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小田原藩士230年の記録 「吉岡家代々由緒書」その1

皆さんのご支援を受けて翻刻作業をしてきた「吉岡由緒書」については、4月を目途に編集を続けています。その解説を書くためにも、小田原藩と藩主大久保家そして吉岡家と「吉岡由緒書」などについて少しずつここのサイトでまとめていこうかと思っています。なお、史料の表題には、第4巻に「吉岡由緒書」とありますので、一般的にはそのまま「吉岡由緒書」と呼ばれていますが、刊行するにあたっては、代々の家譜であるということで、「吉岡家代々由緒書」と称していきたいと思っています。よろしくお願いします。

現在、翻刻を目指している「吉岡由緒書」は、単に吉岡家の由緒を書き綴ったものではない。吉岡家初代の実疑(さねよし)が大久保家に仕官した寛永19年(1642)から廃藩置県後の明治5年(1872)年まで、実に230年にわたる同家の一大家譜である。小田原藩では「御家中先祖並親類書」という各家の履歴および親類縁者を書き上げた報告書を提出させている。全部が残っているわけではないが、現在のところ、現在のところ、享保8年(1723)、享保19年(1734)、安永4年(1857)、天保13年(1842)、文久2年(1862)にまとめたことが知られており、その中で現存するものの大部分については、小田原市立図書館の『郷土資料集成』の一環として刊行されている。

『御家中先祖並親類書』

「御家中先祖並親類書」は当時の当主を中心に、父や祖父の代、嫡子が出仕している場合は嫡子も含めてそれぞれの業績や賞罰を書き上げたものである。「吉岡家代々由緒書」は,これを初代に溯って集大成したものであるといえよう。次の表は、吉岡家代々の当主についてまとめたものである。

小田原藩士吉岡家8代一覧表

「吉岡家代々由緒書」は、吉岡家の7代目当主吉岡信之がまとめはじめ、8代目当主の信徳が父の後を書き継いだものである。信之は、文化10年(1813)11月に生まれ、天保5年(1834)5月21日に20歳で家督を継ぐと、文久2年(1862)3月4日、49歳で信徳に家督を譲って隠居した後、明治7年(1874)6月2日、62歳で亡くなった。「吉岡家代々由緒書」は、明治の記述が、1月から「明治元年」で始まっているので、明治に入ってから書き始められたものとみて間違いないであろう。これは、慶応4年(1868)9月8日に元号を明治と改めた際に、「一世一元」の制が定められたことから、この年は1月に溯って「明治」とすることとされた。したがって、1月が明治元年から始まっている文献は、この令が出されて以降のものであることがわかる。

信之は、江戸の千葉葛野について国学と和歌を学び、文政12年(1829)には、17歳で藩校諸稽古所(集成館)の小幹事に抜擢されるなど(後、少参事)、若くして秀才の誉れが高かった。その際を活かし、国学・和歌を通じて藩士の子弟教育に献身しただけでなく、自ら水善舎という家塾を開いて、武士だけでなく、町人にも国学・和歌を教えたといわれている。そのため藩校諸稽古所では、儒学の中垣謙斎に対して国学の吉岡信之として双璧をなしたという。そうした素養が、自らの家系を「由緒書」としてまとめることを選択させたのであろう。「吉岡家代々由緒書」をまとめるにあたっても、文書が残るものは、これを書き写し、親類縁者はもとより、さまざまな人の証言を得て、つけ加えたりしている。このような信之の思索にかかるものは、2行割りで書かれている。なるべく歴史を正確に復元した上で、自らの見解を述べるというスタイルは、「吉岡家代々由緒書」の歴史史料としての質を担保するものであるといえよう。

内容については、順次、紹介していくが、とくに幕末維新については、跡を継いだ信之が実際に京都御所守衛のために出役して、禁門の変に遭遇したり、天狗党を追って福井まで遠征したりしているので、その間の著述はリアルで非常に興味深いことを先に述べておこう。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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