Professor's Tweet.NET

幕末維新の騒乱と東海道 Vol.06 和宮の降嫁と東海道

幕末から維新にかけての時代は、たとえば中央の政局の動きや対外関係が、全国津々浦々までいろいろな形でダイレクトに影響をおよぼしていくところに大きな特徴があり意義があった。逆にいえば、さまざまな地域にあらわれるさまざまな動きが、大なり小なりはあったとしても、そうした時代の流れにストレートに結びついているということである。ましてや東海道は、江戸と京という二つの極をつなぐ大動脈である。その江戸にほど近い宿場町とその周辺の村々が、時代の荒波に巻き込まれていくのは必然であった。それは何よりもまず、街道の負担となってあらわれた。東海道を激しく行き交う人びとの群れ、はては進軍する軍隊であふれかえる。戦国時代ならいざ知らず、260年という泰平の世にはかつてなかったことである。

それでは、東海道がことさらに騒がしくなるのはいつの頃からであろうか。たしかに商品経済の発達や民衆生活の多様化によって、江戸時代後期の交通量は飛躍的に増大していた。一般的に、時代が下るほど宿場の財政は悪化すると言われている。しかしながら、宿財政の悪化も裏を返せば通行量の増大を物語るものでもあり、経済や文化の活況を示すものでもあった。村々が宿場への助郷負担の増大を嘆くのもまた、同じような背景があった。そうしたなかでたとえば安政2年(1855)に一橋慶喜に嫁いだ美賀姫(みかひめ)の江戸下向(げこう)や同4年のアメリカ総領事ハリスの江戸登城など、いくつかの転機はあったとしても、やはり最大の画期となったのは文久元年(1861)の和宮(かずのみや)の江戸下向であろう。

和宮は、仁孝天皇第8皇女で孝明天皇の異母妹にあたる。名は親子(ちかこ)。和宮は幼称である。この和宮と将軍徳川家茂との婚姻をめぐる政治的問題がいわゆる和宮降嫁問題である。降嫁はとくに皇女・王女がその身分を離れて、皇族以外の者に嫁ぐことをいう。和宮は嘉永4年(1851)、6歳のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していたのだが、それを破棄させての降嫁であった。眞子内親王の婚姻も時代が時代であれば”降嫁”なのである。

降嫁問題の背景には、安政5年(1858)の修好通商条約に対する勅許問題や将軍継嗣をめぐる問題があって、いわゆる公武関係の融和をはかる幕府側、とくに条約締結の当事者であった大老井伊直弼によって画策され、直弼が桜田門外の変で倒れた後は、老中の久世広周(くぜひろちか)と安藤信正が引き継いでこれを実現させた。当初は反対していた孝明天皇も朝権の回復をめざす岩倉具視の献策を受け、「攘夷の決行」を条件としてやむなく承認したのであった。和宮は、文久元年(1861)1月21日に桂御所を発輿(はつよ)すると、11月15日に江戸城田安門の清水家に到着した。家茂との婚儀は、翌文久2年2月11日のことで、ともに16歳であった

よく知られているように、和宮一行の江戸下向には中山道を通るルートが使われた。したがって東海道筋が直接の担当となったわけではなかった。ではまったく関係がないかというとそうではない。京都からの使者や御用荷物のひんぱんな往来で、大量の継立て人馬が必要となったのである。和宮に付き従った京方の者たちも、帰京には東海道を通ることになっていた。だからこれに即座に反応したのが宿場町であった。文久元年1月には、東海道筋の品川宿(東京都品川区)から駿河国庵原郡(いはらぐん)蒲原(かんばら)宿(静岡県静岡市清水区蒲原)までの宿場のうち、箱根宿を除く14か宿が一体となって、翌年3月までの5か月の間当分助郷を指定してほしいと道中奉行に願い出た(『大磯町史』2近世No.222)。

これを受けた道中奉行は、老中への伺書(うかがいがき)のなかで願いのとおり命じてほしいとするいっぽうで、当分助郷の指定解除の時期については期限を定めないで追って差し許すということで触れを流したいとしている。これは嘉永6年(1853)のペリー来航時の先例にならったもので、今回は関係者の帰京その他について予想される通行量の見当がつかないという。婚儀が過ぎてもなお、東海道筋の宿村々は容易には解放されなかったのである。しかも定助郷の村々は困窮が著しいということで、定助郷と当分助郷を平均(平等)に勤めるようにと言い渡された。

宿場町は、そこで人足と馬を取り替える「宿駅」が本来の機能である。そのために東海道には、人足100人と馬100疋を用意しておく必要があった。これを伝馬役といい、宿駅ごとに人足と馬を替えることを継ぎ送り宿継ぎなどと称した。常設した人馬を越えて人足と馬が必要な時には、近隣の村々から村高を単位として、人馬を徴発した。これを助郷制度という。このうち、言わば第1グループに属して真っ先に助郷役を務める村々が定助郷で、これ以外に、その時々の状況に応じて、加助郷増助郷といった区分があった。当分助郷とは、文字通り当分の間、臨時に村々から助郷を徴発しようとするもので、幕末には街道負担の増大から費用を負担させるために指定されることが多かった。

小田原宿では17か村が当分助郷に指定された。ところが、この17か村は定助郷と当分助郷の平等勤めという方針に対して異儀を唱え、大住郡尾尻村(神奈川県秦野市)・曽屋村(同)西田原村(同)、そして黒岩村(神奈川県大磯町)の各村の名主を惣代として、道中奉行に対して再考を求める願書を提出している(『大磯町史』2近世No.223)。ここではまず、触当(ふれあて)を行なった小田原宿の問屋が、そうした指示を道中奉行から口達(こうだつ)で受けたかどうかという点が問題となった。そのまま宿の触当次第に人馬役を勤めたのでは、村役人どもが私欲の取り計らいをするのではないかと小前一同に疑念が生じているという。

さらに、①小田原宿までの道のりが5里(約20キロメートル)、そこから三島宿(静岡県三島市)までは箱根山を越えて8里(約32キロメートル)の道のりがあって、往復で26里(104キロメートル)の道のりを勤めなければならないこと。②万延元年(1860)から横浜御用のために馬入川の見張り番を勤めているが、これも3里半(約14キロメートル)から4里(約16メートル)ほどの道のりがあり、多分の入用がかかっていること(見張番屋に関しては前回のコラムを参照のこと)。③文久元年(1861)から丹沢山の御用炭の津出(つだ)し(物資の積出し)を命じられ、この津出し場所の塩海村(二宮町)までまた3里(約12キロメートル)の道のりがあることなどをあげて、このままではもともと困窮していたうえにさらに難渋が重なってしまうというのであった。

和宮の降嫁は、まさに東海道にとっても大きな転機となった出来事だったのである。

 

<A rel=”nofollow” HREF=”http://ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_mfw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fomikun0f-22%2F8001%2F57ee7847-5d43-4a79-862c-204fc899ccc9&Operation=NoScript”>Amazon.co.jp ウィジェット</A>

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了