自治体史の経験から L365Mile

歴史コラム
自治体史の経験から L365Mile

1982年から始まった自治体史を中心とした生活は、1998年の年度末まで続きます。益子町史、南足柄市史、寒川町史、龍ケ崎市史、真鶴町史、小田原市史、大磯町史と、もちろんこれらは重なっています。だいたい自治体史を担当する際には、担当者の間で分野を分けるのですが、私自身は江戸時代の中心であった「村」の基本的なことを扱うことはほとんどありませんでした。一口に近世といっても年数からいえば近世への移行期から幕末維新期まで260年余におよびますし、幕政史、藩政史、幕藩史、村落史、地域史、山野川海の歴史、災害史、人物史、女性史等など専門分野も本当にさまざまです。

私は…というと、それぞれの自治体でおもしろそうなテーマを見つけて史料を集めて史料編を作り、通史編を書くということのくりかえしでした。

益子町史は大学院生活のスタートでした。はじめに興味を持ったのは北関東の農村荒廃論でした。天明の飢饉以降、下野国、上野国、常陸国といった北関東では人口が急減し、田畑が捨てられて農村の荒廃化が進むという現象が起きます。私はその実態と復興のあり方を下野国黒羽藩の地押改検地を分析することで、検討してみました。それが修論であり、初めて活字になった論文です。ただ、なぜこの地域の人口が減少するのかということについては決定的な答えを見いだすことができずに、マルサスの人口論などに次第にはまっていきました。数量経済史への接近です。

益子町には下野国黒羽藩の飛地5000石がありました。この黒羽藩領の近世後期の藩政改革も大きなテーマでした。益子町には「加藤弥平太御用日記」という史料が残っていまして、これを丹念に見ていきましたね。益子町といえば嘉永年間(1848~1854)に益子村の大塚啓三郎が創始したという益子焼で有名ですが、実はこれが領主である黒羽藩の改革と深く関係していたことがわかってきました。

南足柄市は全体が小田原藩領でしたから、私の小田原藩研究の端緒を開いたといってもいいかもしれません。また、小田原藩領は元禄16年(1703)の大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火、それによる酒匂川の決壊など度重なる災害に見舞われますが、すでに担当者はいらっしゃいましたので、私はとにかく小田原藩の法令を集めて、並び替えて、大まかな傾向をつかむことを目指していました。また、当時から中間支配機構というものに注目が集まっていましたから、小田原藩の組合村と組合取締役という存在に興味を持ちました。

関東では文化2年(1805)に幕府によって、関東代官の下に関東取締出役(八州廻り)という役職が設置され、文政10年(1827)に寄場組合(改革組合村)が編成されていきます。小田原藩領は関東取締出役との連携は図りますが、寄場組合は設定されていないのです。これらの中間支配機構と組合村の研究は、小田原市史を担当したときに本格的になって行きます。ついでに関東取締出役と寄場組合については、寒川町史で本格的に学ぶことになります。寒川町内では一之宮村という村が寄場となっていて、一之宮村寄場組合が設定されていて、その関係の史料が結構残っていたのです。とはいえ、寒川町自体は小さな町で、工業団地などで比較的開発が進んでいることもあって史料自体はあまり残っていませんでした。そこで、せっかくだから「関東取締出役と寄場組合」だけで史料集を作ろうと提案してみたりもしました。大口先生はさすがで、これを実現してくださいました。その際に私はとにかく相模国を中心として、これらに関する法令を集めるだけ集めて並べて収録してみました。

ここで気づいたことは、実は益子村には相模国と違った形で関東取締出役と寄場組合の史料が大量に残っていたことです。しかも水戸藩領に隣接していますから、とくに安政の大獄以降に、横浜周辺とともに水戸藩領周辺に見張番屋が設置されていくということが、後からわかったのでした。それが益子町史の史料編にも通史編にも活かせなかったのは残念でした。

