫弥の漢学塾に通っていたという(『吉井勇歌集-吉井勇自選』岩波書店、1952年)。孫弥が漢学塾を主宰していたということ、こうした旧薩摩藩の子孫に交流があったことが確認できよう。
 『西郷隆盛伝』『大久保利通伝』のいずれも、それぞれに関する日本で初めての人物伝であった。ここでひとつ重要なことは、例えば吉井友実など幕末維新期に活躍した薩摩藩士と直接にコンタクトをとっていることである。その子供らを含めて、幕末維新に関するさまざまな話を実際に聞き取った可能性は高い。であるならば、孫弥の著書は今一度読み直してみる価値があるのではないだろうか。いずれにしても、こうした研究の成果が認められてのことであろう、1911(明治44)、文部省内に維新史料編纂会(1949年に東京大学史料編纂所に吸収)が設置されると編纂官に任命され、1931(昭和6)年に退官した後も同会委員を務めている。

大久保一蔵宛西郷吉之助書簡

膨大な資料群

 ここに紹介した史料は、実は勝田家に伝来した史料の一部に過ぎない。東海大学の付属校になるまでの経緯はもちろん、校史として重要な史資料が勝田家には膨大に残されているが、そのなかでも孫弥の史料は異彩を放つものである。史料の調査・収集にあたっていると、時にこうした史料に遭遇することもままある。勝田孫弥の史料は、一校史の史料を超えて、まさに日本史の重要史料であることは間違いないが、大学史に携わるアーキビストは、こうした史資料にも適切に対応処理し、公開していくことが望まれよう。それはまた、勝田孫弥のような歴史に埋もれた再評価していく試みでもある。

勝田孫弥宛の書簡群

※今回の歴史コラムは、『東海大学学園史ニュース』第13号(学校法人東海大学学園史資料センター、2019年3月)に収録した「忘れられた歴史家、勝田孫弥-付属市原望洋高等学校の軌跡から-」に加筆・修正を施したものです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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