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極私的戦後日本近世研究史 私の経歴から

twitterで「1980年代から近世史研究をやっている身からすると、ぶっちゃけ唯物史観の方が楽なんですよ。定まった手続きで定まった形式で書いて、定型で批判すればよかったから。突然自前の研究スタイルが求められるようになった80年代半ば以降の試行錯誤の方が辛かったわ。」と呟いたら、なぜか100件を超えるRetweetがあり、250件近くのいいねがついていました。正直なところ、私のTweetなんてだいたい決まった人が反応してくれることが多くて、こんなに数が増えることはめったにありません。私なりのバズリです(^^;)

まぁ~せっかくですから、私の研究歴から「極私的な戦後日本近世史」の「研究史」についてまとめておこうかなと思っています。といっても、これは2010年7月の『関東近世史研究』第68号に「神奈川の自治体史編纂と近世史研究」として掲載されたものを「ですます」にして、抜粋・修正したものです。ですから記述はそこで止まっています。

先に言い訳しておきますが、本当に超私的な経験から来たまとめになりますので、異論も多いかと思います。それはそれとして提起することにも意味があるだろうということで、記録のために書いておきます。

簡単に自己紹介をしておきますと、私は1980年代のはじめから大学院生として研究をスタートさせ、90年代にかけて、まさに自治体編纂隆盛の頃に、その成果を受ながら研究を進めてきました。学部生時代の益子町史(栃木県)から始まって、神奈川県の南足柄市史、寒川町史、小田原市史、真鶴町史、大磯町史、大井町史、新横須賀市史、そして龍ケ崎市史(茨城県)と9市町の自治体史編纂事業に調査員、執筆員、専門委員などの立場でかかわってきました。とくに史料調査や整理、筆写といった現場の先端でかかわってきたことが特徴でした。したがって、ここでのお話は、この時期を中心とした私の経験と、同時期に常任委員を務めていた関東近世史研究会での経験を基本として考えていくということをはじめにお断りしておきたいと思います。

現在の研究史の中では、1980年代が大きな転機であったと指摘されているようですし、少なくとも私自身はそのように理解しています。それはどのような変化であったのでしょうか。
戦後の近世史研究にとって大きな画期となったが、安良城盛昭氏の「太閤検地論」でした。私自身が学部生の頃、近世史を勉強しはじめた時にまず学んだのが太閤検地論争であったということもありますが、当時もまだ、戦後歴史学の出発点として、太閤検地論争のもつ意義には大きいものがありました。それから研究史的には、佐々木潤之介氏の「軍役論」から「幕藩制構造論」、そして「世直し状況論」と進んでいくわけですが、いずれの場合も小農経営のあり方と農民層分解がやはり基本的なテーマであったといえるでしょう。私自身の本格的な研究の出発点は、世直し状況論の最後の方であったと思っています。そういった意味でも、だいたいにおいて1950年代から70年代にいたる時期というのは、基本的にはカール・マルクスの唯物史観にもとづく社会構成体論というのが、まだまだま研究の主流であったといえるかと思います。

 そうした流れが大きく変わっていくのが1970年代の後半頃からで、先の世直し状況論に対しては、民衆に対する国家統治の視点の欠落ということで、「幕藩制国家論」が提起されてきます。ところが、その国家論のとらえ方が論者によってかなりずれていたように感じています。その一つの転機となったのが、高木昭作氏の「役論」に関する研究で、その端緒としての国奉行に関する論文が出たのが1976年のことでした。また、1974年に『歴史評論』誌上で行なわれた永原慶二氏と山口啓二氏の対談というのは象徴的でした。ここで山口氏が提起された古代から続く「国郡制の枠組み」というのは、新たな国家論を展開する上での一つのキーワードとなるもので、佐々木氏らが提唱していた社会構成体論を基礎とした幕藩制国家論とは明らかに視点を異にしたものでした。
また、私自身がその後小田原藩で研究テーマの一つとする「中間支配機構論」にしても、久留島浩氏の郡中惣代に関する論文が1978年でしたし、藪田貫氏の「畿内支配国論」や国訴を題材にした「代表委任制」の問題なども1980年のはじめに提起されています。