小田原藩の研究は、富士山噴火以降、とくにいったん幕領として上知された被災地が藩領に戻されて以降の藩政、さらには享和期(1801)から天保年間(1830~1844)のはじめまで藩政改革を担当した藩主の大久保忠真の改革に非常に興味を持っていました。私は元来、人物史にはほとんど興味のない人で、社会の仕組みとか藩の構造とか、人物も群像として見ていくことが多いのですが、大久保忠真についてだけは、いつかこの手で書いてみたいと思っています。

つまり小田原藩では、藩政の展開と組合取締役と組合村という中間支配機構の両面を検討していくことが中心的な課題となっていました。ただ、小田原藩は藩政史料が少ないので、小田原市立図書館が所蔵していた家臣の史料はもちろん、相模国の幕領を担当していて関係の深かった伊豆韮山代官の江川文庫や、大坂の豪商鴻池家、国文学研究資料館所蔵の加島屋などの史料を集めたりもしていました。私自身は、藩財政や藩の行政にも興味がありましたから、総合的に見ていきたいなと思っていました。その結果、小田原藩の藩財政に関わるのは、藩領や藩領の商人だけでなく、幕領とも、さらには江戸、大坂、京都の商人たちと深く関わっていたのです。

藩と藩領の関係についてももちろんですが、通史的な縦軸の視点と藩政と藩領、その前提となる幕府と譜代藩との関係、三都の商人との関係等など、かなり欲張っていました。2000年代に一つの主流となった藩世界、藩領世界、藩社会といった研究概念とテーマを図らずもやっていたのだなと、ちょっとうぬぼれています。

真鶴町は小田原藩領でしたから、この延長戦でした。ただ、真鶴町は江戸時代の真鶴村と岩村の2か村から形成されているという小さな町で、しかも港町でしたから、火事の影響を受けやすく、史料も少なかったですね。ですから通史を書く際には、小田原藩の通史の前提として考えていました。真鶴の特徴である漁業と石材の関係は他の担当者にお任せして、私自身は他に真鶴の寺社や、鵐窟伝承をはじめとする源頼朝にまつわる伝承など、文化面に興味を持って執筆しています。

小田原藩領といえば、実は大磯宿も天保14年(1843)に水野忠邦による天保改革の一環として小田原藩領に編入されます。もともと相模国の宿場は先述した伊豆韮山の江川代官の支配所でした。大磯宿だけではなくて、この時は平塚宿も小田原藩領になりましたから、相模川以西の宿場はすべて小田原藩領になっています。そのために寄場組合も平塚宿組合が田村組合に、大磯宿組合が曽屋村組合に編成替えになっています。ちなみに寒川町の一之宮村組合の村々は、もともとは藤沢宿組合だったのですが、藤沢宿組合が大きいこともあって分離独立したのでした。これほどまでに寄場組合が変わるというのも相模国の特徴です。

ついでに言いますと、小田原藩領には独自の組合村がありましたから、相模国中央武の非領国地帯との境では、両方の組合に属している村がありました。また、組合村自身、曽屋村組合などは名称自体が重なっています。これもまたおもしろい現象です。

大磯町で興味を持ったのは、宿財政でした。これは小田原藩の藩財政への興味と共通するのですが、真面目に経済史をやったことはなかったですし、そもそも経済学についての知識が必要だなとつくづく思ったものでした。この関係で言いますと、小田原宿で行なわれた報徳仕法もかなり興味深いものでした。ここの報徳仕法は宿立て直しのためのものでしたが、そのネットワークを見ると小田原藩領はもちろん、相模国中央部のいわゆる相模国平野の地主や在郷商人と結びついているんですね。さらにいえば、こうした報徳仕法は二宮尊徳によって独自に運営されているのではなくて、幕府の代官や小田原藩の改革と必ず結びついているのです。だから、例えば報徳が趣法の一つとして新百姓の取り立てをやったとして、それに藩が褒美を出すなど、報徳仕法の実施過程についてはやはり幕藩体制の在り方やその仕組みをしっかりと位置づけておかなければならないなと思っています。

