Professor's Tweet.NET

『幕末風聞集』⑩ 禁門の変勃発!

それではいよいよ『幕末風聞集 増補改訂版』にある禁門の変の記述についてみていくことにしましょう。その前に禁門の変について、『平凡社世界大百科辞典』から引用します。

1864年(元治1)7月19日、長州藩と朝廷を固める会津藩、薩摩藩らの諸藩の間で起きた戦闘。蛤御門の変ともいう。これより前、尊王攘夷を主張する長州藩は、〈文久3年(1863)8月18日の政変〉で、公武合体派の会津藩や薩摩藩らの諸藩兵により京都から追われ、朝廷の九門の一つ、禁門警備の任を免じられ、藩主が処罰された。長州藩には、京都を脱走した七卿や真木和泉らの浪士も集結し、失地回復をめぐって進発論や持重論が渦巻いた。藩の指導者、周布政之助(すふまさのすけ)や高杉晋作らは、持重論により藩論をまとめていたが、翌64年3月になると、幕府と薩摩藩、会津藩、越前藩らの公武合体派は内部対立を起こし、有力大藩が帰国し、間隙が生じた。さらに6月に池田屋事件で志士が斬殺され、長州藩内で、一気に進発論が勝利を占めた。国司信濃(くにししなの)・福原越後(ふくはらえちご)・益田弾正(はすだだんじょう)の3家老に、来島又兵衛(くるしままたべえ)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・真木和泉(まきいずみ)らが同行して先発し、世子(せし)毛利定広の本隊が後続した。先発隊は、山崎、伏見、嵯峨に分駐し、七卿や藩主の免罪などを上表したが入れられず、かえって幕府の征長令の発令工作が進んでいた。ついに先発隊は、本隊の到着を待たずに挙兵し、7月19日、京都内外で長州藩兵と会津・桑名・薩摩など諸藩兵が交戦した。長州は、一時,御所に迫ったが敗走し、来島ら多数が戦死し、久坂・真木らが自殺した。京都は、約3万戸が焼失し、7月24日、長州追討の朝命が下る。井上 勝生

『幕末風聞集』の記事は、福原越後を総大将とする一隊が、山崎に着陣する様子が主でした。また、福原らが楠葉の宮津藩出張所や郡山藩への書状、一橋慶喜の使者らに対して、通過の理由や山崎着陣の理由をのらりくらりとかわしながら、攘夷の意志を強く主張していました。また同じように、書き下し文に改めながら読んでみましょう。『幕末風聞集』70ページです。

    七月十九日申中刻
去る十九日暁八ツ半時(午前3時30分頃)京都瓦(河原)町二条下ル長州屋敷同家より火掛け候に付き炎上り、同時に長藩多人数中立売御門より討ち入り候由。この処御固め筑州殿人数かの由、喰い留め兼ね候ものか、長藩御曲輪へ入り込み候に付き蛤御門へ固め候会津殿人数の内ならびに乾(いぬい)御門固め薩州殿人数の内より取り巻きの戦に相成り、烏丸通り辺にて戦争致し、死人多くこれ有る由取りどりの風説にて突き留めがたく御座候得共(ござそうらえども)、会津殿・薩州殿にて百人余り討ち死、長州方五十人余りの討ち死の由。これは尓々(夫々:それぞれの誤記か)申し上げ難く候。且つ又九条殿・鷹司殿へ長州勢入り込みこれ有る様子に見請け候由にて、会津殿より鉄炮打ち込み候由に付き鷹司殿焼失、九条殿は御物見聊(いささ)か焼失、外(ほか)御建物御別状これ無し。
一、堺町御門よりも長州勢押し入り候由にて、御同所御固めの越前殿人数と戦争これ有り。双方に死亡人これ有る由の内家老打ち死にとの風聞。
一、御所は御別状これ無し。何れへも御退座遊ばされず候。近衛(このえ)様御父之由前関白様は吉田殿へ御移り遊ばされ、尤(もっと)も御別条御座無く候由。
一、伏見様御別条御座無く、二条御城ならびに是迄御本陣に相成候本清(法の誤記か)寺も同断。

まさに7月19日の風聞として書き記しています。位置関係がわかるように元治元年(1864)9月改め版の内裏絵図(だいりえず)を引用しておきましょう。それぞれの位置を確認しながら、読んでいただくとよくわかると思います。

