『幕末風聞集』⑤ 松坂大庄屋と天誅組

歴史コラム
『幕末風聞集』⑤ 松坂大庄屋と天誅組

『幕末風聞集 増補改訂版』の内容について、今回も天誅組関連記事の続編です。次の史料は『幕末風聞集』59ページに収録された史料です。天誅組の乱が起こったのは、大和国吉野。現在の奈良県吉野郡吉野町。そして天誅組の主力となった十津川郷は同県同郡十津川村。幕府代官鈴木源内正信が襲われた大和国五条代官所は、同国奈良県五条市でしたね。

今二十四日朝、浪士体(てい)の者百人計り吉野郡から谷村へ入り込み候様子に付き、同村より鷲家口村へ兵粮支度に罷り越し候との趣(おもむき)に御座候。右に付きては同村より瀬戸村越しに勢地へ抜け出すとも計り難く候間、尚追々鷲家方へ見切りの者差し出し置き候。高見峠初めへ鉄炮打りの者召し連れ、即刻罷り出で手配取り計らい申し候。尚追々模様承り合せ注進致すべく候。
一、今二十四日、鷲家口村へ彦根御人数の内百人計り御詰めに相成り申し候。右の段取り敢(あ)えず御達し申し候。以上。
  九月廿四日           川俣
                  大庄屋中
   松坂
    大庄屋中
     尚々本文之通田丸へも御申合せ有之様存候

文久3年(1863)9月24日といえば、主将の中山忠光らが決戦場である高取城に向かっている最中でしょうか。24日の朝に浪士と思われるものが100人ばかり吉野郡から谷村へ入り込んだとあります。谷村は大和国十市郡谷村のことでしょうか?とすれば現在の奈良県桜井市になるのですが、地理がよくわかりませんので、どなたかご教示いただければ幸いです。その谷村から吉野郡鷲家口村(奈良県吉野郡東吉野村)に対して兵粮を準備せよとの命令が来たといいます。鷲家口村は、天誅組が壊滅した村として有名ですね。

これについては鷲家口村から瀬戸村を超えて「勢地」すなわち伊勢国まで抜け出してくるかも知れないので、追々と鷲家口村に探索の者を派遣したといいます。瀬戸村は紀伊国牟婁郡内の村を示すのでしょうが、とすれば当時瀬戸村は紀州和歌山藩徳川家の所領で、現在の三重県熊野市ですね。そこから伊勢国へ抜けてくることを警戒しているということになります。さらに高見峠は、現在の奈良県吉野町と三重県松阪市との境に位置する峠で、この高見峠をはじめとして「鉄炮之者」を配置したと述べています。また、24日には鷲家口村に彦根藩の藩兵100人ばかりが詰めたともあります。まさに決戦前夜の情景ですね。

差出人の「川俣」は「かばた」と呼ばせて、おそらく伊勢国飯高郡の田引村・粟野村・富永村・七日市村・宮本村などを含む地域を指すのではないでしょうか?いずれも紀州和歌山藩領です。現在は三重県の松阪市に含まれています。「大庄屋」というのは「庄屋」よりさらに広い地域を管轄する役職を担った人物です。

さて皆さん、江戸時代にはどれくらいの「村」があったかご存じでしょうか。もちろん260年余の間には新たに開かれた村もありますし、数え方によっても違います。幕府は元禄15年(1702)と天保5年(1834)の2回、「郷帳」を作成することで、全国の村の数と村高の調査をしています。これによりますと、天保15年が6万3257、天保5年が7万4152です。現在の自治体=市町村数が1715ですから、いかに村の数が多かったかわかりますね。ただし、これには「町」の数も含まれています。ところが、江戸時代は、単独で「町」が表記されることはありません。江戸時代の「町」はあくまでも江戸・京・大坂の三都や城下町、門前町、宿場町などの「都市」を形成する単位を示します。ほら、江戸は「江戸町」とは言わなくて、「大江戸八百八町」でしょ。ただ、郷帳にはたまに藤沢宿(神奈川県藤沢市)のように「大鋸町」「大久保町」というように、宿場の中の町名が記されていることがあります。また私が住んでいる厚木は在郷町で、たまに「厚木町」と古文書に出てくることもありますが、あくまでも自称で、「郷帳」では「厚木村」です。

そしてそれぞれの村には、村の長がいて、西日本ではそれを「庄屋」といい、東日本では「名主(なぬし)」と呼ぶことが多いのです。村むらはこの名主や庄屋を中心に年貢を集めたり(年貢村請制)、役を務めたりといった御用を勤める反面、村を自治的に運営しています。ただし、だいたい大きな藩では個々の村むらをさらにいくつか連合させた地域を管理する体制を敷いていることが多いです。加賀藩の「十村」とか、肥後熊本藩の「手永」とかが有名ですね。研究の世界ではこれを総称して「組合村制度」といい、研究名称として「広域行政体」と呼びます。この広域行政体を管理するのが「大庄屋」という訳です。

途中の説明が長すぎました(^^;)つまりこの書状は、川俣地域を管理する大庄屋から松坂地域を管理する大庄屋に対して、9月24日段階の天誅組の動向を知らせた書状で、いずれも紀州和歌山藩領なのです。『幕末風聞集』が現在の三重県松阪市あたりで作成されたものであるということの根拠の一つがこの史料なのでした。

『幕末風聞集』には、第一番の最後に貼り紙がしてあって、その下に「南勢 魚町住 田中重益」と書かれている箇所があります。本書では35ページです。上の写真が現在の「魚町」です。2009年に松阪市を訪れた際に写しました。

もう一つ紹介します。松阪市内には、「御城番屋敷」と行って、松坂城を守衛するための組屋敷が重要文化財として現存しています。

こちらが松坂城址で、石垣だけが残っています。自然石を整然と積上げた見事な石垣です。その御城番として紀州和歌山藩から派遣されたのが40石取りの藩士22名で、そのための組屋敷として立てられたのが御城番屋敷でした。

こちらが城跡から撮った御城番屋敷です。今でも住んでいる方がいらっしゃるんですよ。

で、これが建てられたのが文久3年(1863)とのこと。ただ、文久3年のいつなんでしょうか?もともと計画されていたのでしょうか?天誅組の変を受けて計画されたのでしょうか?看板にもどこにも書かれていなくて、ネットを検索しても具体的に出てきません。建てられた月日が非常に気になる御城番屋敷でした。

いずれにしても、紀州和歌山藩にとって、松坂がいかに重要な拠点であったかがわかるかと思います。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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