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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.05 横浜の警備と見張番屋

横浜が開港場となったことは、当然のことながら、周辺地域の構造を根底から変えていくことになった。横浜に外国人居留地が置かれると、遊歩場に指定された地域などはその波を正面からかぶることになる。それはまず何よりも治安問題として現れた。開国が決定したことで、国内では攘夷運動が先鋭化し、外国人の殺傷事件が絶えなかった。安政条約が勅許を得ない条約として非難の的となり、将軍継嗣問題をともなう大老井伊直弼による反対派や攘夷運動への大弾圧、いわゆる安政の大獄が政治的・社会的矛盾を深刻化させていった。横浜が開港場になれば標的になるのは火をみるよりも明らかであった。当初長崎の出島と同じ扱いを受けることを懸念したアメリカが、内地雑居を求めたにもかかわらず、外国人居留地の設定を優先したのもこうした社会情勢のなかで相互の紛争発生を懸念してのことである。攘夷運動だけではなく、そもそも治安の悪化は当時の大きな社会問題であった。幕府はとくに「長脇差」のやくざ者や無宿・無頼といった悪党どもの横行に目を光らせていた。それらが百姓一揆などの広範な民衆の蜂起と結びついていくことも大きな懸念であった。

条約が締結されて、開国となれば、これまで「敵」であった外国人は、幕府にとって「保護」すべき対象となる。それも条約は基本的に国際法に則ったものである。幕府=日本政府の苦悩は新たな段階を迎えることになったのである。そうして考えれば、いわゆる安政の大獄についても見直しが必要かも知れない。

こうした状況下で幕府は、安政7年(1860)3月に「横浜表別段御取り締まり」を発令した。横浜周辺に特別警戒網―厳戒警備体制を敷こうということである。これには浪人者の取り締まりや村々における武術稽古の禁止、旅人の監視といった案件もあったが(『寒川町史』3 史料N0.184)、中心となったのは見張番屋(見張小屋)見張木戸(関門)の設置である。これは多摩川筋や相模川筋の渡船場や内郷(河川や海浜から離れた内陸部のこと)の交通の要衝に見張番屋を立て、不審者の厳重監視と検挙に努めるというものであった(『大磯町史』2近世 史料No.221)。見張番屋には、道案内や番非人を常駐させて昼夜の警戒を厳重にするいっぽう、寄場組合の大小惣代や村役人などの見廻りが義務づけられた。そのうえで横浜表やそのほかで異変があった場合の警備体制、「怪敷者(あやしきもの)」の取締り・通報・捕縛方法に注意事項などが定められたのである。その受け皿となったのが寄場組合であった。

寄場組合は、幕府による文政10年(1827)の関東御取締御改革と呼ばれる改革政策によって、個別の村々を数か村から数十か村組み合わせたたもので、改革組合村御改革組合御取締組合などとも呼ばれている。関東の村々(農山漁村)は、御料(幕府領・天領)や大名領・旗本領・寺社領などが入り組んだ支配となっており、1つの村に多いもので十数名におよぶ領主がいる場合もあった。このように1村に複数の領主がいるような村を「相給村落(あいきゅうそんらく)」といった。こうした支配形態では、犯罪者が容易に他の領主の村に逃げ込んだりするので、統一的な警察権を行使すること自体が難しかった。江戸が繁栄すればするほど、関東の村々では次第に治安が悪くなるという逆説的な現象も起きていた。そこで幕府は、文化2年(1805)関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)という新たな役職を設置し、彼らには関東地方においては、御料・大名領・旗本領・寺社領の区別なく廻村して、犯人の逮捕にあたれるようにした。関東取締出役は別に八州廻りとも呼ばれた。しかしながら、総勢10名前後の関東取締出役では即時的に警察権を行使することも難しかったこと。そこで関東取締出役の下部組織として寄場組合が編成されたのであった。そのため寄場組合は、幕府領・私領の区別をしないで設定された。言わば、村々の領主権を超えた、広域的な行政組織をつくったことになる。これによって法令を出す際にも幕府はいちいちその村の領主を通さなくても、関東の取り締まり(治安や風俗の矯正など)に関することであれば、一律的に命令することができるようになった。こうして関東の農山漁村が行政的に再編成されたのである。だから、近世後期の関東をみていく上では、関東取締出役と寄場組合は、無視することのできない存在なのである。