関東近世史研究会もまた、こうした研究史の流れを一方で意識しながら独自に研究が進められました。例えば伊藤好一氏の「江戸地廻り経済圏」だとか、北関東の「農村荒廃論」、それから享保期や寛政期の諸問題、旗本相給論など、関東の地域的特質を考えていくような研究です。ただし、その頃の研究潮流からすると、やはり役論と国郡制の枠組み論の影響は大きくて、1982年には「関東の領域支配と民衆」というテーマで大会がもたれ、以後3年間にわたって、岩田光太郎氏や澤登寛聡氏、小松修氏などが武蔵国や上野国の「領」の問題を積極的に取り上げられていくことになるります。
私たちの世代はその後ということになりますが、ここではいわゆる上の世代の「領」域論に対して、そのアンチテーゼとして、「地域」をぶつけてみようということになったかと記憶しています。役論―国郡制の枠組み論―「領」域論の上からの編成的な側面に対して、もっと下からの、それこそ地域に生きる人びとに具体的に焦点をあてたところからくみ上げていこうということで議論を積み重ねていこうという試みでした。その試みの一端が1985年からの「関東の地域と民衆」で、ここで明確に「地域論」というのを意識することになりました。ただし、概念的にも理論的にも「地域論」の意味するところが明確であったわけではありません。そもそも「地域」という概念自体が真新しいわけでもなく、当時では中央を対局に置いた地方史に対して、「中央」そのものを相対化しうるような、独自の分析概念を提起できる手段としての「地域」論への模索があったように思われます。
これらに関連して忘れてならないのが、当時の「アナール学派」を中心とする「社会史」の影響です。関東近世史研究会の勉強会でも、マルサスの人口論などの数量経済史から、ミッシェル・フーコー、クロード・レヴィーストロース、フィリップ・アリエス、カール・ポランニーなどが議論の対象となってくるが1990年代にかけてのことでした。

 また、1985年には、ちょうど塚田孝氏が身分制の研究から重層と複合の問題を提起されていましたし、翌86年には、深谷克己氏が「取立てと御救い」を発表されています。深谷氏の提起それ自体には、役論に対する深谷氏の批判が込められていたのですが、支配と被支配の対立する側面だけをみるのではなく、その相互依存的な構造に着目するという視点が注目されていきました。白川部達夫氏による有合質地慣行の論文も同年のことでしたし、いわゆる「共同体美化論」といわれるような共同体への見直しが論議されるのもこの頃からのことでした。そしてこの翌年、1987年に大友一雄氏が献上役に関する論文を発表することになります。これも一面では役論に関する論文ではありましたが、そこから「由緒論」や「儀礼論」が大きく発展していったという意味で、それこそ画期的なものでした。
 関東近世史研究会ではこの頃も地域史にこだわっていて、試験的に山間部の事例を検討したり、海浜部―漁業の問題を取り上げたりと、試行錯誤が続きますが、その当時の大会趣旨文などをみても、やはり「地域」の概念が固まっていたわけでありません。
ただ、そうした中でも今までの地域論には支配や権力の問題がかけているということで、1990年に入る頃には、「地域と権力」を対置して、具体的に海防とか、軍都としての江戸とかいった問題を取り上げていくのですが、ここでも役論に対するアンチテーゼとして、「役の捉え返し」といったことがさかんにいわれたり、御国恩思想に注目が集まりました。

 これらのいっぽうで、これも「社会史的研究」の影響の一環ともいえるのですが、高橋敏氏による村落の生活文化史研究とか、青木美智男氏による化政期における文化史の研究、羽賀祥二氏の「史蹟論」など、「生活文化論」や「文化史論」、「文化構造論」と呼ばれるような研究成果が出始めるのも1990年初頭のことでした。90年代にはさらに「地域社会論」といった言説が新たに出てきたりするのですが、研究史的にみれば、深谷氏の「百姓成立」論が93年でしたし、その後、「公共性」の問題や「身分周縁論」などが94頃からさかんに議論されるようになりました。そして1995年と96年の東京大学の史学会では、「社会集団」、「由緒と言説」、そして「近世の社会権力」といったものが取り上げられて、由緒論や中間支配機構などをはじめとするさまざまなこの間の潮流に対して、一つの総括が行われるようになっていったのでした。