さらに大磯で興味深かったのは、幕末維新期の問題でした。幕末の騒々しさがどこから始まるのかといえば、大磯宿の役人たちは、島津久光が率兵して江戸に来たあたりからだと言っています。文久2年(1862)のことですね。それから将軍徳川家茂の上洛、長州戦争、官軍の東征、箱根戊辰戦争、明治天皇の東行等など、江戸と京を結ぶ幹線である東海道は時代の波に大きく飲み込まれていきます。その中で宿場町はどのような対応をとり、どうなっていくのか。これもたいへん興味深いテーマでした。

大磯でもう一つ興味を持ったことがありまして、それが当地にあった高麗寺という大きな寺院とその門前町高麗寺村でした。高麗寺は寺領100石の村なのですが、相模国で寺領100石といえば、藤沢宿にある清浄光寺、これは別称で遊行寺とも言います。箱根駅伝の遊行寺の坂は有名ですよね。この遊行寺の門前が西村と言ってやはり100石でした。西村は藤沢宿から別れて成立しますが、高麗寺村も大磯宿の一部だったものが独立します。その他朱印地100石の寺社といえば、相模国一宮の寒川神社、大山阿夫利神社で有名な大山寺、鎌倉の光明寺などがあります。あ、南足柄市史では、大雄山最乗寺という曹洞宗の大寺院の門前百姓もおもしろくて、南足柄の市史研究にちょっとした書いています。

そんな中でも高麗寺村は寺領100石とはいえ、村としてのしくみがしっかりしていて、場合によっては名主が2人いることもありました。とにかくここは史料が多くて、廃仏毀釈による還俗化のようすまで追うことができます。とくに18世紀のはじめに寺領を改革した慧歓という住職に興味を持っていました。下の写真は元平塚市博物館の土井浩元館長、藤沢市藤澤浮世絵館の細井守元館長と高麗寺の住職のお墓を調査しているとことです。お坊さんは卵塔という卵形の墓石で有名ですね。なお、高麗寺村は他の寺社と違って寺名は残っておらず、今は「高来神社」となっています。このお墓も今はきちんと整備されています。これは確か1997年頃の写真ですね。

話が少しそれますが、茨城県の龍ケ崎市では水の問題に興味を持ちました。龍ケ崎には牛久沼があり、傍らを小貝川が流れていて、それは利根川へと合流します。戦国時代までは江戸湾に注いでいた利根川を銚子沖へと流路を変える「利根川の東遷事業」は有名ですよね。小貝川については益子も関係していますので、何だか他人事ではないような気がしていましたが、それにしても小貝川と利根川の合流地点を初めて見に行った時にはあまりにも小さくて、ある意味あっけにとられました。

何より興味を持ったのは牛久沼でした。牛久沼の記録は「牛久沼宝湖鑑」などといったタイトルで1冊にまとめられています。それが龍ケ崎には2系統残っていて、近世前期から後期までの牛久沼の史料がまとめられています。私見などは一切書かれておらず、純粋に史料集なんですよね。

牛久沼は沼下の村々にとっては大切な用水源でしたが、沼上の村々にとっては悪水路いわゆる田の水を流す排水施設に当たるのです。享保期には、徳川吉宗の享保改革の際には埋め立てようとしたり、その用水路には鰻が多く生息していて土地の名物になっていたり(今でも鰻は牛久沼の名物です)、沼が物資を運ぶ舟運にとって重要であったりと、用水を巡る問題だけなく、さまざまな顔を持っていて、今、とくに問題となっている環境についても重要な課題を提供します。

牛久沼を巡る問題については、私にとって当時は組合村の問題でもありました。幕府の寄場組合、小田原藩の組合村といった行政組織とは違って、用水組合・悪水組合という生産に関わる組合です。

