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幕末維新の騒乱と東海道Vol.12 御国恩・御国民・御国役

とくに慶応期(1865~68)に東海道の宿場や助郷村々から提出された嘆願書には、ある特有の文言がひんぱんに使われている。先にも少し引用しておいたが、「御国恩を奉報候御時節」「弐百年来之御恩沢ニ浴候御国民」「永世安住之御国民重太之御国役」など、「御国恩」「御国民」「御国役」といった文言である(『大磯町史』2 近世 No.229・230)。ここでいう「国」は、明治以降の近代的な「国家」と直接につながるものではもちろんない。藩領を意味する「国」でもない。「弐百年来之御恩沢」という表現に代表されるように、その対象はあくまでも幕府であり、あるいは徳川家康以来将軍家によってもたらされた「平和」の体制である。とくに「御国恩」という概念は、対外関係の緊張、海防の危機が叫ばれるなかで出てくる思想のひとつで、支配階級・被支配階級相互に共有されていったといわれている。

話は嘉永2年(1849)にさかのぼる。この年の閏4月8日、艦長マゼソン率いるイギリスの軍艦マリナー号が三崎沖(神奈川県三崎市)に来航した。来航の報を受けた浦賀奉行所では、事前の取り決め通りに、1番船から6番船までの乗留船に与力・同心・通詞などを乗せて派遣し、千代ケ崎台場より10町ほど(約1Km)の沖合にマリナー号を停泊させた。マリナー号は翌9日には「ハツタライト」という小船に乗り込んで近辺20町(約2・2Km)四方の沖合を計測したり、海鹿島(あしかじま)に上陸しては所々の様子を書写したりしている。マリナー号は測量船の役割も兼ねていたのである。浦賀奉行所では、10日早朝から出帆するようにといろいろと掛け合ったが、取り合う様子もなく、逆に日本のことについていろいろと問いかけられる始末であった。それでも薪水や食糧を受け取ると、12日には伊豆方面に向けて出帆した。ところが、その後マリナー号は、伊豆大島(東京都大島町)に上陸して測量を行ったり、下田でも滞船の上で上陸して測量などを行なったのである。

このような事態を憂慮した老中阿部正弘は、同年12月28日付で「沿岸警衛手当向」すなわち海防強化についての申渡しを行った(『幕末御触書集成』第6巻、№5207)。この申渡しは、日本の全土に向けて発せられたことに一つの大きな意義があったが、ここではまず、当年浦賀に渡来したイギリス船(マリナー号)が、伊豆国大島や下田に上陸しては「横行」の振舞いをしたことに大きな危機感を抱いている。そのまま差し置いては「御国威」にも関わることであるという。そこでこの申渡しでは、今後戦闘に至る場合も想定されていて、そのために実用第一の警衛を心がけるように説いている。それには各大名家がそれぞれの分限はもとより、領地海辺の広狭、山崕(さんがい)、海浜の嶮岨(けんそ)などの地理的条件や、砲台・土塁などの位置、人数の配当など、家々の実情に応じて実用的な警衛手段を構築することが肝要であるというのである。その上で阿部は次のように述べる。

おおよそ日本国の中に含まれる所であればどこであろうとも、万が一にも「異賊」どもが「御国威」を蔑ろにして不敬不法の所業をすれば、貴賎上下の区別なく、誰もがこれを憤るだろう。ついては日本全体の力をもってこれを拒むというのならば、「諸侯は藩屏(はんぺい)の任を忘れず、御旗本の諸士、御家人等は御膝元の御奉公を心懸け、百姓は百姓だけ、町人は町人だけ」それぞれの力を持ち寄って、それぞれの立場で御奉公に励むことが、「これ二百年来昇平の沢に浴し候御国恩を報ずる儀」である。そのことを厚く心懸けるならば、それはすなわち「総国の力」を尽くすことに相当するので、「沿海の儀」については、相互に「一和」の力を尽くすようにせよ。

ここでは、身分上下の区別なく、「日本国」の「全人民」の結集を呼びかけ、それが「御国恩」に報いることになるという。この「沿岸警衛」強化令が、「御国恩」海防令と呼ばれるゆえんである。その文言に示されているように、ここでいう「御国恩」の対象もまた、あくまでも幕府であり、あるいは徳川家康以来将軍家によってもたらされた「平和」の体制である。

また、天保10年(1839)に、目付の鳥居耀蔵とともに江戸湾の海岸見分を行なった伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)代官江川英龍は、例え異人が上陸するようなことがあっても防禦の手当てが行き届いて、「御国体」が失われないようにすることが専一であると述べている(『新横須賀市史』資料編近世Ⅰ No.251)。「国体」は水戸学の根本となる理念であった。また、弘化4年(1847)に、三浦半島側を警備する武蔵国川越藩と近江国彦根藩、房総半島側を警備する武蔵国忍藩と陸奥国会津藩の4藩に対する達書では、異国船を穏便に取り計らうことの前提として、「武辺の意地」によって「国家の害」が生じることを戒めてもいる(『新横須賀市史』資料編近世Ⅰ No.256)。

その一方、天保14年(1843)、天保改革の一環として行なわれた日光社参の際には、浦賀の商人たちが、浦賀警備にかかった費用の立替え代金の受取りを固辞する理由として、「御国恩」のためという文言が用いられた。この浦賀商人の事例は、「御国恩」という文言が使われる比較的早い例であった。ただし、ここではそうした地域的な利害が「国」-徳川の世と結び付いて語られてくるというのが重要であり、そうした社会的な認識が確かに生まれつつあった。そのようにみてくると、阿部の御国恩海防令は、内憂外患の時代にあって、そうした様々な「国」意識を前提としながらも、「御国恩」-幕府・徳川の御恩を「日本」に住む「人民」の結束点として一気に表面化させたところに意義があったといえよう。

事実、この後、「御国恩」という文言は幕府や藩からの達書などにも頻出するようになるのだが、その一方で、東海道の宿場や助郷村々の嘆願書みられるということ自体が興味深い。海防動員と同様に、交通夫役もまた、個別の領主権を超えた役負担である。だからことさらにそうした側面が強調されたともいえよう。そもそも江戸時代に「日本」という「国」に対する枠組みがあったかどうかも問題ではあるが、存在そのものはあったと言ってよいといわれている(渡辺浩『日本政治思想史[十七-十九世紀]』東京大学出版会、2010年)ただ、意識のされ方という面でみると、頻繁に来航する異国船や開国への圧力の中で、おぼろげながらも次第に、諸国に対峙する「日本」という「」の形―アイデンティティが形成されていったのもまた、事実であろう。例えば従来「国役」は、堤防工事等の河川普請や、朝鮮通信使通行のための夫役(ぶやく)などを関係する国々、この場合は、相模国や武蔵国等の旧国になるのだが、この国を単位として徴収される国役(金)の意味で用いられていた。東海道の宿村が嘆願書の中で用いた「御国役」は、旧国を単位としているのではなく、「国家」のための「」として捉えていることは明らかであろう。ここでは、幕末の動乱が続くなかで、「」という概念が、民衆の側からさらに明確に意識されてくること、多様化することを重視したいのである。

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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