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『幕末風聞集』⑪ 長州藩敗走!

禁門の変では、薩摩藩や会津藩などの応戦により結局、長州藩側の敗戦となり、家老の来島又兵衛、主戦の久坂玄瑞、そして筑後国卯留米藩の水天宮祠官真木和泉らが戦死しています。それでは敗走する長州藩側の様子について『幕末風聞集 増補改訂版』70ページの史料を読んでみましょう。

一、戦争の儀は長藩方敗軍の由にて、四手に相成散乱、会津殿より長藩洛中に隠し候儀相成らざる様(よう)の趣意の由にて、焼き止め候所々へ大炮打ち込み焼き立て追い散らし候に付き、それぞれ嵯峨の方へ引き取り、同日夕七ツ時頃((午後5時頃)洛中軍(いくさ)相鎮(しずま)り、右に付き薩会両家より追討致し候に付き、長藩山崎街道より落ち去り、兵庫出張所へ引き取ち候由に付き、嵯峨天龍寺も翌二十日焼き払い候由。
本文散乱致し候。長藩の内五拾(十)人計り竹田街道へ落ち来り候処、銭取橋の会津殿固めより鉄炮打ち掛け候に付き、横道へ逃げ去り山崎街道え落ち行き候由に御座候。
右に付き銭取橋(ぜにとりばし)に固め候会津殿藩、伏見井伊殿人数ならびに大垣殿橋本へ操(繰)り越し、山崎の長藩探索に罷り越し候処、同所にも隠しこれ無く候に付き、跡へ会津殿より火掛け山崎観音寺焼失、同所宝寺(たからでら)同断塔のみ残る。同山麓則(すなわ)ち西国街道人家数多(あまた)候焼き払い候由。最早(もはや)相鎮り申し候に付き井伊殿人数今二十二日大津蔵屋敷へ一旦揚げ取られ候。只今(ただいま)橋本に会津殿人数、壬生浪士打ち交り下宿致し居り、この所に下地より松平伯耆守殿人数御固め居り候処、矢張(やはり)その儘厳重に相固め居り申し候。右会津殿人数大坂迄の道筋探索に参り候抔(など)風聞御座候(ござそうろう)。
一、京都より山崎辺等に隠れ居り候長藩最早壱人も相見へ申さざる由。
一、元長藩屯(たむ)ろ致し居り候八幡山へ探索として酒井若狭守殿人数昨二十一日夕方相登られ候由に御座候。
一、京洛中焼失の儀は尓々(いよいよカ?)見と留めがたく御座候得共(そうらえども)、大様(おおよう)の処左に申し上げ奉り候。
一、南は七条通り迄 一、北は丸太町通り
一、東は瓦(河原)町限り五条袂(麩カ?)屋町より西 一、西ハ堀川限り

ここでは、位置関係を確認するために、三宅 紹宣氏の『幕長戦争』(吉川弘文館、2013年)所収の図を引用させていただきたいと思います。

要約してみましょう。

一、戦争については、長州藩方が敗軍とのことで、四手に分かれて敗走した。会津藩の松平容保より長州藩兵を洛中に隠してはならないとの趣意で、消火した場所へ大砲を打ち込んで火の手を挙げて長州藩兵を追い散らしたので、それぞれ嵯峨(京都市右京区)で引き取った。同日午後5時頃には洛中での戦争は鎮静化し、薩摩藩島津家・会津藩松平家の両家より追討したので、長州藩兵は山崎街道より落ちていき、兵庫出張所で引き取られた。嵯峨天龍寺は翌20日に焼き払ったという。

天龍寺は、現在の京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山の寺院で、山号は霊亀山(れいぎざん)。正式には霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と号します。開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石で、足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた由緒ある寺院ですね。

とにかく情報の本文が散乱している。長州藩の内50人ばかりが竹田街道へ落ちのびてきたので、銭取橋(現・勧進橋)を警備していた会津藩より鉄砲を打ちかけたため、横道へ逃げ去り、山崎街道方面へ落ちのびていったということである。

そのために銭取橋を警備していた会津藩と、伏見を警備していた近江国彦根藩井伊家ならびに美濃国大垣藩戸田家藩兵は、山崎(京都府大山崎町)の長州藩兵探索に繰り出したところ、同所にも隠している様子はなかった。その後へ会津藩より火をかけていったので、山崎の観音寺が焼失し、宝寺(たからでら)も塔のみを残して焼失した。両寺がある天王山麓の西国街道にある人家も多く焼き払ったとのことで、すでに戦も静まったので、彦根藩兵は、今日22日に大津(滋賀県大津市)の蔵屋敷へいったん引き上げたとのことである。ただいまは橋本(京都府八幡市)に会津藩兵と壬生浪士(新撰組)が入り交じって宿所とし、ここはもともと松平伯耆守(丹後国宮津藩主本庄宗秀)が警備をしていたところで、そのまま厳重に警衛することになった。右の会津藩兵は大坂までの道筋を探索に来るなどとの風聞があった。

