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幕末維新の騒乱と東海道Vol.10 街道負担の増大と御国恩

将軍の御進発が布告されると、これにすぐに反応したのが、東海道の宿駅や助郷役の村々であった。嘆願書や訴願の数が目にみえて増えてくる。その悲痛な叫びを聞いてみると、うち続く大通行の負担の、その極致ともいえる事態に、積み重なった不満や不安が一挙に噴出した感がある。

大磯・平塚両宿の役人総代と助郷惣代は、元治元年(1864)8月15日付で道中奉行に嘆願書を提出した(『大磯町史』2近世 No.229)。

近年は「大御用」が引き続き、ただでさえ継立ての人馬が嵩んで「極難疲弊」しているなか、再度の上洛に還御の大賄いでは「精際」の微力を尽くし、「義勢」の励まし合いをもってようやくにして滞りなく勤めることができたものの、当街道筋一般の「疲労切迫」は紙上に尽くしがたいと訴える。とくに大磯宿は上り4里(約16キロメートル)、平塚宿は下り3里の(約12キロメートル)の長丁場で、いずれも駅路に馴れた「強人足」でなければ勤めがたい。さらに大磯宿は酒匂川、平塚宿は馬入川(相模川河口部の別称)に挟まれた宿方で、近年は海面吐き口の寄せ洲が床高になって、わずかの雨でもたちまち川留めとなってしまうなど、両宿が置かれた負の条件のいちいちをあげて、他の宿助郷にない費えで相続もおぼつかないないのだという。

たしかに大磯宿から小田原宿までの4里という道のりは、東海道のなかでも小田原宿から箱根宿間の4里8町(約16・5キロメートル)につぐ2番目の長さである。また、平塚宿と藤沢宿の間も4番目の長さで、要するに大磯宿と平塚宿が合宿(あいのしゅく)という形で、共同で人馬役を負担していかなければならない理由もここにあった。さらに酒匂川と馬入川の2大河川の存在である。両宿では、兼ねてから宿助郷の「御救筋御主法」を嘆願していたところ、この度の京都の情勢悪化で守衛の大名たちが昼夜をわかたず絶え間なく上下している。いずれも火急のことであれば、前もって人馬の準備をしておかなければとても間に合わない。とくに先月の24日以来というから、ちょうど長州征討の勅命が下った直後である。その数も格段に激しさを増している。こうした時節柄において街道筋の人足は「専務御必用」であることは重々承知してるけれど、このように宿助郷が衰弊して「危急存亡之姿」になってはもはや勤続すべき術も尽き果て、宿役人どもは日夜寝食を休めることができず、進退の手段もなく「当惑心痛」している。そこで両宿の願意は、定助郷と当分助郷の人馬を「打込勤」めにしてほしいということであった。負担を平等にしてほしいというのであろうが、それはそのまま当分助郷の負担増を求めている。当分助郷は、文字通り、当分の間、臨時に助郷役を勤めることをいう。いずれにしても、今後は京都御用の通行にとどまらず、すべての往来に関して「打込勤」めにしてほしいというのである。

さらにこの8月には、別に品川宿(東京都品川区)から大津宿(滋賀県大津市)までの53か宿の宿役人惣代と助郷惣代が一丸となって、その窮状を道中奉行に訴え出た(『大磯町史』2近世 No.229)。

「当街道の宿々助郷について、近年御用御休泊の人馬立て辻が莫大に嵩み、疲弊が募っていることについては今さら申し上げるまでもありませんが」と、いささか冷ややかにはじまるこの嘆願書でまず注目されるのは、それがとくに「去ル戌年御下向を始」めとする「御変革」、すなわち文久2年(1862)の勅使大原重徳(しげとみ)と薩摩藩兵をしたがえた島津久光の下向を大きな転機としてとらえていることである。それから両度の上洛にいたるまでの「未曾有之御賄事」は、たしかにそれからはじまったのだと東海道の宿場町は意識していたのである。

