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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.03 ハリスの来日と江戸出府

日米和親条約については、条約締結後にいくつかの問題がおきている。まず幕閣が問題にしたのは、第一条目の「和親」という文言(もんごん)が外交上の「通信」にあたらないかということであった。日本は当時、国書の授受を行なう国交の相手国を「通信」の国とし、貿易のみの相手国を「通商」の国として区別していた。具体的には前者が朝鮮、後者が中国とオランダにあたる。この問題については、「和親」が天保13年(1842)の薪水給与令の延長線上にある対外国への撫恤策(ぶじゅつさく)であるという理屈で説明していくのだが、何よりも問題となったのは領事の駐在についてであった。

問題をこじらせたのは、日本語(和文)と英語の間に中国語(漢文)とオランダ語が介在するという複雑な翻訳過程にあった。和親条約の和文と漢文では条約締結後18か月たってから日米両政府の合意のもとに領事駐在を定めるとなっていたのが、英文と蘭文ではどちらかいっぽうが必要とすれば駐在することができることになっていた。これは明らかな誤訳および照合のミスであった。だが、先に述べたように、当時の列強国を軸に定められた欧米型の外交原則を基準とする限り、近い将来に領事駐在を認めざるを得なくなるのは必然であった。こうしてアメリカに押し切られる形で、下田駐在の初代総領事としてタウンゼント=ハリスが任命された。

ハリスは安政3年(1856)7月に来日すると、下田に隣接する伊豆国加茂郡柿崎村(静岡県下田市)の玉泉寺総領事館を開いた。ニューヨークで兄とともに陶磁器輸入商を営んでいたハリスは、嘉永2年(1849)頃から東洋貿易にも携わっていて、日本との通商関係の成立になみなみならぬ熱意と野心をもっていた。来日すると早々に、交渉のための江戸出府を幕府に要求する。当初幕府は拒絶の態度をとっていたが、ハリスの度重なる強硬な出府要請にたいして、ついに翌安政4年(1857)7月8日になって許可の通達を出したのである。

ハリス一行が下田を後にしたのが安政5年(1858)1月7日(西暦1857年11月23日)で、陸路天城山の嶮を越えて三島宿(静岡県三島市)にはいり、そのまま東海道を江戸に下った。行列の総人数は350人ほどであった。ハリスの『日本滞在記』(岩波文庫)によれば、1月12日(西暦11月217日)の8時半に小田原を発ち、大磯宿で正午の休息をした後、馬入川を渡船で越えて午後6時には藤沢宿に到着したとある。ハリスによれば、小田原から藤沢までは、村と村との間隔が狭く、ほとんど連続したひとつの村のように感じたという。ハリスは来日前に長崎出島のオランダ商館付きの医官として元禄3年(1690)に来日して2年間滞在し、その間に2度江戸に参府したドイツ人ケンペルの記録『日本誌』を熟読していた。ケンペルは東海道の賑わいを詳述していたが、それに比べれば、ハリス一行は往来する人びとをみかけることも少なく、ましてや大名行列にも出会わない。町でも村でも往来の店々は戸を閉ざし、人びとは家の前に集まって静かに通行を見守るだけと述べている。また、道路は修繕され、一行を迎えるために整頓されているばかりでなく、自分たちが通過するわずか数時間前にきれいに掃き清められるととも書いている。これらはハリスの出府にともなう幕府の統制が行き届いていたことを物語っている。

幕府の道中奉行はすでに、9月21日付で品川宿から三島宿にかけての宿村にたいして、街道の整備についての通達を出していた。「亜墨利加使節」(ハリス)出府について、通行休泊の宿村に対する非常時の駆け付け人足の手配をはじめとして、火災などの際の避難場所の手当て、家作・仮建物などの修繕に持ち場道筋の掃除、旅人の往来に関する注意事項、見物の禁止などである(『大磯町史』2近世 史料No.219)。これらは何もハリス一行に限ったことでなく、幕府役人や大名、さらにはオランダ商館長や朝鮮・琉球使節などの重要通行の際に定まった方式で、とくに道場の掃除役は徹底していて、通常はその証しと貴人を迎える儀礼として飾り手桶を置いたり、蒔砂(まきすな)や盛砂(もりすな)などが行なわれた。ハリスは、村々の入口に土で小さな円錐体が築かれ、その頂きには緑葉の小枝が立ててあった(盛砂)と記録しており、それが自分に対する敬意を表したものであることを承知していた。

ここで興味深いのは、ハリス一行に対する応対の方法について尋ねた宿役人たちの伺書(うかがいがき)である。伝馬使用を認めた御朱印状や御証文を所持して通行される場合には、杖払い人足を提供して、往来の者は下座するしきたりであったが、御朱印所持の一行と使節とがひとまとめになると、自然とアメリカ人にたいして下座するような形になり、それでは琉球人やオランダ人の場合と相違してしまうが、どうするかということであった。

将軍や琉球中山王襲封の慶賀・謝恩を目的とした琉球の使節は6年前の嘉永3年(1850)に訪れていたが、4年に1度参府するはずであったオランダ商館長はもう10年以上訪れていなかったし、正式な国交使節である朝鮮通信使は明和元年(1764)を最後に江戸まで出府することはなかった。そうしたいわば正規の外国人(琉球は薩摩藩の付庸国〈ふようこく〉扱い)以外の外国人で日本に駐在し、しかも江戸に出府するのはやはり異例のことであった。ハリスは、道中で自分に敬礼するのは身分のある者に限られ、それ以下の身分の者はみな跪座(ぎざ)して目を伏せていたと述べている。

また、ハリス一行には警備のために関東取締出役が同行しており、そこから人を集めて見せ物をするような人寄せ興行を重ねて禁止する廻状が出された。さらに大磯宿の問屋・年寄に助郷大小惣代は、道中奉行や関東取締出役の達しを受けて見物の禁止や往来筋の心得違いを戒めた廻状を1月8日付で廻している。これに伊豆韮山(静岡県伊豆の国市)の江川代官所からも手代が同行するなど、地域的な支配網が二重三重に活用されたのであった(『大磯町史』2近世No.219)。

ハリス一行が江戸についたのは1月14日(西暦11月31日)のことである。ハリスの主目的は、自由貿易と外交官の首都駐在を確保することにあった

※写真は、ハリスが総領事館をおいた柿崎村玉泉寺

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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