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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.01 ペリー艦隊来航す

はじめから揚げ足をとるような言い方になるが、日本の歴史には「幕末」が3回ある。改めていうまでもないだろう、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府が終わる時である。ただ、一般的に幕末と言えば、江戸時代を示している。幕末を維新とセットにすれば、維新は明治元年(1868)になるので、一応、ここに置くこととして、では始まりはいつなのであろうか。講演会や古文書講座でこうした質問をすると、だいたいの方がペリー来航を契機とすると回答されるのが常である。

アメリカ合衆国東インド艦隊司令官で遣日特使海軍代将マシュウ=カルブレイス=ペリーが、軍艦4隻を率いて伊豆沖合いに姿を現したのは、嘉永6年(1853)6月3日の早朝であった。太陽暦に直せば7月8日にあたる。4隻の軍艦のうち、2隻は蒸気船のフリゲート艦、2隻は帆船のコルベット艦である。フリゲート艦は、18世紀から19世紀半ば頃まで用いられた大型の木造帆船あるいは蒸気帆船ことで、近代海軍でいうところの巡洋艦的な役割を担っていた。コルベット艦はフリゲート艦より小型の船団護衛用帆装軍艦の1種である。ペリーが乗船した主艦のサスケハナ号は、重量が2,450トンで艦の長さが78メートル余であった。以下蒸気船ミシシッピ号が1,692トン―70メートル弱、帆船プリマス号が989トン―45メートル弱、サラトガ号が882トン―44・5メートルとなっている。艦砲の総数は63門におよぶ。日本人が実際に蒸気船をみた、これが最初である。これらのデータも一見するとペリー艦隊の強大さばかりが強調されてしまうようである。だが、当時のアメリカは、イギリスやロシアに比べれば決して一流の海軍国であるとはいいがたい。その編成も艦隊というよりも戦隊に近いものであった。いわゆる「提督」という呼び方も本来は階級ではなく、戦隊司令官に与えられた称号で、イギリスやロシアの「司令長官」に比べると格が劣るものであった。

伊豆沖に現れたペリー艦隊は、そのまま浦賀(神奈川県横須賀市)に向かい、その日のうちに浦賀沖合いに投錨した。幕府は早急に江戸湾警備の彦根藩(滋賀県彦根市)・川越藩(埼玉県川越市)・会津藩(福島県会津若松市)・忍藩の4藩に出動を命じた。この4藩については、弘化4年(1847)2月から相模国の三浦半島側を譜代大名トップの石高を有する彦根藩と親藩大名の川越藩に、房総半島側を同じく親藩大名の会津藩と忍藩に警備させる体制を敷いていた。これを江戸湾四藩体制と呼んでいる。家門クラスの親藩大名と譜代大藩が駐屯して江戸湾を防衛する体制である。ちなみにペリー来航時のそれぞれの藩主は、彦根藩が井伊直弼、川越藩が松平誠丸(後の典則)、会津藩が松平容保、忍藩が松平忠固であった。ここでは幕末の歴史を彩ることになる井伊直弼と松平容保が、すでに藩主としてペリー来航を経験していたことに注目しておきたい。

この時、何より幕府を震撼させたのは、ミシシッピー号が富津(千葉県富津市)―観音崎(横須賀市)の防衛ラインを超えてやすやすと江戸湾内部まで進入したことであった。富津―観音崎の防衛ラインは、「打ち沈め線」とも呼ばれる江戸湾海防の最終ラインだったのである。この夜、総登城した老中や若年寄らは夜を徹して評議を行ない、翌日には江戸府内の諸藩に動員令を出した。また、8日になると、そのほかの諸藩の江戸屋敷に対しても万が一の場合に備えるようにとの幕命が下っている。

江戸周辺の海岸に領地を持つ諸藩は、その状況に応じてすでに海防動員を行なっていた。異国船来航の報を受けた相模国小田原藩では、早速、既定の浦固め体制にしたがって、大磯照ケ崎台場真鶴台場小田原浦中台場に人数を詰めさせ、伊豆下田(静岡県下田市)に援兵を派遣した。川勾神社(二宮町)の神主が記した日記によれば、下田・真鶴方面には1,000名余が派遣され、大磯の照ケ崎台場には200名程度が詰めたという(『川勾神社日記(2)』)。伊豆に向かう部隊が小田原城を出立したのが4日の8つ時(午後2時頃)で、暮れ頃には真鶴村(神奈川県真鶴町)に到着した。その後部隊は陸海の二手に分かれている。このうち海路組は、真鶴村と福浦村(神奈川県湯河原町)で調達した押送船(おしおくりせん)4艘に分乗して闇夜の海に漕ぎ出し、5日の昼過ぎに下田に到着した。下田にはすでに韮山代官江川英龍の本陣が在陣していた。沼津藩掛川藩も既定通り下田に詰めていた。陸路組が下田に到着したのは7日の暮れ方のことで、小田原藩の援兵隊は下田の福泉寺・稲田寺・海善寺・鎮守正八幡・大平寺を宿陣とし、江川の指示を受けて下田表の警固にあたった。

さて、浦賀では、通商を求めたアメリカ大統領フィルモアの国書を持参していたペリーが、終始厳しい態度で交渉に当たっていた。当初浦賀奉行所では、国法を盾に長崎への回航を指示したが、ペリーは断固これを拒否し、結局、急設した久里浜(横須賀市)の応接所において交渉を持つことになった。6月9日、彦根藩・川越藩・会津藩・忍藩が警備する久里浜海岸に、300名余の護衛をともなって上陸したペリーは、浦賀奉行戸田氏栄(うじひで)・井戸弘道に大統領の親書を手渡すと、来春に国書の回答を得るために再度来航すると告げた。

交渉を終えてサスケハナ号に帰艦したペリーは驚くべき行動に出る。直ちに全艦を率いて先の富津―観音崎ラインを超え、江戸湾深くに船を進めたのである。強力なデモンストレーションであった。ここでまた一挙に緊張が高まったものの、12日になるとペリー艦隊は、琉球をめざして退去をはじめた。江川英龍の下知(げち)で小田原藩の下田援兵が解除されたのは18日のことであった。

オランダからの情報でペリーが来航することは事前に知っていたとはいえ、軍艦4隻の威容は幕府を震撼させるのには十分であった。ただ、先述したように当時の先進国からすれば、アメリカは海軍の質が高かったとは必ずしもいえなかった。むしろペリーの卓越した手腕と砲艦外交と呼ばれたその強硬姿勢が際だっていたといえよう。それから7か月後。嘉永7(安政元)年の松が明けてすぐのこと、再来航を約していたペリーの艦隊が、予定より少し早く浦賀沖にその姿を現した時、未だ鎖国体制下であった日本も次の時代に向けて大きく舵を切らざるを得なくなるのである。

現在の浦賀港

小田原藩の真鶴台場跡


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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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