幕末維新の騒乱と東海道Vol.17 駅逓司と駅逓改革

歴史コラム
幕末維新の騒乱と東海道Vol.17 駅逓司と駅逓改革

元号が明治に変わると、宿駅や助郷の体制にも大きな変革の波が押し寄せていた。明治新政府はまず、慶応4年(1868)4月に発布した政体書にもとづいて官制の改定を行ない、太政官の下に会計官を置き、その管下のひとつとして駅逓司(えきていし)を設置した。さらに駅逓司に附属する役所として、駅逓役所が設置された。ただし、翌年に民部官が新設されると、駅逓司自体は民部官管下に移された。

明治元年(1868)9月、「駅逓規則」が制定された。これによれば、①駅逓の法則はすべて駅逓司によって確定し、府藩県はその諸規則を守って、遠近の諸道を一般に取締まること、②駅郷の組み替えについては、駅逓司において取り調べ、その駅を支配する府県藩に諸書の調印を申し付けること、③駅々に付属する村々のうち、他の支配と入り交じっていたとしても、その駅を支配する府藩県において一手に取り扱うようにすること、④駅郷の者どもが訴訟や嘆願をするときは、その駅を支配する府藩県に訴え出るようにし、万一見込みがつきかねるときは、その支配からの添簡(そえかん)をもって駅逓司まで申し立てること、⑤駅郷の件について駅逓司へ呼び立てるときは、その者の支配の府藩県を通じて呼び立てること、万一至急のことで直々に呼び立てる際には、その旨をその前後に支配の府藩県まで申し達しておくこと、⑥駅々の廃置や道替えなどをはじめ、往来に関係する事件はすべて駅逓司に報告して取り計らうようにすること、の6か条が定められたのであった(『大磯町史』2 近世No.244)。ここでいう駅郷とは、宿駅と助郷を一体化した名称であろう。この駅逓規則では、駅郷をはじめとする街道の問題について、駅逓司府藩県との関係が明示されたのである。当然のことながら、駅逓を担当する役職は府藩県のそれぞれに置かれていた。

宿駅と助郷の抜本的な改革が試みられるのは、翌明治2年(1869)3月のことである。このときに出された「改正仕法書」によれば、その必要性について次のように述べている。「これまで宿々の問屋役人・助郷惣代どもの風儀が悪く、お互いの欺き、あるいは馴れ合いによって、いろいろと奸曲を生じ、雑費が多くなってしまうことが、すべての混雑のもとであるので、以来は宿・助郷とも一体に組み立て、掛り役人どもが一和して取締りをいたすようにすること」(『大磯町史』2 近世 史料No.65)。

このときの改革では、定助郷・加助郷・当分助郷などの区別はもちろん、宿駅と助郷村を分けること自体が廃止され、助郷村は「附属村」と称して宿駅と一体化することとなった。また、各宿駅には「伝馬所」が置かれ、問屋役人や助郷惣代という名称も「伝馬所取締役」と改称された。すでに先の「駅逓規則」でも駅郷の組み替えが明示されていたが、これはすなわち、付属村の組み合わせを新たに指定することを意味した。その基準として、東海道筋では1宿に付属する村々の合計高が宿も含めて一律に7万石と定められた。大磯宿には、相模国内では淘綾郡17か村、大住郡40か村、津久井県15か村、愛甲郡24か村が、また別に上総国(千葉県)埴生(はにう)郡46か村と市原郡の1か村が付属村となった(『大磯町史』2副読本参照)。村数は総計で143か村におよんでいる。

ところが、そもそもこうした編制そのものに無理があったようで、上総国埴生・市原郡の村々は、当初より苦情ばかりを申しつらね、結局うまいことを言っては延引を重ねていっさい助郷役を勤めなかった。そのため大磯宿の伝馬所では年寄の孫平らが連名で、支配管轄である小田原藩の駅逓掛りにこれを訴え出ている(『大磯町史』2 近世 No.66)。こうした傾向は何も大磯宿に限ったことではなく、三島宿(静岡県三島市)や平塚宿(神奈川県平塚市)・小田原宿(同小田原市)でも房総(千葉県)の付属村々が助郷を勤めないということで訴訟沙汰になっていた。房総の村々ばかりが役勤めを拒んでいるとはいっているものの、幕末に向けて遠隔地の村々に対する負担の拡大が恒常化していた現実を考えれば、そうした不満が一挙に噴出したものかもしれない。これらの争論は、とくに伝馬金の不納という形で尾をひき、明治6年(1873)には大磯宿・平塚宿・小田原宿・三島宿の4か宿が連名で訴訟をおこす事態となった(『大磯町史』2 近世No.74・75)。

結局、明治2年(1869)3月の「改正仕法」は付属村々の抵抗も大きく、混乱を極めていった。そこで明治政府は、翌明治3年3月、太政官符をもって駅法の再改正を布告し、同4月から再び宿と助郷をわけることとした。大磯宿では、当分助郷として、大住郡徳延(とくのぶ)村(神奈川県平塚市)・落幡村(同秦野市)等16か村と、淘綾郡西小磯村・山下村(平塚市)・二之宮村(神奈川県二宮町)等15か村が指定された(『大磯町史』2副読本参照)。当分助郷といっても、この場合は大磯宿に対する定助郷に値するもので、事実、これらはほぼ旧幕府時代の定助郷の村々に相当していた。駅逓司が主導した交通制度の改革は、旧幕府の制度を引きずっている限り、根本的な解決策にはならず、かえって過渡期の混乱を象徴する事態になったのである。より近代的で抜本的な改革が急務となっていた。

なお、明治3年の4月には、品川宿(東京都品川区)から大津宿(滋賀県大津市)までの本陣が合同で、存続のための処置を願う嘆願書を提出している(『大磯町史』2 近世 No.70)。御一新の後、各宿の本陣は、天皇東幸の行在所に指定されたりはしたものの、参勤交代がなくなるにしたがって自然と廃れていき、困窮の度合いを深めていった。だが、そうした願いに応えるまでもなく、同年閏1月には、この本陣という名目自体が廃止となったのである。そして、この駅逓改革の大きな目的のひとつは、ここにある「天皇東幸」、すなわち明治天皇が東京に行幸することにあった。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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