用水の問題といえば、寒川町史でも寄場組合以外に興味を思っていたのが目久尻川用水という用水と相模川の治水の問題でした。意外なことに相模川には史料があまり残っていません。流域絵図もほとんどありません。これは小田原地方を流れる酒匂川や東京と神奈川の境を流れる多摩川あたりとは大きな違いです。相模川は河岸段丘の川で川底が低くなっているので、用水は引きにくく、周辺の村々は相模川の支流から取水していました。反面、相模平野の真ん中を流れる金目川は川底が高くて取水しやすいので、とにかく用水としての利用が大きく、それだけに史料もたくさん残っています。これらもまた組合村の問題に関わってくるんですよね。実はこうした川ごとの性格の違いが現在の富士山噴火を起点とする河川の二次被害を考える上で大きく役に立っています。

寒川町史についてはもう一つ、朝鮮通信使の問題についても興味を持って史料を集めていました。朝鮮通信使は江戸時代に12回来日していますが、その中でも興味深いのは、寛延元年(1748)、将軍家重の将軍襲封の祝賀のための使節です。とにかく県内をはじめ、この寛延の朝鮮通信使の問題については多くの史料が各地に残っているのです。なぜか?実はこの前の朝鮮通信使来朝、つまり吉宗の将軍襲封を祝う使節の人馬の動員が、江戸町人による一括請負で周辺の村々からは国役金という費用を調達する形式に変わったのに対して、寛延使節は、もとのように周辺の村々が負担する形式に戻ったからでした。だから、先例を調べることから始まって、その地域地域における問題がいろいろとな形で噴出してきます。人馬役負担はどうするのか、朝鮮人に対する饗応やその食材の調達は、相模川や酒匂川には船橋を設置するのですが、それはどうするのか…などなど。これらは当時、学会の話題になっていた役論に関係することであると同時に、やはり組合村といった地域の編成に関する問題になってきます。もっといえば、享保期という18世紀前半の関東の地域や社会を考える素材ともなってくるのです。一口に江戸時代の村とか地域とかいっても200数十年の幅があるのですからね。

ついでに朝鮮通信使の問題は、琉球使節の来朝・帰国の問題とも重なりますし、将軍の大きな動座を伴う上洛や日光社参の問題とも重なります。日光社参については横須賀市史でちょっと論文にしましたが、こうした「国家的行事」は、そのための政治的な意図だけではなく、地域社会の変貌を分析するための大きな素材ともなるのです。というよりも自治体史というのは、そもそもがそうした地域の一般性(普遍性)と個性を突き詰めていくべきなのでしょう。基本的に史料というのは、何かの事件なり出来事なりの大きな「事」が起きたときに、後世のために残しておくという目的のために作られることが多いのです。一見、寒川と朝鮮通信使とは直接は関係がないようですが、そこでこそ初めて明らかに生ることもあります。だから、地域史として史料を見る際には、もちろんその地域の問題を物語る史料を優先的にみていく必要がありますが、一見すると直接関係なくとも何らかの事情ですごくその地域にある史料が残っているということもあります。そうした史料にも極力目をつけて、もし、これからのために必要であるなら、極力翻刻したいという思いでやってきました。

最近は、国立公文書館や国文学研究史料館、東京大学の史料編纂所をはじめ各地の史資料保存機関で原文書の公開が始まっています。影印本の出版というのもありますね。でも、これから歴史を学ぶ人のことを考えれば、古文書を読める人を育てるとともに、古文書の翻刻にこそ努めたいなと思っています。コンピューターの時代は、たくさんの史料を縦横に見ていく環境が求められてきます。中世以前と比べて江戸時代には比べものにならないほど史料があります。それらの中から研究のヒントになるようにするためにも翻刻された活字の史料というのは大事なのだと思っています。

今日はちょっとしゃべりすぎましたね(^^;)

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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