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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.02 ペリー艦隊再び

嘉永7年正月14日は、西暦でいえば1854年2月11日の土曜日にあたる。この日の9つ時(どき)というから、ちょうど正午頃のことである。相模国淘綾郡山西村(神奈川県二宮町)川勾神社(かわわじんじゃ)の神主二見神太郎は、大磯宿茶屋町の和泉屋から沖合いに3隻の唐船がみえるという知らせを受けた(『川勾神社日記』2)。早速、子供らが見物に行ってみると、唐船は浦から4~5里(16~20キロメートル)ばかりの沖合いを東に進路をとって走り去っていったと、口々に話してくれたという。そして翌日15日の日記では、今度は神太郎自身が「夷国船四艘当浦相見え、三崎(三浦市)辺」へ向かったと記している。

「唐船」はふつう中国船のことだが、欧米の異国船一般にも使われている。和泉屋がはじめ唐船といってきたのは、とくにこの3隻が帆船だったためかもしれない。いずれにしても14日と15日の両日に立て続けに現れた都合7隻の船団こそが、前年に手交したアメリカ大統領フィルモアの国書に対する回答を求めて再来航をはたしたペリー(東インド艦隊司令官兼遣日特使海軍代将)率いる艦隊だったのである。蒸気船のフリゲート艦サスケハナ号・ミシシッピ号・ポーハタン号に、帆船のコルベット艦マセドニアン号・バンダリア号、そして帆船特務艦のレキシントン号・サザムプトン号である。先発の帆船3隻はすでに1日には伊豆沖で視認されており、神太郎が日記に書き留めたのは、まさにこれから相模湾を通って浦賀に向かおうとするところであった。その後ペリー艦隊は、サザムプトン号が先行して浦賀沖にはりるいっぽうで、マセドニアン号が鎌倉湾を江戸湾口と間違えて座礁し、後発の蒸気艦隊に助けられるといったアクシデントにみまわれたものの、16日には無事に金沢沖(横浜市金沢区)で合流、投錨している。

ペリーは当初、第1回目の来航時と同じ6月頃に再来航する予定であったから、5か月ほど繰り上げたことになる。ペリーがことを急いだのは、イギリスやロシアなどとの駆け引きがあったからである。とくにロシアは寛政期(1789~1801)頃から日本との通商を要求していた。アメリカが日本にたいして具体的な開国交渉を計画しているとの情報を得ると、海軍中将兼侍従武官のプチャーチンを日本との通商交渉のために派遣することを決めた。すでに第1回目のペリー来航以前から水面下の主導権争いは進んでいたのである。そのペリーから遅れること約1か月、嘉永6年(1853)7月18日に艦隊4隻を率いて長崎港に入港したプチャーチンは、12月になって江戸から派遣された海防掛の筒井政憲(つついまさのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)らと交渉にはいった。ロシアとの交渉には通商とともに国境問題があった。今も続くロシアとの国境をめぐる問題には、長い歴史があった。そのいずれの交渉も進展はしなかったものの、プチャーチンは日本が開国する場合には、ロシアを優遇するとの約束をとりつけて帰帆の途につく。年明け正月8日のことで、かわってペリー艦隊が大磯沖から浦賀沖に姿を現したのは、それからわずか6日後であった。じつはプチャーチンは、ペリーの開国交渉にたいして書簡を送って協力を申し出ていたが、ペリーにはその意志はなく、むしろロシアを出し抜くために来航を早めたのであった。

ペリー再来航の報を聞くとすぐに幕府は、担当の諸大名に命じて江戸近海の警備を固めた。今回は大名はもとより、旗本にいたるまで動員の待機が命じられていた。小田原藩もすでに11日には下田に援兵を派遣しており、続いて13日には真鶴と小田原表に、そして14日には大磯に兵を出した。さきの神太郎の日記には、自身が異国船を確認した15日付の記述に続けて、「昨十四日、またまた大磯へ出張、もっとも大磯の御台場へ詰めらる」とある(『酒勾神社日記』2)。大磯宿の照ケ崎台場には、1貫目の大筒2挺と500目大筒1挺、1貫500目の田村矢筒2挺が設置され、海防の前線基地となっていた。このときの具体的な派兵人数は明らかではないが、第1回目の来航時に神太郎は、下田と真鶴の2か所に1,000人余り、大磯の台場にはおよそ200人ほどが詰めたと書き留めており、今回もほぼ同数の藩兵が派遣されたとみて間違いはないであろう。

こうして江戸近海に対する警備体制を整えるいっぽうで幕府は、ペリーの再来航によってとくに関東の村々に動揺が広がらないように、関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を通して在方の取り締まり強化を命じた。艦隊投錨の翌日、17日付で出された関東取締出役の廻状では、寄場(よせば)組合村々にたいして、この人気(じんき)不穏の虚に乗じて「長脇差」のやくざ者や無宿・無頼の輩など悪党どもが立ち回るかもしれないので、そうした連中がいたら早々に召し捕るようにと命じている(『大磯町史』2近世No.217)。関東取締出役は、関東農村の再編強化のために文化2年(1805)に設けられた幕府の役職で、寄場組合は文政10年(1827)に行なわれた関東の農村改革に際して、関東取締出役の下部組織として編成された村々の連合組織―広域行政体である。幕府は何よりもこうした内なる不穏因子が外圧と呼応して膨張することを恐れていた。

それにしてもである。前年のペリーショックへの対応から品川沖の新台場建設をはじめとする江戸近海の海防や大名配置など、新たな防衛体制の構築を進めていた最中であったから、幕府にしてみればやはりペリーの再来航は早すぎたといわざるを得ないであろう。そのうえペリーは、前回にもまして強硬姿勢で開国を迫ってきた。アメリカは戦争も辞さない。戦争となれば近海に待機している軍艦はもとより、本国からも艦隊が派遣されるであろうなどと幕府を威嚇し続けた。実際には派遣しうるだけの最大の艦隊を編成して来航していたから、当面はそれ以上の大増援は期待できなかったのであるが、2月に帆船コルベット艦のサラトガ号と帆船特務艦のサプライ号の2隻が到着したこともあって、ついに幕府はペリーの要求をのむことになる。ペリーの開国交渉の基本は、いわゆる砲艦外交と呼ばれる強硬姿勢とともに、あくまでも欧米型の外交原則にもとづく方針を貫くことにあった。ここにおいて幕府は、欧米諸国とはじめての条約、日米和親条約(神奈川条約)の締結に踏み切るのである。

老中首座阿部正弘の指揮のもと、日本側の全権は応接掛(かかり)で儒役の林韑(あきら)、江戸町奉行井戸覚弘(さとひろ)、浦賀奉行伊沢政義目付鵜殿長鋭(うどのまさとし)の4名が務め、調印の場所として武蔵国久良岐郡(くらきぐん)横浜村(横浜市中区)に応接所が設置された。現在、横浜開港資料館が建っている場所である。ときに嘉永7年3月3日(1854年3月31日)であった。条約の条文は12か条からなり、両国間の永遠の「和親」をはじめ、薪水や食料・石炭などの欠乏品の供給のために下田(静岡県下田市)と箱館(北海道函館市)2港を開港すること、漂流民の救助と撫恤を保証すること、開港場での必需品を提供し、外人のための遊歩区域を設定すること、アメリカへ最恵国待遇を与えること、などが定められた。この後、ロシアオランダイギリスとも同様の条約をかわした。

※日米和親条約締結の地碑(横浜開港資料館前)

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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