 正直に告白すると、1999年に小田原市史の通史編、寒川町史の通史編、龍ケ崎市史の通史編、大磯町史の資料編の2巻目を出した頃から私自身は、東海大学の資料室(現・学園史資料センター)で大学史を新たに担当するようになったこともあって、次第に近世史の研究そのものからは遠ざかっていくことになります。ただ、この頃、すなわち1990年代の終り頃からは、やはり「国民国家論」というのがさかんに議論されるようになってきていて、それ自体は近代国家の問題であったが、同時にプレ・モダン、アーリー・モダンとしての近世社会といった言説もまた、重要なの意味を持っていたように思われます。
 2000年以降の研究でいえば、関東近世史研究会では「文化構造論」や「生活文化史」、あるいは「江戸地域論」といった研究に次第にシフトしていったように思います。ただ、2000年代で注目すべきはやはり、「藩社会論」「藩領社会論」「藩国家論」「藩世界論」などと呼ばれる藩研究に関する新たな研究潮流であろうと思います。それぞれの意味するところ、概念規定という面ではいずれもまだはっきりしないし、まとまっていないように思えましたが、90年代までの藩研究の方法論が定式化していて、かなり下火であったことを考えれば、大きな変化でした。

 それぞれの時期の「キーワード」をもとにまとめているので、かなりおおざっぱな研究史整理になってしまいました。ただ、やはり少なくとも1980年代に一つの大きな画期があったことは確かではなかったかと思われます。その背景として、今一つには研究意識の変化が上げることができます。一例をあげれば、共同体への再評価とか、相互依存の構造といった流れで近世社会の再評価が行なわれたこともその大きな変化の一端でした。
よくいわれるように、戦後日本の歴史学は、「民主化」の達成とそのための「封建遺制」の克服を大きな課題としていて、農村はその元凶の最たるものとしてとらえられていました。だから、いっぽうでそれは地方史研究の大きな発展を招くことにもなるのですが、ともかく農村の中に入って、農村の塵にまみれながら、封建遺制を探って、これを民主化していこうというのが一つのスローガンになっていました。
そもそもマルクス主義唯物史観では、共同体そのものが来たるべき社会主義社会に向けて、克服すべき対象ととらえられていました。その共同体そのものを再評価していこうということで、当然そうした風潮に対する反発も大きかったものの、地域史や社会史の影響の中で、人間存在とそれが所属する集団、共同体との関係の見直しは、避けられない課題となっていきました。いずれにしても、この頃から論点の多様化が進んだことは確かでしたし、それは明らかに研究意識の多様化に根ざしたものでした。

 そうした意識の変化は、当然のことながら背景となる社会そのものの変化によって規定されるものでした。くり返しになりますが、自治体史編纂もまた、社会の影響、とりわけ経済的影響を強く受けやすいことも事実でしょう。1980年代というのは、いわゆるバブル景気の最盛期に向かう時代にあたります。1950年代後半からの高度経済成長は、70年代初頭のオイルショックで一段落を迎えるが、その70年代の後半から80年代にかけての時期は、アメリカの貿易赤字が膨らんで、経済的に非常に厳しい現実に直面していた。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発刊されたのは、1979年のことでした。大きな転機となったのが、1985年のいわゆるプラザ合意でした。
ニューヨークのプラザホテルで行なわれた先進5か国蔵相会議(G5)において、当時のドル高を是正するために為替市場への協調介入が宣言され、これより為替相場は自由変動相場制から管理相場制へと移行する歴史的転換点となったのでした。1982年から政権に就いていた中曽根康弘内閣は、これを受けて86年、87年の2度にわたって内需拡大を基調とした大規模な景気誘導政策を展開していくことなります。その結果、86年から91年におよぶバブル景気を誘発することになりました。低金利政策、円高誘導、公共事業の拡大、国有財産の民間処分などによって土地価格は騰貴し、地上げや土地転がしが横行していく現実の中で、都市の風景も地方の風景も大きく変貌していきました。共同体の再評価というのもこうした現実と無関係ではありませんでした。