外国人遊歩場取締りとして関東取締出役が出張し、渡船場を中心に監視体制を敷くことは、じつは2月末の段階からはじっていた(『寒川町史』3史料No.183)。これらが拡充されることで、関東取締出役―寄場組合という取締り改革の組織が、見張番屋を中心とした外国人遊歩地域の治安警備体制として編成されることになったのである。

図は、この見張番屋と見張木戸の設置場所を現在の神奈川県域にあたる相模国と武蔵国3郡(橘樹郡・久良岐郡・都築郡)の地図上に落としてみたもので、表1はこららを整理したものである。見張番屋については、時期によって異同があるものの、確認されているところの最大で、武蔵国の多摩川筋で18か所、鶴見川筋で5か所、内郷筋で11か所、海岸筋で3か所となっており、見張木戸は鶴見川筋に13か所設置された。いっぽう相模国側は、相模川筋で13か所、内郷筋で7か所となっている。

図にも明らかなように、多摩川筋と相模川筋の渡船場を中心に、内郷筋では東海道の各宿場に、矢倉沢往還、中原街道、大山街道といった脇往還の主要道の要衝に見張番屋が、それこそくまなく張り巡らされているのである。しかも相模川筋でいえば、主要街道の比較的規模の大きい渡船場だけではなく、農作業に使う作間(さくま)渡しや私渡しと呼ばれるような小さな渡し場にまで見張番屋が設置されたことが確認できる。


相模国ではさらに、同年閏3月に各寄場組合の寄場役人に大小惣代および見張番屋地元の村役人一同が集まって会合を開き、見張番屋警備の方針や経費負担の方法について議定書(ぎじょうしょ)を作成している(『寒川町史』3史料No.187)。とくに見張番屋にかかる経費負担の問題は、ただでさえ組合村運営に関する負担が村々を圧迫していただけに、当面する大きな課題であった。ここでは相模国の見張番屋20か所にかかる費用を1か年で990両3分と銀3匁と見積もっている。このうち、見張番屋勤めの総人数86人にかかる費用は、1人あたり玄米1升を扶持米として支給するとして、1年で305石4斗、貨幣に換算して金604両3分と銀3匁となった。人件費が全体の61パーセントになる計算である。これらの経費は石高に応じて寄場組合、そして村々へと割り付けられていくのである。表2は、相模国内の寄場組合である。ここでお気づきであろうか。足柄上郡と足柄下郡、つまり小田原藩領の村々が入っていない。小田原藩領は、水戸藩領、川越藩領と同様、寄場組合の編成を免除されていたのである。そのかわりに小田原藩の場合は、すでに藩領独自の組合村を設置していた。


大老井伊直弼が江戸城桜田門の前で攘夷派の水戸浪士らに暗殺されたのは、見張番屋による警備体制が敷かれつつあった、まさにその最中(さなか)のことであった。このいわゆる桜田門外の変がまた、とくに関東にあって幕府にさらなる治安対策の強化を迫ることになったのである。

ちなみに見張番屋は横浜周辺だけではなく、下野国(栃木県)の芳賀郡から那須郡にかけての常陸国境の宿村にも設置されている。また、江戸から下総(千葉県)・下野(栃木県)・常陸国(茨城県)にかけては、関東取締出役の常駐場所が設定されていた(『益子町史』6通史編)。いずれも水戸藩領を囲む位置である。表3にあるように、外国人殺傷事件は、横浜が開港した直後から多発していた。その中心は水戸藩の尊王攘夷派の浪士たちであった。そこで幕府は、関東における攘夷派の拠点である水戸藩領を監視し、開港場横浜を警備するという二重の体制で臨んでいたのであった。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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