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年貢でみる宝永の富士山噴火の被害と復興

拙稿「元禄大地震と宝永富士山噴火 その2」が掲載された本学文明研究所の紀要『文明』第21号がこの3月の末に刊行されました。すでに「馬場研究室へようこそ」の中の「論文」リストの中にPDFファイルをアップしておりますので、興味のある方はぜひご覧ください。
「元禄大地震と宝永富士山噴火 その1」(『文明』第19号)では、小田原藩領全体の年貢データを使って、これらの大災害から年貢が回復していく過程を分析してみました。その結果、 元禄16年(1703)の大地震と宝永4年(1707)の富士山噴火という、未曾有の大災害に立て続けに襲われた小田原藩領では、年貢米の収納が回復するまでに、ほぼ100年の年月を要したことがわかりました。ただし、とくに富士山噴火による砂降(降灰)の被害を受けた小田原藩は、幕府の手で復旧を進めるべく、一時、代知を与えて、幕府領になります。また、その後も小田原藩領は頻繁な領知替えが行なわれますから、あくまでも全体的な年貢データをみればということになります。

そこで今回の論文では、(a)足柄平野の米作地帯として足柄上郡金井島村(開成町),同郡岡野村(同),同郡宮台村(同)の3か村をはじめ、(b)米作と畑作の差が小さい中間地帯として同郡弘西寺村(南足柄市*1,同郡雨坪村(同)の2か村、そして(c)畑勝ちの村落として同郡虫沢村(松田町)、足柄下郡府川村(小田原市)2か村の合計7か村の田方年貢米と畑方年貢永(金納)のデータをとりました。すべて年貢割付状という、年貢の支払命令書のデータを分析したものです。このうち、7か村の田方年貢米の変遷を折れ線グラフにすると以下のようになります。
ご覧のように、(a)の米作地帯では、噴火後は軒並み年貢米がゼロになって、しかも10年位はそのままです。これは砂降の被害以上に、降り積もった砂が川に流れ込んで(あるいは川に捨てる場合もあります)、川底が上り、水害の被害が続くという、二次被害の為でした。とりわけ相模平野の母なる川、酒匂川は山地から急に平野部に出てきたかと思うと、そこから海までの距離も近く、そもそもが”暴れ川”として有名でした。ただでさえ、元禄の大地震で堤防が弱くなっているところにこの被害です。本格的な復旧には享保期(1714~36)を待たなければなりません。この災害復旧も実は、享保の改革が大きくかかわっていたのですね。それはどんな関係だったのでしょうか?
幕府領になった小田原藩の領地がすべて返還されるのは延享4年(1747)のことで、噴火から40年後のことになります。小田原藩にとっては、この返還された後が問題なのですね。砂をかぶった耕地はただでさえ地味が落ちています。完全に復旧できない土地もあります。そこでここからどのように回復していったのか。その画期は、全体の画期とどのように関係しているのか。ここでは5つの時期を想定していますが、これは先の論文の5つの画期をもとに村々で再検証してみたものです。その結果、いろんなことがわかりました。もちろん、(a)米作地帯と(b)中間地帯、(c)畑作地帯では、被害の影響も、したがって復旧の在り方も違います。それは藩の年貢回復策にも関わってきます。年貢の取り方を徴租法と呼びます。これが私の次の課題になります。何とか今年中には発表したいと考えております。
ということで、論文はここからでもダウンロードできますので、興味のある方はぜひ読んでみて、できれば感想などいただければ幸いです!ついでに「その1」にもリンクをはっておきますね。
元禄大地震と宝永富士山噴火 その1──相模国小田原藩の年貢データから──」
「元禄大地震と宝永富士山噴火  その2 ──相模国小田原藩領村々の年貢割付状分析から──

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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