一、京都より崎辺などに隠れている長州藩兵はもはや一人も見えなかった。

一、元長州藩兵が集結していた八幡山へは、探索のために若狭国小浜藩(福井県小浜市)の酒井若狭守忠氏(ただうじ)が21日の夕方に登ったとのこと。

山崎の観音寺は通称:山崎聖天(やまざきしょうてん)の名で知られる真言宗の寺院で、宝寺は正式名称を天王山宝積寺(ほうしゃくじ)と称し、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」の別名があり、銭原山宝寺、大黒天宝寺ともいうそうです。

ここまでの記述によれば、戦争は長州藩が敗軍となって藩兵は四方に分かれて敗走したとあります。そこの京都守護職を務めていた陸奥国会津藩種松平容保の命で、洛中には長州藩兵を隠してはならないということで、消火した場所へも大砲を打ち込んで長州藩兵を追い散らしたためにそれぞれ嵯峨で引き取ったとありますが、これは嵯峨で捕縛したということでしょう。当日、すなわち7月19日の午後5時頃には洛中での戦闘は鎮静化しましたが、薩摩藩兵と会津藩兵が追討の兵を出したために、長州藩兵は山崎街道を落ちていって、兵庫出張所に引き取られたとあります。現在の神戸港は、近世以前は兵庫津と呼ばれ、当時、幕府の番所がありましたので、兵庫出張所はこの番所をさすのでしょうか?また、この戦火で京都五山第一の天龍寺も翌20日に焼き払ったというのです。

ただ、ここでは情報が錯綜しているとも書かれていますが、長州藩兵の内50人ほどが竹田街道を落ちのびていったところを銭取橋(勧進橋)で会津藩から鉄砲で打ちかけられたので、横道へそれて山崎街道に向かったとあります。竹田街道は、図にもありますが、京の中心部と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた街道をいうそうです。銭取橋は、現在の京都駅から竹田街道を南に向かうと、久世橋通りで鴨川を渡るのですが、この鴨川にかかった橋が銭取橋で、現在は勧進橋といった方がわかりやすいですね。この銭取橋には会津藩兵と同藩預りの新撰組が詰めて警備をしていました。そこで、これに伏見を警備していた彦根藩と大垣藩が山崎へ移動して長州藩兵の追討に当たったが、同所に隠している様子はなかったとあります。先に同所の長州藩兵は山崎街道を通って、兵庫で引き取られたとありましたね。その後、会津藩が火をかけていったので山崎の観音寺(山崎聖天)と宝寺(宝積寺)が焼失し、さらに天王山麓の西国街道にあった人家も多く焼き払ったといいます。

なお、山崎街道は、西国街道の一部で、京都から西宮(兵庫県)までの間を山崎街道もしくは山崎通というそうです。山崎の地が家老福原越後を総大将とする一隊が拠点としていたことは、『幕末風聞集』⑧ 禁門の変前夜その1で書いたとおりです。だからここでは山崎街道も西国街道も同じ場所を指しています。ちなみに西国街道は現在の山陽道のことです。

こうしてとりあえず戦が鎮静したということで、彦根藩兵は大津の蔵屋敷にいったん引き取ります。これに対して会津藩と壬生浪士は、橋本の地で入り交じって宿所としました。新撰組はここでも「壬生浪士」と呼ばれていますね。なお、この場所はもともとは宮津藩本庄家が警備していたところで、会津藩と新撰組は、そのまま橋本の地を厳重に警備するとなり、会津藩兵は大坂までの道筋を探索に来るという風聞があったとも書き留めています。西国街道は、大坂を経ずに西国に抜ける脇街道(脇往還)ですから、そこからさらに大坂に向かうということが当時は驚きをもって噂されたのでしょう。

橋本は淀川を経た対岸にある地域で、橋本と山崎との間には当時、渡船場がありました。「山崎」は、羽柴秀吉が明智光秀を討った山崎の戦いなども有名で、「天王山」は現在でも重要な対戦などで使われることが多いですね。禁門の変、というよりこの元治甲子戦争では山崎がやはり一つの主戦場となったのでした。

結局、京都から山崎辺などに隠れていた長州藩兵は一人もいなかったとのことで、他に石清水八幡宮のある八幡山(京都府八幡市)には21日に小浜藩兵が探索のために登ったとあります。

最後に京洛中の焼失か所についてはいちいち確認はできないけれども、おおまかには南は七条通りまで、北は丸太町通り、東は河原町限り五条の恐らく麩屋町の誤記だと思われるのですが、ここから西方、そして西は堀川限りとあります。ここら辺は土地勘がありませんので、記述の通りに書いておきますね。

とにかく禁門の変では、2万軒余りの家屋が焼失したそうで、どんどん焼けろということで「どんどん焼け」もしくは「鉄砲焼け」と呼ばれています。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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