去る19日の午前3時30分頃、京都河原町二条下ルの長州屋敷から火の手が上がり、同時に多くの長州藩兵が中立売御門(なかだてうりごもん)より討ち入ったとのこと。ここを警備していたのは筑前国福岡藩(福岡県福岡市)の黒田家ということで、食い止めることができないためか、長州藩の軍勢が中立売御門の曲輪内に攻め込んできたので、蛤御門を守っていた陸奥国会津藩松平家の藩兵ならびに乾御門(いぬいごもん)を警備していた薩摩国鹿児島藩島津家の藩兵が取り巻き(挟み撃ち)の形で戦争となった。乾御門・中立売御門・蛤御門が面する烏丸通(からすまどおり)で戦闘となって、死人が多数出た模様であるなどさまざまな風説があって真相を突き止めることはできないが、会津藩・薩摩藩で100人余りが討ち死にとなり、長州藩方では50人余りが討ち死になったというが、これについては詳しいことはよくわからない。また九条殿と鷹司(たかつかさ)殿(ともに五摂家の一つでそれぞれの住居のこと)へ長州勢が攻め込んでいる様子なので、会津藩より鉄砲を撃ち込んだために鷹司殿は焼失、九条殿は物見が少し焼失したものの、他の建物は無事であった。

一、堺町御門(さかいまちごもん)よりも長州勢が押し入ってきたので、同門を警備していた越前国福井藩松平家の藩兵と戦争となり、双方に使者が出た模様。そのうちで家老が討ち死にしたとの風聞である。なお、『平凡社世界大百科辞典』の記述にもあったように、実際にこの時の戦闘では、家老の来島又兵衛が討ち死にしている。

一、御所は無事で、(孝明天皇は)いずれへも御退座(ごたいざ)されることはなかった。近衛様(五摂家の一つ)の父で前関白様は吉田殿へお移りなさったということであるが、特別被害を受けたということはないようである。

一、伏見様(伏見宮邦家親王)もとくに変わったことはないようで、二条城ならびに本清寺(本法寺の誤記か)も同じように被害はなかった。

戦闘があった中立売御門・蛤御門、そして薩摩藩が守っていた乾御門は絵図の下のほうに左から乾門-中立売御門-蛤御門の順に並んでいます。その前の通りが烏丸通です。ただし、現在の御門と比べると乾御門烏丸通に面しておらず、蛤御門も中に入って左側に折れた位置に門が立てられています。こちらが現在の蛤御門です。

前回は建礼門(南門)から蛤御門を見通した写真を載せましたが、これはその逆で、絵図と違って、御所が真っ直ぐに見通せることがわかっていただけるかと思います。

また、戦闘は堺町御門を警備していた福井藩でも起こっていて、会津藩が鉄砲を撃ちかけたために鷹司殿が焼失し、九条殿も一部が焼けたと書かれています。絵図では右の中程に堺町御門があって、その両脇に鷹司殿と九条殿の大きな屋敷が並んでいることがわかります。その他、九条家・鷹司家と並ぶ五摂家の一つ近衛家については、現当主の父で前関白が吉田殿へ移ったとあります。近衛殿は絵図の左側、今出川御門(いまでがわごもん)の脇にあって、その前の通りが今出川通です。たぶん今出川通を通って、現在の京都大学奥にある吉田神社方面へ向かったということでしょう。歩いて30分程度で行けるといいます。

また、伏見様は、伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう)のことで伏見宮は、今出川御門の前、今出川通を隔てた向かい側にあって、隣が五摂家の一つ二条殿になっています。現在は同志社大学今出川キャンパスのある場所ですね。さらに二条城に本陣を構えた本清寺も無事であったと書かれています。京都御所から二条城までは徒歩で30分はかからないですからね。

この「本清寺」については、中村武生先生から「本法寺」の間違いではないかというご指摘をいただきました。実は、紀伊国和歌山藩が本陣を構えていたのが本法寺なのだそうです。原文書(げんもんじょ)も一緒にみていただきましたが、文字自体は「清」で間違っては居ません。ただ、この『幕末風聞集』自体が、伊勢国松坂の領主である和歌山藩の側から書かれたものではないかと推測していまして、中村先生にもその点は賛意をいただいております。ですから、次に訂正版を出すときには、これは「法」の誤字ではないかとしておきたいと思います。

こうやっていろんなご指摘を受けながら読み込んでいく…。それが史料を読むことの醍醐味です。禁門の変については、「元治甲子戦争」と呼ぶべきではないかという中村先生のご意見を以前紹介しました。研究としては、『原口清著作集 3 戊辰戦争論の展開』がもっとも詳しいと思うのですが、それ以降、戦闘の過程を含めて詳細な研究はないように思われます。次の史料集として予定してる小田原藩士の「吉岡家由緒書」にも変に関する詳細な記述があって、変そのものももっと実証的な研究が必要なのではないと思っています。

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了