#青天を衝け 安政将軍継嗣問題&岩瀬忠震の書画

歴史コラム
#青天を衝け 安政将軍継嗣問題&岩瀬忠震の書画

NHK大河ドラマの「青天を衝け」がなかなか好評なようですね。幕末ものはとかく視聴率がとれないと言われていますが、健闘しているようです。大規模なセットはもちろんですが、王道である幕末の政治状況と、現在の埼玉県にあたる武蔵国の一豪農の実態とがうまく二元的に描かれていて、これから両者が本格的に交わっていく。そこに幕末のおもしろさがあると思うのです。さまざまな志士の時代ですね。

4日(日)は13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題ですね。江戸時代には将軍継嗣問題は4代家綱がなくなった後と、この13代家定の2回がクローズアップされます。家定が亡くなったのが安政5年(1858)7月6日で、まさしく幕末動乱の時代へと入って行きます。こちらの図は4年前に作成して、このサイトに載せたものです。

この図は、これまでの説に、ただいま編集しています『増補改訂版 幕末風聞集』の記事を使って作成したものです。どこまで信憑性があるか、ちょっと不安ではありますが、再録しておきます。

水戸の前藩主の徳川斉昭が一橋派なのに甥の讃岐高松藩主松平頼胤が南紀派、尾張藩主の徳川慶勝は一橋派なのに弟の会津藩主松平容保は南紀派と、血縁でも別れています。

また、日米修好通商条約関係では、違勅問題の当事者である井伊直弼が紀州藩の慶福を推す側で、実際に条約に調印した当事者の岩瀬忠震や永井尚志は一橋派に属しています。ここでは単純に開国か攘夷かで分けることも難しいですね。町田明広先生がおっしゃるように、即時攘夷なのか未来攘夷なのかという区分も確かに納得がいきます。なんとも複雑で、この時期の政治状況をうまく表わすこと自体が難しい…。

ついでですから、岩瀬忠震の書画と書をアップしておきます。これはさる茶会に招かれたときに見せていただいたものです。もちろん、撮影許可は取ってあります。

「鷗所」は岩瀬の雅号です。書画にある「辛酉春晩」は文久元年(1861)のことで「春晩」は「晩春」と考えれば3月のことになるでしょう。岩瀬が亡くなったのは、文久元年7月11日のことですから、4か月前、最晩年の作と言えるでしょう。

「梅子雨来梅子熟杜鵑花開杜鵑啼」

「杜鵑」は「とけん」と読み、ほととぎすの漢名になります。旧暦5月に渡来するほととぎすは、現在で言えば6月の梅雨時で、田植えを知らせる渡り鳥とされています。「雨来」はまさにそれを示しています。また、梅が熟すのも6月のことで、だから梅雨なのですね。とすればこの書が書かれたのは旧暦5月、死去の2か月前ということになるでしょうか?

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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