Professor's Tweet.NET

幕末維新の騒乱と東海道Vol.14 戊辰箱根戦争

徳川慶喜追討のための東征軍は、史料的には官軍と書かれているのが一般的で、そのほかにも親征軍と呼ばれたり、学術的は新政府軍と表記されることも多い。ここから先は官軍に統一することにしよう。この官軍の派兵に対して小田原藩は、当初、先鋒総督府参謀に勤王の請書を提出するなど、恭順の意志を表明していた。ところが、小田原近辺に出没していた遊撃隊が、慶応4年(1868)5月15日にはじまった上野戦争で彰義隊が壊滅したという情報に接して、その動きを先鋭化させはじめると、藩内における佐幕派の復活にともなって、小田原藩の藩論も大きく動揺することとなった。

遊撃隊は旧幕府軍の一隊で、慶応2年(1866)に諸銃隊を合併して再編された。この遊撃隊を率いていたのが、弱冠21歳の下総国請西(じょうざい)藩主(千葉県木更津市)林昌之助忠崇(ただちか)であった。忠崇の説得もあって小田原藩は、振り子を大きく揺らすように反官軍に傾いていくこととなる。5月21日に官軍と遊撃隊が箱根(神奈川県箱根町)で戦闘を開始した時点では小田原藩は、官軍からの攻撃命令を受けて遊撃隊に反撃を加えた。ところが、遊撃隊から小田原城内に、前将軍の慶喜が軍艦で伊豆下田(静岡県下田市)に上陸して小田原城に向かうという偽の情報がもたらされると、一挙に勤王から佐幕へと立場を変え、翌21日未明には遊撃隊と同盟を結んで、小田原城に招き入れてしまったのである。さらにこの21日の戦闘では、豆相軍監(ずそうぐんげん)であった中井範五郎が遊撃隊士によって殺害され、もう1人の軍監の三雲為一郎も追い返されて、小田原から船で命からがら脱出するという事態になった。三雲からの報告を受けた大総督府では、早速、その糾明のために問罪使として穂波三位を大磯宿まで派遣することを決めた。きつく詰問するので、25日までに大磯宿まで来てきちんと釈明するようにと強硬である(『大磯町史』2近世No240)。まさに一触即発の状況であった。

こうした状況に東海道沿いの宿村々は、まさに戦々恐々としていた。柳島村(神奈川県茅ヶ崎市)の名主であった藤間柳庵(善五郎)が書き留めた記録によると、このとき、小田原勢は先陣が大磯・平塚辺まで繰り出し、官軍は相模川の東に陣取るという話が流れてきたという。大磯宿と平塚宿は、天保改革の際に幕府代官支配所から小田原藩領に代わっていた。だから小田原藩からはここまで兵を出す噂されたのであろう。そのため、平塚・平塚新宿・馬入・須賀(以上、神奈川県平塚市)・柳島・中島・今宿村(以上、同茅ヶ崎市)などでは、村々が「驚揺」して逃げ出す準備をはじめていたというのである。しかしながら、24日には小田原征伐のための官軍先陣隊700人が、無事に馬入川を越えて平塚・大磯の両宿に宿泊したのではじめて安堵した。とはいえ、戦闘の模様によってはいつ襲撃があるかもしれないと心痛していたところ、25日には酒匂川も無事に越えたとのことであるなどと、当時のようすを生々しく綴っている(『藤間柳庵「太平年表録」』No.116)。

また、やや遠いが、小田原藩の飛地領である駿河国御殿場村(静岡県御殿場市)では、家臣たちは朝廷を指示しているのに、藩主の大久保忠礼だけは徳川家につくことを主張しているといった噂も流れてきていた(近江日野商人館蔵 山中家文書)。忠礼は、讃岐国高松藩(香川県高松市)松平家からの養子で、実父の松平頼恕(よりひろ)は水戸藩主(茨城県水戸市)徳川斉昭の兄であったから、慶喜とは従兄弟同士にあたる。御所警備から禁門の変、そして天狗党の追討と幕末京都の大騒擾期には、慶喜にしたがって小田原藩主であった忠礼も行動をともにしている。その際に何らかの接触があったことは想像に難くないが、確かなことは不明である。そういったことどもを含めて、真偽のほどもわからないままにさまざまな情報が飛び交っていた。

その頃、小田原城内では、23日に江戸芝(東京都港区)の藩邸から急きょかけつけてきた留守居役の中垣斎宮(いつき、別名兼斎けんさい)によって、再び藩論を勤王に引き戻すべく必死の説得が試みられていた。藩論が変わったのは国元の小田原だけであって、江戸藩邸にしてみれば、それはもはや愚行でしかなった。中垣の説得によって、ようやくにして藩論は勤王に戻り、遊撃隊との同盟を破棄することが決定した。

早速、小田原藩は大総督府への釈明に乗り出すとともに、遊撃隊に対しては、藩主自らが挙兵の中止と小田原からの退去について説得を行なった。その説得が聞き入れられたのが24日で、その夜先遣部隊は湯本村の名主福住九蔵方に泊った。福住九蔵は、二宮尊徳の高弟として名高い福住正兄(まさえ)その人で、今も続く旅館福住楼の主人であった。翌25日になると遊撃隊は残らず東海道を箱根方面へと向かい、湯本の米屋門右衛門を本陣とするいっぽう、それぞれ三枚橋・湯本茶屋・畑宿・箱根宿新谷町の4か所に分散止宿した。小田原の東方で何もおこらなかったのは当然である。そしてこの25日の朝、藩主忠礼は小田原城を出て本源寺にはいり、謹慎の意志を示したが、事件を重くみた大総督府は、忠礼の官位を剥奪したうえで城地没収の処分を下した。その上で、藩の重臣から出されていた遊撃隊掃討の嘆願については、そのまま認められることとなり、26日、箱根は湯本村の山崎で再び遊撃隊と相まみえることになる。「箱根山崎の戦い」と呼ばれた戦闘である。それも背後を長州・岡山の両藩兵が監視するなかでの戦いであった。小田原藩は、激闘の末、ようやくにして遊撃隊を撃破し、敗走させたのであった。

小田原藩に対する戦後処分は、責任者として家老の渡辺了叟(りょうそう)が切腹、同じく家老の吉野大炊介(おおいのすけ)、年寄の早川矢柄(やがら)、御用人の関小左衛門が国元で謹慎となった。また、家老の岩瀬大江進(おおえのしん)も自ら責任をとって自害している。いっぽう、藩主の忠礼は永蟄居(えいちっきょ)となり、親類から後嗣を立てることが許された。後嗣には、支藩である荻野山中藩(神奈川県厚木市)の藩主大久保教義(のりよし)の長男岩丸(のちの忠良)が選ばれ、7万5,000石が与えられた。当時12歳であった。3万3,000石の減封とはいえ、かなり寛大な処分である。なお、忠良は、明治10年(1877)の西南戦争に参戦し、21歳の若さで熊本において戦死している。

※『小田原市史』通史編 近世より引用 

<A rel=”nofollow” HREF=”//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?rt=tf_mfw&ServiceVersion=20070822&MarketPlace=JP&ID=V20070822%2FJP%2Fomikun0f-22%2F8001%2F543606e9-b097-48f9-a70b-9694c9c8fae4&Operation=NoScript”>Amazon.co.jp ウィジェット</A>

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
モバイルバージョンを終了