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『幕末風聞集』⑥明保野亭事件

今回から『幕末風聞集』第三番の史料をみていきたいと思います。『幕末風聞集 増補改訂版』65ページからですね。第三番の特徴は、とにかく元治元年(1864)7月に起きた禁門の変に関する記載が詳しいことです。ただし、この巻のはじめは会津藩と土佐藩そして新撰組が関わった「明保野亭」事件から始まります。まずはいつも通り本文を書き下し文に改めてみましょう。

六月十日昼時、霊山の麓曙と申す料理屋にて騒動の次第
土州の藩中某(なにがし)七百石取りの御方、江戸屋鋪より四、五日以前上京之人、洛中見物に出られ候処、江戸馴染みの藩中に行き逢あい候故、右曙にて両人酒宴を催し居り候処、会津藩ならびに壬生浪士等大勢打ち入り、土州藩士に鑓を以て突き懸け候故、この方土州の藩中某と名乗るを聞き入れず鑓を繰りみ込候故、横腹へ薄疵付け候。土藩大声に相成り、漸(ようや)く皆手を引き、それより駈(掛)け合いに相成り、この人大仏に屯(たむ)ろ致し居り候内に候故聞き付け、大仏より人数操(繰)り出す。川原町土佐屋鋪会津より使者罷り越し候処、その人々を戻さず、それより夜に入り土藩鑓を持ち多人数集り候由。今十一日朝土佐多人数壬生へ罷り越し候得共(そうらえども)、壱人も居り合わず候故引き取り候由。曙へ入り込み候会藩拾(十)人程土州家へ連れ込みこれ有り候由。

明保野亭事件についても、これについての会津藩と土佐藩そして新撰組との関係についてもあまり詳しくは存じませんので、調べた範囲で述べておきたいと思います。間違いがあったらご指摘いただければ幸いです。

元治元年(1864)6月1日昼時のこと。まず霊山(りょうぜん)は京都市東山区にある東山三十六峰の1つで、その麓にある「曙」という料理屋で起きた騒動のなりゆきについての記述とあります。「明保野亭」がここでは「曙亭」になっていますね。これからは「明保野亭」で統一しておきます。

明保野亭は、清水寺の参道産寧坂(別名:三年坂)にある料理屋さんで、なんと今でも営業されているのだそうです。ことの顛末を概観してみましょう。

土佐藩の某(なにがし)という知行高700石取りの藩士が、土佐藩江戸屋敷から4・5日以前に上京してきて、洛中を見物していたところ、江戸で馴染みの藩士と行き逢い、明保野亭で酒宴を催していた。ところが、そこに会津藩と壬生浪士などが大勢で討ち入り、土佐藩士に対して鎗で突きかけ、「この方は土佐藩中の某だ」と名乗ったのだけれど聞き入れず、横っ腹に薄い疵をつけた。土佐藩士が大声を上げたので、ようやく皆は手を引いたのだが、そこで話し合いとなった。傷を受けた藩士は、京都の大仏(の側)に宿所を構えていて、これを聞いた土佐藩士たちが(敵討のために)繰り出した。河原町にある土佐藩屋敷に会津藩から使者を使わしたが、土佐藩屋敷ではその人々を帰さず、夜になって土佐藩士たちが鎗を持って多数集まったという。そして翌11日に土佐藩士が大勢で壬生に出張ったけれど、一人も出会うことがなかったので、そのまま引き取ったという。ただし、明保野亭に乗り込んだ会津藩士10人ほどを土佐藩屋敷に連れて行った。

この時傷を受けた土佐藩士は麻田時太郎(時次郎という説もあるそうです)で、鎗を突いた会津藩士は、柴司というそうです。壬生浪士がいわゆる新撰組ですね。もともとは浪士探索中の出来事で、会津藩としては、はじめに相手が名乗らなかったのだから、柴の行為は職務遂行の上のことで御咎めなしとなりましたが、麻田は相手に背を向けて傷を受けたのだから「士道不覚悟」ということで切腹となったと言います。もともと土佐藩と会津藩は和宮降嫁にともなう公武合体路線で協調関係にあったのに、この事件で衝突するような局面になります。当時の慣行では「喧嘩両成敗」が適用されるような事例ですが、すでに職務により御咎めなしとしていた会津藩側は、このままでは事態を収拾できないということで対応に苦慮します。藩の窮状を察した柴は、兄とも相談し、兄の介錯で自ら切腹することで両藩の衝突は回避されたということでした。

「風聞」であるとは言え、こうした通説とはいくらか齟齬がありますね。まず通説では、柴が最初名乗らなかったと言われていますが、ここでは名乗ったけれど、会津藩側が聞き入れなかったとあります。また、疵は背中ではなくて「横腹」となっています。さらにこの明保野亭には、武田観柳斎率いる新撰組隊士15名と会津藩士5名の20名が乗り込んだことになっていますが、ここでは明保野亭に乗り込んだ会津藩士10人ほどとあります。

あくまでも「風聞」だからと言えばそれまでですが、新選組については、物語が有名になるについれ、かなり話が盛られていたり、書き替えられていたりして、それがそのまま固定化していることが多いですね。ただし、近年は宮地正人氏の研究をはじめとして、実証的に再検討する研究が増えていますので、今後の展開に大いに期待したいところです!

こちらの写真は、新国劇(1917~1987で上演された行友李風作「極付 新撰組」で土方歳三を演じる緒形拳です。1964(昭和39)年の上演で、池田屋事件の場面です。

新撰組の最新研究についてはこちらをご覧ください。ついでに『幕末風聞集』もよろしくお願いいたします(^^)

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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