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幕末維新の騒乱と東海道 Vol.09 禁門の変と将軍御進発

文久3年(1863)12月18日、将軍徳川家茂軍艦翔鶴丸に乗り込み、順動丸・大鵬丸・八雲丸・長崎丸の4隻をしたがえて江戸を出帆した。この日は三浦郡の浦賀湊(神奈川県横須賀市)に碇泊したのだが、ここで家茂は当地特産のスバシリ漁(ボラの稚魚)や網遣いなどを見学している。興に乗ると自ら網をとって魚をすくった。先の還御の際も、またつぎの還御の際にも同じように浦賀に立ち寄っては漁を楽しみ、捕った魚は江戸などに廻送したりもしている(『新横須賀市史』資料編 近世Ⅰ 史料306)。近年の研究では、こうした将軍の行為を”見せる将軍”として、そのページェント性を強調する研究がさかんである。もちろん、そうした思惑はその通りだとして、史料の中の将軍家茂には、何かしらの無邪気さを感じざるを得ない。現代の感覚とは違って、すでに元服を済ませた成人ではあるが、若干18歳の、青年というにはまだ幼さの残る将軍である。その双肩にかかる時代の重圧をしばし忘れて楽しんだ、つかの間の余暇だったと思いたい。

いっぽう陸路東海道では、家茂が上洛する前から供奉する大名や幕府役人の通行でごった返していた。大磯宿では、12月9日から翌年正月19日までの分として、人足1万6,971人、馬3,345疋の負担を計上している(『相州淘綾郡大磯宿伝馬関係資料 第2輯』)。家茂が出立する20日近く前からすでに負担がはじまっていたのである。これを大磯宿の助郷高1万4538石余で割れば、高100石につき人足が116人、馬が23疋8厘の割合となるという。将軍自らが通行しようがしまいが、たいへんな負担であったことにかわりはなかった。

家茂が京都についたのは翌文久4年(2月に元治と改元)正月15日のことである。年越しの上洛であった。しかしながら、そうした家茂の意気込みもむなしく、参与会議そのものが解散して霧消したことから、結局、その目的をはたすことはできなかった。家茂は5月7日には京都を出発して大坂に行き、16日に大坂を出帆すると、21日には江戸に戻っている。供奉した大名や幕臣たちは、陸路東海道と中仙道にわかれて下ることとなった。とくに東海道筋では、東帰の時期がちょうど梅雨時にあたることから、箱根より東の川々のうち酒匂川・馬入川(相模川下流)・六郷川(多摩川下流)の大河川筋の役人どもに対して、川留めが多くなることを懸念し、川明けの際に速やかに人馬を継ぎ立てることができるように配慮することが求められた。また、箱根宿から品川宿までの往還沿いで宿場の間に位置する村々に対しては、宿場が継立てや休泊等の出費が嵩んでいるとして、供奉の面々で急病人が出た際の薬用の手当てや、荷物持ち送り人足・薬人足の雇い替えについての出金を求めている(『大磯町史』2近世 史料228)。負担は急速に、しかし確実に街道沿いの村々を巻き込んでいった。

その頃京都では、公武合体派の不調をみて、勢力の挽回をもくろむ尊王攘夷派の動きが先鋭化していた。ことに市内に潜行していた長州藩、熊本藩、土佐藩等の尊王攘夷派の藩士・浪士らは、中川宮以下の公卿、大名らの暗殺して蜂起する計画を立てていた。だが、この計画は事前に察知され、6月5日、京都三条河原町の旅館池田屋に20数名が集結していたところを新選組に急襲され、そのほとんどが捕殺された。前年に家茂とともに上洛した浪士組から生まれた新選組の名を一躍高めた事件―池田屋事件である。家茂の再還御から半月後のことである。

この事件を契機として長州藩では、藩内の激派が実権を握ることとなり、武力による上京を決定する。7月19日、挙兵した長州藩兵は、三手に別れ、御所をめざして進軍を開始した。会津・薩摩などの藩兵と交戦し、京都御所の蛤門(はまぐりごもん)に迫ったが、ここで決定的な打撃を受け、多数の戦死者を出して敗走した。久坂玄瑞ら長州藩尊王攘夷派の幹部は自刃した。蛤御門の変あるいは禁門の変と呼ばれる戦闘である。京都の町もこのときの兵火で3万戸が焼かれ、これをどんどん焼けもしくは鉄砲焼けと今に伝えている。このとき、小田原藩も京都警衛に出陣し、御所9門のうち、内門の一つ、「日之御門」(建春門ともいう)を守っていた。蛤御門とはちょうど反対となる位置で、小田原藩兵そのものは戦闘には参加していない。しかしながら、このどんどん焼けによって、藩の本陣であった寺町の誓願寺をはじめとする陣所が焼失してしまうという憂き目にあっている。

長州藩の挙兵上京は、朝廷の怒りをも買うこととなり、変直後の同月23日には早々に長州征討の勅命が下された。これを受けて幕府は、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)を征長総督に任命し、西国の21藩に出兵を命じるとともに、8月には将軍家茂の「御進発」を布告した。進発は軍隊が戦場に向けて出陣することをいうが、ここでは将軍直々の出陣であることから、接頭語をつけて自ら「御進発」と呼び習わしている。それは、これまでにない大軍隊が東海道を西に向けて行軍することを明言することでもあった。

※現在の建春門(日之御門)

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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