Professor's Tweet.NET

幕末維新の騒乱と東海道Vol.11 拡大を続ける東海道の負担

長州藩征討のために、江戸城を早朝に発輿した将軍徳川家茂は、川崎宿、保土ケ谷宿、藤沢宿に宿泊して、19日には文久3年(1863)の上洛時と同様に大磯宿で1泊した。翌日はこれも上洛時と同じく山西村梅沢(神奈川県二宮町)の松屋で休憩して、その日は小田原城を宿所としたのだが、ここで松屋の「御小休帳」に興味深いエピソードが綴られている(『梅沢御本陣』)。

茶屋本陣の松屋では、休憩する大名や幕府の役人、公家などに献上品を差し上げ、休息料とあわせて心付けの礼金を受け取る仕来りとなっていた。ここで松屋の主人作右衛門が献上品として用意したのが、白木の三宝(三方)にそれぞれ鰺と鮎を載せたもの1台ずつと、別におはぎを載せた三宝が1台であった。おはぎを献上するにあたって作右衛門は、「この度の御進発は、長州萩への御進発であり、これにより早速『萩』を公方様がお召し上がりになることと存じます。つきましてはそのために『おはぎ』を献上つかまつり、『縁喜』(縁起)祝いの言上としたい」と存じますと述べている。長州藩の居城である萩になぞらえて、おはぎを召し上がることは萩を食らうことに通じて縁起がいいというのである。なかなかの演出である。思惑どおり、将軍家茂はもとより、老中・若年寄をはじめとする供奉の面々もたいそう喜んだという。さらに家茂は、老中や若年寄などにも食べさせたいとしておはぎの追加を命じたが、急なことであずきが間に合わない。その旨を申し上げると、あずきがなくともよいというので、白飯をおはぎ見立てて差し上げた。そのときに作右衛門は「はぎの白(萩の城)」を召し上がることで、これまた「縁喜」がよいことですと言上し、さらに家茂らを喜ばせている。だが、現実はそううまくはいかなかった。家茂が大坂城に到着したのが翌閏5月16日で、21日に京にのぼって御所に参内を済ませると、24日に再び大坂城にはいってここを長州征伐の本営とした。

そのひと月後、6月21日のことである。東海道筋の宿場町で、今度は品川宿から小田原宿までの9か宿の宿役人と惣代がまたもや道中奉行に対して嘆願書を提出した(『大磯町史』2近世 No.230)。この度の「長防御征伐」について東海道の宿駅に対しては、従来の定助郷以外にも近在から甲斐国にいたるまで「平等打込勤」めの増助郷(ましすけごう)を命じていただいた。ただし、五街道・脇往還・枝道にかかわらず、これらの村々で助郷役を勤めている場合は、その分の石高を除いて割り当てるために、勤めるべき村高に差があった。その是正をお願いしたいところ、今回に限り、ほかに助郷を勤めていたとしても村高の5分どおり(50%)を勤め高とするということで触れを流していただいたとある。増助郷も臨時的な助郷の拡大化策のひとつで、内実からいえば加助郷とほとんどかわらない。ここでは従来から勤めていた宿駅や継立場への助郷役負担が考慮されるのは当然のことであったが、それを無視して一律に賦課がかけられたことに緊急性が明示されている。これが要点の第1である。

とはいえ、今回の御進発が膨大な負担であることは間違いなく、これまでも公定の人馬継立賃銭を7倍5割(75%)増賃銭とするなど種々の御仕法を行なっていただいたが、それでも近来の宿場・助郷村々の窮迫はいうにおよばず、そのうえ、文久2年(1862)の御変革に両度の将軍上洛、水戸藩天狗党の追討、京都警衛や日光法会等々、無数の人馬が「連年数月」うち続き、昼夜の絶え間もなく続くので、精力も疲れ果て、もはや「危急存亡極弊」に陥ってという。文久2年の薩摩藩島津久光の率兵出府が、街道の負担の大きな転機となったと宿側が意識していたことは前回述べたとおりである。「御変革」とはその後の幕府の改革、いわゆる文久の幕政改革を示している。さらには将軍家茂の上洛、水戸藩天狗党の乱、京都警備のために上洛する各藩の兵等々負担の増加は限りがないと嘆くのであった。こうしたなかで、再び将軍自らが陸路で御進発されるというのである。すでに5月5日から先発の軍用器械や道具の運搬に付属の大名方の通行でひきもきらない。わけても将軍の通行当日は、人足3,800人余を調達せよとの命令ではあるが、宿で準備できる精鋭の人足は1,500人に過ぎず、残りは往還の稼人足などを雇い上げて間に合わせるしかない。そこで宿助郷役人一同が会評のうえで提起したのは、たとえどんなに高賃であっても、御進発当日の本隊の御用物・道具類の運び人足をおよそ1,000人と見積り、品川宿より大磯宿までの8か宿で1宿125人ずつ強壮の人足を選んで差し出させ、品川宿から小田原宿までの間を継ぎ通しとする。また、小田原―三島間は、箱根の山越の難所であるので、三島宿から人足1,000人を出させて「最合継(もあいつぎ)」(共同で継ぎ送ること)とすることも取り決めているという。さらに、当日は旅館や休息所での食物売買がいっさい禁じられているので、間々の村々や近在に申し付けて握り飯の焚出しを行なって、先の「通し人足」どもに提供させるとも述べており、これらを「継通(つぎとおし)仕法」と呼んで理解を求めている。これが要点の第2である。ただし、これはあくまでも将軍家茂の御進発隊本隊にかかわるもので、供奉の大名方総隊に必要な継立て人足は別に5,000人余と見積もっている。