それからこれまでも何度も嘆願をくりかえしては、宿駅ならば御定めの人馬数を減らす、助郷についてもその範囲の拡大や拝借金など、さまざまな「御主法御改革等」を願い出てきた。そうした最中にも通行は増大し続けてさらに困窮が募るなか、近々東海道陸路の「御進発」が行なわれると聞き、私どもの進退もここに極まって途方に暮れている。とはいえ、200年来の「御恩沢」に浴している「御国民であれば、死力を尽して粉骨するつもりではあるが、人数や精力には際限もあり、とくにこの度は上洛のときとは違って、軍用の器械や道具類の多少、供奉の役人方をはじめ、各大名家の発向の日割や順番など、どのようになるのかと深く心痛している。2度の上洛の費用は、宿々の拝借金や宿助郷の御手当金、公定人馬賃銭の5倍増(5割増し)前金渡しなど、御救助の手をさしのべて下さったことでようやく凌いできた。しかしながら、ことここに至っては、年来積もり積もった宿助郷の借財に、上洛の残りの債務など返済のめども立たず、金銭融通の道などさらにない。とにかくここまで衰弊に陥ったのは、先の御上洛の際に人馬継立ての費用など「後窮」を顧みずに、「御国恩」に報いるときは今と、ただひたらすらに励んで御役を務めてきたためであって、今さら手段工夫も立たない…等々、これまでのいきさつ、とくにかつてなかったここ数年の過重な負担、それにともなう困窮の現状など、できるだけ詳しく、しかもくりかえし述べている。そしてもはやこのままでは宿助郷役人どもは駅場から逃げ去るしかないのだと訴えるのである。

そこで東海道の53か宿が熟考して出した結論というのが、先の上洛継立てで使用した人馬より一等減じていただくか、さもなくば「別格之御主法」を行なって、無難に継立てができるように「御仁慈之御沙汰」をお願いしたいということであった。要は継立て人馬の数を減らすか、相応の助成金の支給を願い出ているわけである。

山西村梅沢(二宮町)松屋本陣の記録によれば、この度の御進発について、9月2日に大磯宿の問屋・年寄から内々の知らせが届いたとある。そのなかで、今回の進発の陣容は、供奉の総勢が2万5,000人、乗馬が2,500疋、小荷駄馬が2500疋で、石高100石につき刈草を1駄ずつ、ほかに粟がら等を用意するようにと指示されたという(『梅沢御本陣』)。

ただ結局、このときの長州征討で実際に家茂自身が進発することはなかった。先発隊として出陣した征長総督徳川慶勝(よしかつ)が大坂で開いた軍議で、11月11日までに諸藩は所定の場所に到着し、同18日を総攻撃の日と定めたのだが、長州藩の謝罪恭順によって攻撃は中止となった。禁門の変で敗退、そして8月2日の夜にはじまった、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国の艦隊による下関砲撃事件で大打撃を受けたことから、藩内では尊攘強硬派を押さえて守旧の俗論派が権力を握り、謝罪恭順の意志を選んだのであった。その証しとして、福原越後、益田右衛門介、国司品濃(くにししなの)の3家老および4参謀を処刑し、藩主毛利敬親父子の謝罪、山口城の破却、三条実美ら長州藩に身を寄せていた五卿の引き渡しなどの要求に応じた。幕府が撤兵令を出したのは12月であった。

だが、その後長州藩内では、下関で決起した高杉晋作らが藩の主導権を奪い、木戸孝允らとともに俗論派を退けて、挙藩一致の軍事体制を固め、藩論を抗幕へと導いていくことになる。こうした状況を察知した幕府は、翌慶応元年(1865)4月、長州藩に容易ならざる企てがあるとして再征伐を触達した。そして翌5月16日、今度は将軍家茂自らが文字通り御進発の兵を進めたのである。

※幕末大磯宿の町並み図

 

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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