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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.07 将軍家茂の上洛と東海道

こうして断行された和宮の降嫁は、公武融和を進めるよりむしろ、尊王攘夷派の動きを大きく刺激した。安政6年(1859)の横浜開港以後、江戸や横浜では尊攘派の浪士による外国人の殺傷事件があいついでいた。政局では、公武合体を進めていた薩摩藩の島津久光文久2年(1862)4月に藩兵1000人を率いて上京すると、朝廷からの依頼で尊攘派の浪士を断固たる態度で追討し、6月には勅使大原重徳(しげとみ)とともに自らが江戸に下って幕政の改革を進めた。そのいっぽうで、ともに公武合体策を進めていた長州藩の尊攘派への転向、京都における長州藩・土佐藩の藩士を中心とした尊攘志士の活動の先鋭化など、尊王攘夷運動は格段の広がりをみせていた。政局は流動化の一途をたどり、その過程で朝廷のいる京都が次第に政局の中心となっていく。こうしたなかで、家茂は上洛を決意する。ただし、どうした経緯で家茂が上洛を決意したのかは、実は定かではない。とはいえ、公武合体の推進による幕朝間の融和と、幕府権力の回復をめざしたことは確かであろう。「攘夷決行の愚」を朝廷に直接奏上する意図があったとも思われる。

いずれにせよ、将軍が上洛すること自体、寛永11年(1634)の3代家光以来、じつに230年ぶりのことであった。それだけに、沿道の宿村々にとってみればこれまで経験したことのない大通行になるとことが予想された。早くも7月には宿に対して上洛の内示があったようであるが、その後はなかなかことは進まなかった(『三島宿本陣家史料集(17)』)。本格的な準備が進められたのは、文久2年も暮れ近くになってからであった。当初は軍艦で上洛する予定であったが、結局、陸路東海道を使っての上洛となった。陸路での上洛が正式に決定したのは、発駕(はつが)の2日前のことである。海路が見送られたのは、イギリスとの関係が悪化していたことにもよる。

文久2年8月21日のことである。幕政の改革を訴えて京都に帰る途中であった薩摩藩の島津久光一行が神奈川宿(横浜市神奈川区)の東、武蔵国橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)にさしかかったところで、イギリス人4名が一行の行列を騎馬でさえぎったとして藩士に殺傷される事件がおきた。世にいう生麦事件である。この事件は横浜在留の外国人の怒りを買い、イギリスは犯人の引き渡しと賠償を求めて横浜沖に艦隊12隻を集結させる事態へと発展していく。海路の安全が保証されなかったのも、上洛の準備が遅れたのも当然ではあるが、家茂の上洛は横浜周りにおけるこうした不穏な情勢のなかで断行されたのであった。そうした緊迫状況を残したままで家茂は上洛したのである。イギリスとの開戦の危機が迫っているにもかかわらず、関東には将軍がいないという政治的空白が生じたことを示していた。

上洛にあたっては当然のことながら、さまざまな準備が東海道沿いの宿村々に課せられた。人馬の調達は道中奉行の管轄であったが、それ以外にも渡河の際の船橋架設や輦台(れんだい)の手配、旅館の整備、道筋の掃除など、多種多様な役負担がかかった。このとき、馬入川には先の上洛時や朝鮮通信使の来朝時と同じく船橋が架けられた。また、これらのうち相模国の藤沢宿から駿河国吉原宿(静岡県富士宮市)までの宿場の管理、道筋の旅館の整備、警備、その他新たに設置する建物などの入用については、伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)の江川代官所の管轄になっていた(『大磯町史』2近世 史料No.224)。

山西村(二宮町)川勾神社の「日記」によれば、この上洛に際して、先日より大磯宿の助郷を勤める村々から人足500人、馬251疋、その他通行の人足200人、馬100疋、合計人足700人と馬351疋を日々務めるようにとの触れがまわってきたという(『川勾神社日記(2)』。通常の通行とは異なる大通行時、たとえば将軍の日光社参や朝鮮通信使の来朝のような大事業時には、宿場や助郷役の村以外の村々からも寄人馬(よせじんば)と称して人馬の徴発を行なうのが常であった。だが、この上洛では、ことさらそうした調整は行なわれず、宿の人馬と当分助郷や増助郷を含めた助郷役を中心としたものだったようである。それでも川勾神社の「日記」には、「すべて道中筋が大いに混乱し、誠に近来稀なることである」とそのようすを伝えている。

もちろん、幕府としても往来の通行が過多になるにしたがって、それが宿場や助郷村々の疲弊の原因になっていったことは十分理解していた。そこで今回の上洛に際しては、前年、一橋慶喜が上京した際にかかった大量の人馬継立ての代償として、宿・助郷村々と川場に対して御仁恵御手当金が下されることになった(『大磯町史』2近世 史料No.]224)。一橋慶喜は幕政の改革を迫った島津久光や朝廷側からの働きかけで、文久2年7月に将軍後見職に任じられており、同12月に家茂上洛の先駆として上京したのであった。このとき大磯宿に下された金80両は、藤沢宿から原宿(静岡県沼津市)までの8か宿のなかでは小田原宿の153両、箱根宿の136両につぐもので、このうち30%にあたる24両が宿場に、70%にあたる56両が助郷村々に割り当てられた。