先にも述べた戦後の民主化運動は、いっぽうで西洋型の自立した社会の創出、すなわち自立した個による自立的で主体的な社会をめざそうというものでありましたが、この頃の議論では、自立した個が誕生するどころか、個がばらばらになっただけで、人的な紐帯を喪失した社会になってしまったのではないかという反省が述べられたりもしました。そして1991年を境にしたバブル景気の崩壊と、その後のいわゆる「失われた10年」は、社会の変貌をさらに加速度的に大きくしていくことになりました。
2000年代の小泉純一郎内閣による構造改革の功罪については、なお議論の残るところですが、昨今、その後の地方の疲弊や地域社会の崩壊といった問題、さらには来るべき少子高齢化といった問題は、すでに20年、30年前からの課題であって、関東近世史研究会が地域論や文化論にこだわるのも、それを未だに引きずっているのだともいえ、また、新たな局面に来ているのだともいえそうです。実際には、バブル景気の中で検討されていた「地域」と、それが崩壊したときの「地域」には大きな違いがあるでしょうし、「生活」の視点もまた、高度経済成長期やバブル期のそれと、就職の超氷河期を経験した世代とは異なって当然でしょう。そうした意味でもそれぞれの研究は、同じような言説であったとしても、非常に深化していっているのではないかと考えています。

 話を1980年代に戻しますと、バブル景気の頃というのは自治体も比較的余裕があって、それが自治体史編纂の盛況を促した点は否定できないでしょう。もちろん、自治体史編纂の大きなきっかけは周年事業ですが、実際競い合うようにして編纂事業が進められたのが、1980年代の半ばから90年代にかけてのことであったと思います。現実問題として、多くの若い研究者の卵が、何とか食いつなぎながら勉強し、研究する環境を与えられたことも確かでした。また、自治体史では、多くの史料を自治体外のものも含めて調査し、精査して縦横に集中してみることができましたから、そうした意味で研究の質や量の増加をもたらし、研究そのものの精度をあげることにもなりました。

そうした意味でもう一点指摘しておきたいのは、研究スタイルの変化です。1980年代に研究の潮流が大きく変わったこと、大きく広がっていったことについては、先に整理したとおりです。とくに私が本格的に研究を始めた頃、1980年代の半ば以降には、同時に研究の個別分散化ということもさかんにいわれた時期でもありまた。これはマルクス主義歴史学、唯物史観にもとづく社会構成体史を軸とした理論ベースでの議論が後退していくこととも軌を一にしていました。現実問題として、例えば太閤検地論争や世直し状況論のように、皆がいっせいにそれに関する史料を捜して検討するといった研究状況が、次第に後退していったことも事実でした。場合によっては、無理矢理議論の方向で史料を集め、読み込むような論文も存在していまた。論点の広がりは、それだけ多様な史料への着目を可能としましたし、史料から説き起こして、そこから組み立てていくことが必要とされるようになりました。それだけ個人の力量が問われる時代になったともいえます。
それらは結局「理論」と「実証」という2つの車輪をめぐる葛藤の歴史であったともいえるでしょう。問題はそれがどういうスタイルをとるにせよ、切磋琢磨しながら「歴史とは何か」を問い直していく試みは、これからも続いていくのだと思います。ただし、私の場合は実証がやはり主ですが…(^^;)

【追伸】

書き忘れました!実は緒形家からいただいたものがもう一つあって、それは今後の私の活動の大きな鍵となります。31日(水)に発表の予定です。

期待して待て!なんちゃって(^^;)

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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