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蛤御門の変?禁門の変?元治甲子戦争?

ただいま、日本近世史基礎演習では、「吉岡由緒書」を使って禁門の変の記事を読んでいます。「吉岡由緒書」は、現在、絶賛?!刊行中の『幕末風聞集 増補改訂版』に続いて刊行予定の史料集です。このサイトでも何回か紹介していますが、小田原藩士吉岡家の7代当主信之(のぶゆき)が、初代の実疑(さねよし)が大久保家に仕官した寛永19年(1642)から廃藩置県後の明治5年(1872)年まで、実に230年にわたる同家の事跡や業績を綴った一大家譜です。

信之の跡を継いだ8代信徳(のぶのり)は、小田原藩が元治元年(1864)に京都守衛の任を命じられたことから、これに同行して上京しています。そこで禁門の変そして天狗党の乱に遭遇するのですが、その記述がまた詳しくて、従来にはみられないよな記述が出てきます。

ところで、この時の長州藩と会津藩・薩摩藩ら御所を警備する藩との戦闘については、「蛤御門の変」とも「禁門の変」とも呼ばれています。御所に入る門には9門あって、その一つが蛤御門でもっとも戦闘が激しかった場所でした。その他中立売御門(なかだてうりごもん)などでも戦闘が起きていますから、もう少し広い意味で考えれば禁門の変となります。禁門は禁裏の門ですからね。ただ、この戦いが御所だけではなく、京都の山崎や嵯峨天龍寺、伏見あたりでも起きていることを考えれば、「元治甲子戦争」と読んだ方がよいのではないかと、中村武生先生などはおっしゃっていますね。私もそれに賛成です。

ちなみに各辞典辞書でどのような見出しになっているか調べてみたら、「蛤御門の変」が『広辞苑』『岩波日本史辞典』『日本大百科全書』『大辞林』『デジタル大辞泉』で、「禁門の変」が『国史大辞典』『世界大百科事典』『日本国語大辞典』『ブリタニカ』『マイペディア』などとなっていました。いろいろですね。

こちらが蛤御門です。もっとも当時は、門はL字型なっていて、向かって左側に門があったんですけれどね。せっかくですから、「吉岡由緒書」の一節を紹介しましょう。読み下し文に改めています。

この時剋(じこく)長藩蛤御門・中立売御門より押し入り、薩州・会津・彦根勢と戦争最中にこれ有り。抑も今日の擾乱、今月廿一日、松平長門守(毛利元徳)〈大膳大夫(毛利慶親、のち敬親)嫡子〉人数召し連れ京着の上、一戦に及ぶべき企ての処、昨十八日前文の如く諸家に討手仰せ付られ候を洩れ聞き、先立て出張致し居り候福原越後、益田右衛門介、国司信濃以下十八日夜中御所に対し逆寄(さかよせ)に押し出し、一手は伏見屋敷より大垣戸田家の固場へ相掛り候を、大垣衆より立ち戻り候様使者を以て度々申し諭し候得共、更に聞き入れず押し来り候間、早り雄(はやりゆう)の者共堪(た)え兼ね打ち掛け候わんと悶え候を、老巧の族遮って押し留め置き、敵合い十間計りに相成り候頃、大炮二挺一度ニ相放し候故、敵中二筋将碁倒しの如く打ち倒され候折柄、引き続き大小の炮烈しく相発し、多人数討ち取り、大将越後も手疵負い、敗軍と相成り候処、大垣衆は地利(理)宜しく山を片取り、敵より打ち出し候玉は頭上を越させ候故、雑兵(ぞうひょう)までにて僅か両人手負候のみ、討ち死は一人もこれ無し。

とまぁこんな感じです。なかなか興味深いですよ。詳しくは「吉岡由緒書」の刊行をお待ちください!9月までには出版したいなと思っております。

また、『幕末風聞集』も直接に関係しておりますので、こちらもよろしくお願いいたします!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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