宿場や助郷の村々としては、これらの負担を勤め上げるには疲弊が進みすぎていて、もはや術も尽き果てていると、また愁嘆をくりかえすのであったが、ここではとくに御進発がちょうど田植えの時期にあたることから、その影響を懸念する声が強調されてもいる。そこで宿・助郷村々は、増加助郷の村々については、将軍が還御するまでそのまま据置きとし、非常の時節でも必要な人馬が差し支えないようにしたいと訴えるのであった。そうすれば、田植えの遅れも取り戻せるであろうが、もしそうでなければ定助郷の村々は田畑の相続はもちろん、もはや退転するしかないという。またここでも定助郷と増加助郷を打ち込み―平等勤めとすることを求めている。これが要点の第3であり、この嘆願書の主眼であった。

これらの願意や要求がどれだけ受け入れられたかは、残念ながら確認することはできない。23日付の回答では、他への影響もあるので、還御が済むまで当分助郷を命じておくことはできないとしている。また、品川宿から小田原宿までの「継通仕法」に関してもその実施は確認されていない。ただ、慶応元年(1865)から2年にかけて、東海道の各宿場ごとに当分助郷の大規模な増強が行なわれたことはたしかである。将軍直々の御進発に関する負担は、先発隊が出発した5月5日から将軍が大坂城に到着した閏5月16日までひと月以上も連綿として続いており、これから先の負担増もまた不透明な状況であった。

ここで大磯宿の例をみてみよう。大磯宿の助郷村として、慶応2年(1866)2月7日付で、相模国三浦郡長沢村(神奈川県横須賀市)等6か村、同高座郡田名村(同相模原市)等11か村に加えて、武蔵国でも男衾(おぶすま)郡木呂子(きころ)村(埼玉県小川町)等22か村、比企(ひき)郡岩殿(いわどの)村(同東松山市)等8か村、高麗(こま)郡高萩村(同日高市)等9か村、総計51か村が新たに当分助郷に指定されたことが確認できる(『大磯町史』2近世 No.59)。この段階での通常の助郷は、西小磯村をはじめとする淘綾郡と大住郡の定助郷村々が30か村、友牛村(平塚市)など大住郡の加助郷村々が18か村であった(『大磯町史』2副読本58頁)。

なお、これにあわせて、品川宿から箱根宿までの10か宿が「十ケ宿組合」として当分助郷人馬の具体的な勤め方について議定書を交わしている。これらは、別に「関東組合」とも称しているが(『大磯町史』2近世 No.230)、一同で嘆願書を提出することが多くなることからみても、未曾有の負担増のなかで、次第に宿場同士が結束を固めていったようすをみることができる。ちなみに「関東組合」という名称は、箱根関所から東方に位置する宿場の組合ということで、三島宿以西の宿場は関西」と称されている。「関東」と「関西」を区切る境が箱根の山であったということである。

ただ、こうした助郷負担の拡大は、とくに遠隔地の村々にとって多大な負担を強いることになった。事実、このときに当分助郷に組み入れられた武蔵国男衾郡村々のうち、木呂子村等8か村は、正人馬ではとても御用向きを勤めることができないとして、勤め高100石につき金7両位をめどに示談金を差し出すことを取り決めている(『大磯町史』2近世 No.60)。このように正人馬―実際の人馬勤を金銭で代替することを代銭勤めという。この代銭勤めの金額自体は、先の「十ケ宿組合」の議定書の基準に準じたものであった。

いずれにしても、幕末期における街道負担の増大は、定助郷や加助郷などの指定助郷のほかに、当分助郷や増助郷を増大化する方針で進められた。それは本来ならば寄人馬(よせじんば)など、大通行にあわせた負担の体制をとるべきはずの将軍の上洛や御進発にもそのまま適用されたのであった。ただし、この時期の当分助郷の地域的拡大は、実際の人馬の徴発というよりも、助郷にかかる費用を広く負担するという意図が大きかったといえよう。その質量の大幅な拡大ゆえに、新たに当分助郷に指定された村々の負担免除運動が、広範に展開されてくるのもこの時期の特徴であった。それはまた、幕末激動の時代にあって宿・助郷制度の限界をも示すものでもあった。

※将軍家茂長州征討御進発の図(大磯宿)

<A rel=”nofollow” HREF=”http://ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_mfw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fomikun0a-22%2F8001%2F02925ba7-ef6f-44df-820a-6ff1ffaaad63&Operation=NoScript”>Amazon.co.jp ウィジェット</A>

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
Exit mobile version