こうしていくつかの難題を抱えながら家茂は、文久3年(1863)2月13日5つ時(午前7時30分頃)、江戸城を後にしたのであった老中水野忠精(ただきよ)・板倉勝静(かつきよ)をはじめ供奉(ぐぶ)の総勢が3000人余、かかった経費が150万両余で、22日間をかけての旅であった。通常、江戸――京都間は15日くらいの行程であったから、少しゆっくりめの旅であったといえよう。事実、家茂は輿に乗るだけではなく自分で歩くこともあったし、名所旧跡を尋ねたり、特産物の献上を受けたり、あるいは駿河国由比宿(静岡県由比町)辺りの海辺では、海女(あま)のアワビ採りを見物するなど庶民の暮らしぶりをみる機会にもめぐまれた。

大磯宿付近のようすをたどってみると、15日に馬入川の船橋を越えて8つ半時過ぎ(午後3時頃)大磯宿の本陣小島才三郎家にはいると、翌16日は定刻どおり6つ半時(午後6時30頃)に出立して、大磯・小磯・中丸を徒歩で歩いた。梅沢本陣松屋(二宮町)で小休止をし、前川町屋の海を遊覧して、9つ半頃(午後12時30分頃)に小田原宿の本陣に到着している。松屋の主人作右衛門によれば、大磯宿についた家茂は、歩行で北神明町から海側の下町へ抜けて浜を見物したのだが、その家茂を一目拝もうと宿民が大挙して押しかけたという。上洛の直前になって、一般民衆が将軍を拝むことが許されたのである。ただし、その場では誰1人として咳払いひとつする者はなく、みなしかと頭を垂れていたため、実際に家茂の顔を拝んだ者はいなかったのだが、御供の面々もみな柔和で、これを制する者も「荒言」をいう者もなかったと述べている(『梅沢御本陣』)。また、このとき、浜に打ち寄せられた海草をみた家茂が、その名前を尋ねたところ、案内の本陣が「かぢめ」という名前であると申し上げた。すると家茂は、これを「勝目」と読み替え、「吉相之名」であるということで江戸城へ送るようにと申し付けたという(茅ヶ崎市史史料集第5集『藤間柳庵「太平年表録」』No.77)。

将軍上洛の規模といえば、最大を誇った寛永11年(1634)の家光上洛の際には、供奉の総勢が30万7千人で、行程も41日を数えた。秀忠でさえ、だいたい供奉10万人に27日ほどの行程をかけているから、それらに比べれば簡略であったともいえよう。事実、幕府も上洛に対して質素倹約に努めることとしている。ただ、大きな違いがあったとすれば、同じく軍事行進的な要素があったとしても、家茂の上洛では徒歩(かち)の者はすべて具足姿で、沿道は各藩の武装兵が防備を固め、沖合いを軍艦3隻が帆走して海路を護衛するというように、臨戦体制で進んだことであろう。京に着いたのは3月4日の9つ前(正午前)であった。

なお、家茂が出立するにあたっては、関東取締出役より寄場組合を通して、関東全域に在方の取締り強化が申し渡された(『寒川町史』3 資料編近世 史料NO.196)。上洛によって生じる政治的空白や警備の隙は何より大きな問題である。そうしたなかで幕府が恐れたのは、将軍の留守をねらって無宿や悪党どもが跋扈(ばっこ)することであった。ましてやこうした連中が徒党を組んで一揆を扇動するなど、在地がコントロールできない事態はあってはならないことであった。だから、寄場組合を通じた取締りの強化を命じたのである。

そのいっぽうで幕府は、家茂の上洛に供奉する一行のなかに警衛を目的とした浪士たちの一団を同行させている。これは前年の暮れに、出羽国庄内藩(山形県)の郷士(ごうし)で尊王攘夷の運動家清川八郎の献策を受けて組織したもので、江戸近辺に滞留する浪士たちのなかから武芸に秀でた者を集めた浪士組の一隊であった。総勢248名におよぶその一団は、それ自体が江戸近辺に滞留する浪士――浪人対策の一端でもあった。少々先に話を進めれば、清川は京都につくと積極的に尊王攘夷派の連中と結び、その実践に向けた活動を続けていた。さらに江戸では、横浜沖にイギリス船が集結していたことから、4月には警備のために200名余の浪士たちとともに江戸に戻されている。このときに清川と対立して京に残ったのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司らで、後に新選組を結成したことは改めていうまでもない。また、江戸に帰った清川は、直後に幕府の手によって暗殺されるが、その一隊は新徴組(しんちょうぐみ)として組織され、出羽国庄内藩(山形県)の支配下に置かれて江戸市中の警備にあたることになる。将軍の上洛にあわせ、東海道を江戸と京を行き来するなかで結成された、いわば双子の浪士警衛集団であった。

※徳川家茂肖像画

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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